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【短編小説】竹輪を裏返せると思う?

 スーパーで買ってきたおでんに入っていた竹輪に見とれていた私に娘が「どうしたの?」と聞いてきた。
「ねえ、竹輪を裏返せると思う?」と私は言った。
「なにそれ? どういう意味?」
「どうもこうもなくて、そのままの意味? ねえ、出来ると思う?」
「やってみればいいじゃん」と高校生の娘は言った。「多分、破れるんじゃないかな」
「そうよね」と私は言った。「できるわけないよね」
「へんなの」
「私が聞かれたんじゃないのよ」
「どういうこと?」
「私の叔母さんで智子さんてのがいたの、あなたが生まれる前に死んだから知ってるわけはないけど。その人が言われたのよ」
「なんて?」
「だから、竹輪を裏返せると思う?って。知り合いのホモの人に」
「わけわかんない」娘はそう言っておでんのゆで卵に箸を突き刺した。「さっきから本当、わけわかんないこと言っておかしいよ。なんなの?」
 娘の言うことももっともだった。まったくわけが分からない。しかし叔母は本当にそう聞かれたのだし、思いもしなかった騒動に巻き込まれ、その後、放り出された。私が彼女からその話を聞かされたのは、二十年ぐらい前のことだ。私はまだ独身だったし、叔母も元気に働いていた。
    叔母は親戚の中でも変わり者の秀才で通っていた。子供の頃からどこか人とは違う問題児だったみたいで、彼女の兄である父からはそんな変わったエピソードをいろいろと聞かされていたが、私から見れば特に変な人でもなかった。叔母はいわば進みすぎていたので、父の世代の人からは受け入れがたい個性が目立っていた、ただそれだけだった。選んだ仕事にしろ趣味にしろそうだ。しかし二十歳年下の私の視点から眺めたら、まったく普通だった。たしかに少し素っ頓狂なところはあったと思うけど。
 叔母は国立の数学研究所に勤める研究者だった。しかし凡人である私にはそれがどんな仕事なのか想像もつかないし、当時もまったく理解していなかった。「専門はトポロジーなのよ」という叔母の言葉は覚えている。しかし当時の私の感想は、トポロジー? なにそれ? というものだった。
 学校の勉強を除けば、私は叔母から多くの影響を受けた。耽美趣味もその一つだ。今どきの言葉ならBLなのだろうが、当時はそう言った。叔母は私が五歳の時に実家を出て研究所近くのアパートで一人暮らしを始めたが、私はその数年後に叔母の四畳半をもらって、自分の部屋にした。半分、物置として使われていたので荷物が散乱していたが、押入れの奥に叔母が置いて行ったそんな趣味の本がしまってあり、多感な少女であった私に見つかった。
「ごめんね、わざとじゃないの」と後年、叔母は私に謝った。
「ううん、いい」私は言った。「智ちゃんのせいじゃないし」
 叔母とよく会っていたのは私も短大を出て、都内の会社に勤めていた頃だ。神楽坂を登り切った坂の上にあった古いアパートに彼女は住んでいた。敷地の隣には昔の金持ちの邸宅の広い庭があった。低い塀で囲われていたから庭木の美しさを覗き見ることはできたし、池に面していたせいで、大きなカエルが叔母のアパートの玄関先までよく顔を出していた。
「二丁目で知り合ったホモのカップルでね」と叔母は話し始めた。その夜、私は終電を逃して家まで帰れなかったので、神楽坂の叔母のアパートに転がり込んでいた。「今から、五年くらい前、まだ私が二丁目によく出入りしていた頃なんだけど……」
 もうこんな言葉は誰も言わないし、使わない。しかし叔母はオコゲだった。あなたはわからないよね。昔、私が若いころにはまだぎりぎり使われていたかな。ホモ、っていうかその言葉も今ではゲイだよね。ゲイの人たちのことを昔はオカマって言ったのよ。そのオカマにくっついている女の子のことをオコゲって言ったわけ。オカマにくっついてるからオコゲ。叔母はそんな人だった。そしてその二人はまさに叔母が、というより耽美趣味の少女が追い求めたカップルだった。ほどよく逞しいバレエダンサーとオーケストラでビオラを弾いている美少年の組み合わせ、そんな二人と叔母がどんなきっかけで知り合ったのか、詳しくは聞いていないけど、ある夜、二丁目の小さなバーでダンサーの男性が叔母に言った。「竹輪を裏返せると思う?」
