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スマートフォンが子供の手に届くようになった昨今、若い世代がマルチタスクで集中ができないのではないかという疑問が巷で話題になっている。

確かに、最近は家族との時間を過ごしていても、家族に向いているのは耳だけで、目線の先は手元のスマホという光景はよくある(他人事ではない)。
時には、片耳すらイヤホンで塞がれている、そんな光景もよく見る。

なんだかなぁ、と思うこともあるが、それは本当に悪いことなのだろうか。
もしかしたら次世代では、我々のように”集中”を選ぶ人間こそが無能となってくるのかもしれない。

ということで、若い次世代の人たちを受け入れ、彼らの未来を想像してみよう。


ディスプレイに囲まれ、情報の海の中で彼らが行っているもの。それは「選択」。
数秒にいくつもの情報を閲覧している中で、自分が興味あるもの、友人が興味あるもの、これから流行り興味を持ちそうなものを敏感に「選択」している。

この「選択」の処理能力はかなりハイスペックだ。
また、その「選択」を身につける力も優れている。
いいモノはすぐに取り入れ、鮮度が落ちたモノはすぐに捨てる。

彼らの文化にはそう、「集中」というものはそもそも不要なのだ。
ひたすら「選択」の繰り返し。
それを一人ではなく、集団の中で分かち合い、多くの「選択」が寄せ集められることで、大きなモノや文化を産み出している。

ハッシュタグやバイラル動画がその類だろう。

彼らの世代は「選択と集中」ではなく「選択と集合」によって、何かを成し遂げているのだ。

消費者がそうであるなら、需要者もそうであるべきだろう。

職場が彼らたちで溢れてくる頃には、仕事を一人一人に課すことはもう時代遅れだろう。

Adobe Senseiのように、仕事の基本的なフレームワークは人工知能が用意してくれる。
人間はその中で「選択」を行い合う。数人の「選択」の「集合」によって、一つのプロダクトが完成する。
そしてまた次の「選択」がタイムラインのようにどんどんやってくる。

一見、流れ作業のように見えるが、「選択」によってプロダクトの最終形態は変わってくる。
彼らには責任が伴い、それがモノづくりに必要なものだとしたらやり甲斐はあるだろう。

もしかしたら完成すらなく、常にプロダクトたちは変化していくのかもしれない。

メールなんて文化もなく、メッセンジャーよりも更に進んで、本当に映画「her」みたいな音声でコントロール(選択)する時代も非現実的ではないだろう。

ただ、多くの「選択」をプロダクト(有効)と認めるのは、昨今同様「マイノリティ」だろう。
「マジョリティ」たちは新しいプロダクトのための起爆剤として重宝されるのか、バランスとして必要とされるのか、もしくは不要と扱われるのか。

それは、これからの私たちの選択にかかっているのだろう。


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