見出し画像

学校の『やらされる主体性』

今日はちょっと視点を変えて。
昨今、『主体的で対話的な~』とよく現場で言われます。
それを実現するために
結局やらされているんですよ、子どもたちは。
もちろん、一部の賢い子(学力があるという意味ではなく)は
上手く大人を操って(←ここ大事)、
主体的に対話をしているんです。

自主性の強制

おそらく、どの校種でもそうでしょう。
もっといえば、サッカースクールや
スポーツ少年団等も当てはまるかも。
いわゆる「けてぶれ」の連続。
(け:計画、て:テスト、ぶ:分析、れ:練習)
悪いわけではないんです。
効果的に、効率的にうまくできれば問題ありません。
でも…。気が付いたら
子どもたちが上るべき山を登らず、
隣の山を登っていた、なんてことも実際にはあります。

リスペクトの精神

海外教育は、教える⇔学ぶの関係性に
平等という考えが強く根付いていて
お互いをリスペクトしています。
ヨーロッパではそれが顕著ですよね。
ちゃんと子どもたちが自分のハンドルを握っているんです。
その分、多様な子どもたちが存在します。
それを受け入れる器が公教育にはありません。
(言い切っていいものかは別問題として。)

教える側のマインドは?

今の日本で生徒たちと平等な関係を築くことは
理想ではありますが、現実的には難しいところもあります。
いまだに「立場をわきまえろ!」と指導している
先生も少なくはありません。
だから、『指導』ではなく、『支援』という考え方で
『させる教育』から脱却を目指すべきだと思うのです。

学校という場から離れたからこそ見えてきたこと

新型コロナウィルスの影響で、
学校という場がどうあるべきかが注目されました。
それでもSociety5.0にはまだ到底到達できそうにありません。
2.0くらいな先生もいますから。
そう!だからここで
フリーランスティーチャーが活躍できるんです!
まだまだ広がる構想。
可能性を見いだしていきたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?