隠していたもの
私は隠すのが得意だ。
20歳の誕生日に母からもらった腕時計を落としてしまった気がする。その時計は気づいたら動かなくなっていたのに、私は修理に出せなくて、そのまま棚の奥に隠していた。それが半年前くらいのこと。
隠していたって、そこにあることに変わりはないのにね。むしろ、隠していると思っていることで、そこにあることを強く意識しているのに、ね。
もう捨てちゃいなよって言われるたびに、
捨てられるなら捨ててるよって思う。
隠していたもの、閉じ込めていたもの、閉じ込めざるを得なかったものと向き合うには、それなりの勇気とエネルギーがいる。
到底一人では無理だと思う。
安心して話せる場所、受け止めてくれる信頼できる人は限られている。
でも、いないわけじゃなかった。
ある人はいつも俯瞰している。
なんで、そんな冷静にメタな視点でそこにいるんだよって、おまえだけ安全地帯にいて、ごちゃごちゃ正論を振りかざしてくるなよって、
くそうざかった。
“降りてきてくれる”人がいる。
(意図していなくても、支援者が上に立ってしまうことが多いと私は思っている、その人もそれをちゃんとわかっているし、そう言っていた)
「こうやって話しているときはここで、2人で
抱えているわけじゃん?」
一緒に抱える、このときだけは、ここで話しているときだけは…なるほど。
この表現がとてもしっくりきて、とても好きだ。
支援者だって、人間で、自分の生活と人生があって、四六時中、その人のこと考えて、悩んでいるわけにはいかないもんね、
でも、その人のことちゃんと考えて悩むし、それは基本その人の前、その人と関わってる時間だけでも全然いいんだなと思った。
(そう意識しておくことが大事、きっとそれ以外の時間でも悩んでしまうので)
意識的に離れる時間を作る、自分の心を回復させるために、また元気になって一緒に抱えるために。ランニング、読書、睡眠、なんでもいい。
離れるということは贅沢だとやっとわかった。
そうやって、一緒に抱えてくれる人たちと、
隠していたことを少しずつ取り出していた。
今の話するよって今に連れ戻してくれる人も、
そこには…って一緒に味わってくれる人も、
とても救いだった。
どうしたらよかったのでしょうか、
と私は何十回も頭の中で反復させたそれを思わずこぼした。
きっぱりと、どうにもできなかったんでしょと言われた。
え?何を言ってるの?ってくらい毅然としていて、呆気にとられた。
どうにかできたならどうにかしたでしょ、あなたも周りもみんな、そうしたくてしたわけじゃないし、避けられるなら避けたはず、人間は案外どんな状況でもベターな選択をするんだよって。
なるほど、なるほど。じっくりとこの言葉たちを味わって、噛み締めて、お守りにして生きている8月。
その場で抵抗してみたくて、でも…とか必死に言ってみて、いやいや無理だよってきっぱり否定されたりしてね。
怖かったね、どうしようもできなかったねって
言ってくれた。私はなんて言ったらいいかわからなくて、黙って聞いていた。
しょうがなかったね、かわいそうだったねって
私はようやく言った、過去の私に、今の私に。
しょうがなかったね、かわいそうだったねって
その人も言ってくれた、過去の私に、今の私に。
話しちゃいけないこと、思い出しちゃいけないことだと思っていた。
でも、思い出すたび、生々しさや強烈さは薄まっていくんだよ、と教えてくれて、また話そうねって言ってくれた。
3日前、家族LINEに時計が動かなくなっちゃったんだけど、どうしたらいい?ってLINEした。
もう調べつくした時計の修理のお店が送られてきた。
少しずつ取り出していく。消化していく。
思い出して、呼吸が乱れるたびに怖かったねって言ってあげる。
どうしようもできなかったあのことたちを、
ちゃんとどうしようもなかったねって思えたらいいね、ついでにハグでもしてあげようか。