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「自分」の上位互換はいるに決まっている

どうも、とったんです。

あけましておめでとうございます。
といっても、新年のめでたさというか、お正月の気分が年々薄れている気がする。

こんな情勢だからめでたいめでたいとバカ騒ぎできない自粛ムードのせいかもしれないし、単に年を重ねすぎて珍しくなくなっちゃっただけかもしれない。二十歳過ぎたあとの誕生日に近い。
お年玉とか誕生日プレゼントとかもらわなくなったからってのもあるかも。
子どもか!いつまでたっても甘えんぼマインドおじさん。きもい。

新年を迎えても信念は変わらず、自虐と自己憐憫に満ちた自己完結おじさんとして今日も生きてます。人間そう簡単には変われないよ!

ネガティブ思考や自虐的な性格は今や「個性」として受け入れられている。なんだったらその極端すぎる発想は独自の視点として注目されたりする。
何かと共感を求められる世においてネガティブは簡単に普遍的に共感できる強い武器になりうる。
「頑張ろう!前向きに生きよう!」という、ともすればエネルギー消費の激しく疲れてしまう、本当はしんどいのを隠してしまうポジティブシンキングへのちょうどいいカウンターになっているしね。

世間の風潮、流行りの逆を行くことで「自分は他とは違う」、すなわち「個性」が主張できる。自分は少数派の考え、「これって私だけ?」という感覚は他と区別するにはうってつけな訳だ。

ただ、それは「ある集団とかその時代において」という但し書きがついていることは気を付けたほうがいい気はする。
もし、AとBの二つの選択肢があって、世間一般のほとんどの人がAを選ぶものだとする。この場合、少数派になりたければBを選べばいい。だけど、仮にとある100人程度の集団で「少数派になりたい」と思う人が60人くらいいたとしたら、その集団内ではBが多数派になってしまう。
そりゃそうだろうとは思うけど、逆張りで何かを主張・表現する人は往々にしてこの罠に引っかかっている。

何が言いたいのかというと、「世間一般ではこっちが選ばれがちだから、あえて逆を選ぶ」という安易な考えは却って没個性的になってしまうということだ。…この話、前にもした気がするなぁ。おじさんは同じ話繰り返しがちだから。

ではどのようにすればよいか。
選んだ過程や理由を明確にすればいい、ただそれだけである。

物事を選ぶのには思考過程、つまり考える順序やルールが存在している。
なんとなく選んだつもりでも、そこには無意識にその人の倫理・世界観が関わっていることが多い。
例えば「死刑制度に反対だ」という意見には「人が人を殺すことはあってはならない」という隠れた前提があるかもしれない。もしくは「罪の代償が死なのは残酷過ぎる」「自分が死刑にされる可能性を恐れている」などいろいろな理由が考えられる。

うるせェェェーッ!ごちゃごちゃ考えるのは苦手なんだよォォォーッ!!って人もいるかもしれないが、「まあ逆を突いとけばええやろ」って気持ちで没個性的になってしまうより、どういう考えでそれに至ったかの方が大事、という訳だね。
こういう考えで選んだ、って添えるだけで上位数パーセントの意見になれるんだからちょろいよ、っていうとバズり構文めいてるな?

『過程』や『理由』に重きを置く…なんかジョジョっぽいな。
ジョジョは基本的に「人間賛歌」だからね。

それはそれとして(やっとタイトルの主題に入るけど)、
例えどれだけ個性的な「自分」の考えが出せたとしても、やっぱり自分の上位互換がいるんじゃあないのか?という不安がぼくにはある。

自分で思いついた、自力でたどり着けたことって一見素晴らしいことのように思える。けど、そんなの圧倒的に長い人類史のはるか昔の偉い人がとっくに思いついとるわ!ってことがままある。
銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーも「すごい作戦なんて昔の人がたくさん作ってるしそれ引用すればよくね?(意訳)」みたいなこと言ってたし、刃牙シリーズの烈海王も「キサマ等の居る場所は既に――我々が3000年前に通過した場所だッッッ」って言ってるし。

歴史を引き合いに出さなくとも、同時代においても自分より頭のいい、なんだったら顔もよくて性格もよくて地位も名誉もある人なんてごまんといる訳で、その人たちが、何だったらその思いついた発想の一歩先の思考までたどり着いて議論を進めているかもしれない。

だとすれば自分は発言しなくてもいいんじゃないの?と悲観的になることがある。勝手に独り相撲してるだけだけど。

というかそれは恋愛にしてもそうで、もし好きな人ができても、その人に見合う他の素晴らしい人がその人の前に現れたら、それはその二人が結ばれるべきで、ぼくが立ち入る隙なんてないと思う(これは運命論めいてるな?)。だからどんな努力をしても無駄に思えてしまう。
だったらその素晴らしい人より先に素晴らしい人になって結ばれろよ!って思うかもしれないけど、ぼくとその素晴らしい人だとスタート地点が違い過ぎるからそこでもうあきらめてしまう。34.195kmからスタートのぼくとゴールから1mの相手とだったら勝負にならない、それくらいの差があるとぼくは思う。仮に同条件(容姿学歴収入的に)だとしても多分気配りとかのちょっとした差で負ける。ハナ差で負ける。選ばれないタイプだ。敗北者だぼくは。始まってない勝負で、しかももしもの話でなぜか負けていた。そして頑張らない言い訳だこれは。

まあそんな極端な例え話はともかく、自分と似たような性格で似たような思考を持つ人間は探そうと思えば案外見つかってしまうわけで、インターネットはそれを可視化させてしまった。ネットドッペルゲンガー、とでも言えばいいのか。いや、ネットの場合は画面の向こうの相手に勝手に自己投影してるだけ説もあるから一概に言えないか。
でも、そんなドッペルさん(仮)はひょっとすると自分より上なんだろうなと思ってしまう自分がいる。

他人と比べすぎィ!って開き直れたら楽なんだけどね。開き直りはたちが悪いって思うからぼくはしたくないけど。開き直ってるじゃん!?

何かと比べられる世の中で、自分から発信していくにはある程度のふてぶてしさみたいなのが必要なのかもしれない。
自分、なんでも知ってるし思慮深いですよー!って自分からアピールしていかないと、誰も歯牙にもかけないだろう。
「君、才能あるねうちに来ないか?」って誘われるのは結局外に身を晒した人だけだと思うし。内面だけで叫んでいても誰にも伝わらないし。
いやいや浅薄じゃん!ってツッコまれた時点で少なくとも読まれているわけですし。

だからといって露悪的になる必要はないけどね。何かを貶めたりする必要はない。何かに直球の憎悪をぶつければいいってもんじゃない(お前がそれ言う?)
承認欲求のために著名人を罵倒する書き込みをすると、待っているのは称賛ではなく訴状だからね今の世の中は。

己の無知を知ることは大事ではあるけど、知らないなら知ろうとして調べればいい。人に聞くなり本を読むなりすればいいわけでして。

恋愛の座席は椅子取りゲームであり早い者勝ちで先に結ばれた方が強い。
取り戻したり、奪い取ったり、先に好きになったのはどっち云々はともかく。
「例え上位互換がいたとしてもあなたがいいの」と言ってもらえる。
そんな愛され願望を持つのは甘えだろうか。甘えですね。
だからあざとく媚びるんですね。そろそろきついゾ。

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