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[00円: 詩的随想] 流れを遡って

1. 流れを遡って

流れを遡って泳いでいた。
それとも空を飛んでいたのか。

流れは勢いよく押し寄せてくるが、息を継ぐ必要はなかった。
その流れの中を、泳ぐように、飛ぶように、意志の力だけで遡り続けたのだ。

軽々と遡っていったので、どれだけの時間をそうして過ごしたのかは分からない。
ほんの数分だったのか、それとも永劫の時が幾度も流れ去ったのか。

気がつくと流れの源にたどり着き、金色に輝く仏の首と向き合っていた。
仏像の首ではない。

仏は首だけなのに生きていた。
肌の上に金色の鱗粉をたたえ、物言わずに何かを語っていたのだった。

2. 神戸から船に乗って

2004年の夏から一年、奥さんと二人アジアを回遊しました。

神戸を船で発ち、二泊三日で上海に着きます。

上海からは丸二日、列車に揺られて桂林に行きました。

そこから内陸へ、チベットを目指して雲南省へと入っていきます。

春城と呼ばれる省都・昆明(くんみん)、そして古い街並みの残る大理(ターリ)、麗江(リージャン)を経て、標高3,300メートルの香格里拉(シャングリラ)まで至れば、そこはもうチベット文化圏です。

長時間バスに揺られて疲れ果てていたぼくと奥さんは、バススタンドのそばの少し立派な宿で香格里拉の一泊目を過ごしました。

宿の建物の外壁には、巨大なチベットの仏画が極彩色で描かれています。当時不思議のきのこにはまっていたもので、その絵を見てぼくは「こんな絵を描くとは、何か薬物を使っているに違いない」と見当違いのことを思ったものです。

3. 寒い食堂の戦争ドラマ

中国・雲南省の辺境の地、香格里拉(シャングリラ) は、言わば芸名です。

もともとは中甸(ツォンディエン)という名前だったのを、2001年に観光客の気を惹くため、ジェームズ・ヒルトンのユートピア小説「失われた地平線」に出てくる理想郷の名前シャングリラに改名したのです。

夕方街に着いたぼくらは、宿に荷物を置くと夕飯を食べに外に出ました。もうすっかり暗くなり、十月ですが標高3,300メートルですから冬の寒さです。質素な食堂を見つけて入りましたが、その建物はの通り側は、扉も壁もなく開け放たれ、暖房もありません。

薄暗い店内で食べたのが、麺類だったか、ご飯と炒め物だったか、記憶にさっぱり残っていませんが、店内に置かれたテレビで太平洋戦争を扱ったドラマがかかっており、日本兵が残虐な悪役・鬼子として映し出されているもので、なんとも気まずい気分だったことはよく憶えています。

宿に戻ると、街外れで風が強い上、窓の建付けが悪く、隙間風で寒いのですが、電気毛布で暖まっていると、どこでもすぐ寝てしまうタイプのぼくは、すぐにぐっすり眠ってしまったのでした。

4. 万物の根源、金色の仏

壁には鮮やかな仏画が描かれ、隙間風で寒い部屋のなか、電気毛布にくるまってぐっすりと寝たときに見たのが、流れを遡る夢でした。

空を飛ぶ夢はときどき見るのですが、いつものように高く舞い上がったり、滑空したりはありません。体感としては泳いでいる感じなのです。けれども水のような感触はないし、息が苦しくなったりもしません。

夢ならではの、飛ぶと泳ぐが混ざり合った体感です。

そしてやがて現れるのは万物の源である金色の仏の首。ぱっと見は金に塗られた仏像そのものですが、金色の肌は柔らかく動き、生き生きと何かを語りかけてきます。

夢の中のぼくは、流れを受けながら風に逆らう海鳥のように一箇所にとどまって、その金色の首を、畏敬の念で見つめているのでした。

5. 夢見のあとで

遡り続けるその奔流が、この宇宙を成り立たしめるエネルギーの流れであり、その源泉に神々しい存在が鎮座していることは普通に納得できました。

あとにも先にもこんなに神がかった夢を見たことはこれ以外ありません。

けれども、なぜ金色の、しかも首だけの仏なのか、というのがそのときは疑問に思われました。

あとになってタイを旅しているときに、「あ、これか」と思いました。タイでは金色の仏像が多いのですが、それを絵に描くときに首だけ描くことも多いのです。

黒い背景に金色の仏の首。夢を見たときには忘れていましたが、以前にタイを旅したときの記憶が無意識に思い起こされていたのでしょう。

そして金色の仏から力強く噴出するエネルギーの流れですが、この流れは仏の善なる側面だけではなく、人間が抱える諸々の欲望をも含むものに違いないと、瞑想の練習を続けるうちに思うようになりました。

ぼくたちは気をつけていなければ、その時その時の欲求や衝動に流されて、ついつい愚かな振る舞いに及んでしまうものです。

この世界を成り立たせている力の流れに、ただ逆らうだけでは身が持ちませんが、ときにはその流れの源にまで立ち返り、善も悪も超越した宇宙の根本原理とでもいうべきものに想いを巡らせることも大切なことに違いありません。

夢に見た金色の首の仏は、阿弥陀さんだったのか、観音さんだったのか、それとも弥勒さんだったのでしょうか。

それがどなたであったにせよ、この世界の神秘を、漆黒の闇のなか金色に照らし出す類まれな存在が、ぼくの意識という幻灯機によって映し出されることになった、稀有の体験だったのであります。

(終わり)

[ヘッダ画像はshopify.comよりの借り物です]

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