「無理でしょ」と叔母は言った。「そんな柔らかいものじゃないでしょ」
「そう、そのとおり、でも、いや……」ダンサーは言い淀んだ。
「そういえば、彼は?」叔母が聞く。その夜はまだビオラの彼が現れていなかった。
「ああ、そう、来れないんだよ」とダンサーは言った。「裏返ったからね」
「どうしたの?」
「だから、裏返ったんだ」ダンサーはゆっくりと話した。
「どういうこと?」と私は叔母に聞いた。「裏返った?」
「言葉の通り」と叔母は答えた。「裏返っちゃったのよ」
 叔母はダンサーの彼に二人が暮らす部屋に案内された。マンションの前まで行ったことはあったが、中まで訪れるのは初めてだった。叔母は店を出た時はまだ話が呑み込めず、二人の私生活の場所に上がりこむのに心を躍らせていたが、ダンサーの妙に暗い表情と、訳のわからない言葉、おかしな挙動に、タクシーを降りる頃には尋常ではない事態が発生しているのを感じていた。ダンサーとビオラの彼が暮らす四谷のマンションの五階、その部屋に通常ならあり得ない怪異があった。若く、美しく、ビオラを弾く男の子が裏返って、風呂に浸かっていたのだ。
「何、なに、ちょっと、まったく訳が分からないんですけど」と私は叔母に聞いた。「裏返った? 人間が? 竹輪が?」
「チクワというのは話のたとえよ」と叔母は言った。「人間が裏返っていたの」
    肉塊だった。他に例えようがない。大きさはちょうど一抱えあるくらい。全体的にピンクで、白っぽい繊維質と、毛細血管の細く赤い筋がうねうねと肉塊の表面を這っていた。そんなおぞましいものがバスタブに八割がた浸かってぷかぷかと浮かんでいた。「こうなっちゃったんだよ、なぜか」とダンサーは途方に暮れたように呟いた。
「正直、気を失いそうだった」と叔母は私に話した。「あんなもの見たことなかったし、自分が一体何を目にしているのか、理解するのにしばらく時間がかかったし」
「そうでしょう、っていうか、本当なの、それ」
「もしかしたら、彼らが私を騙したのかも、からかったのかも、とは今でも思う。それは今でもわからない」叔母は言った。「でも、はっきりとしていることがあった。これは私の専門分野だなということ」
「どういうこと?」
「トポロジーで言えば、人間とドーナッツは同じ形なの」
「ドーナッツ? なんで」
「ドーナッツには穴が開いてるよね。それは人間も同じなの」
「同じ? 人間が?」
「口からご飯を食べたら、ウンチがお尻から出ていくでしょ。それは、一つの穴が人間の身体を貫いているから。この穴が、というより管と言ったほうがいいけど、どこかで切れてたり、詰まっていたら人間は死んじゃうでしょ。そんな形を単純化して考えれば、真ん中に穴が開いてるドーナッツと、人間は図形として同じ形なのよ。わかる?」
「ええ、ええと……」
「二次元空間に生きている人間がいるとすると、こういうふうにはならないわけ。だって身体の中を貫く管から栄養を摂しようとしたら、身体は二つに分かれちゃうからね。サナダムシみたいに口と肛門が同じにならなければ生きていけないはず。でも三次元に生きる人間はそうはならずに身体を口から肛門まで管が貫いていても生きている。つまり、やりようによっては、裏返すことも不可能ではない。靴下や手袋を裏返すように、やりようによっては」
「でも、あるわけない」私は言った。
「まさかこんなことになるなんて……」ダンサーは風呂の床に膝をついた。
「何をしたの?」叔母は聞いた。
「普通に、セックスをしただけだ。こいつが一か月もの演奏ツアーがあって、それから帰ってきたのが、一週間まえで……」とダンサーはうな垂れつつ言った。「いつもより、激しいものだったとは思う。久しぶりだったから、それは仕方ないだろ。確かに抜きにくかった、そう、いつもよりすごい締め付けだった、とは思う。俺も強引に抜いたのは確かだ。そしたら、こいつが、ああ、ああ、裏返る~とか言い出して、でも、そんなの信じられないだろ、俺はそのままシャワーを浴びに行って、十五分ぐらいかなあ、それぐらいして戻ったらベッドの上にこれがあったんだ」
「つまり、これは腸の内壁なのかしら?」
「そうなのかな、やはり」
「でも、息は?」
「そこのホースで」
 バスタブの横にホースが垂れ下がっていた。その一方をよく見ると肉塊の中に吸い込まれている。人間は腸で栄養を吸収している。普段、腸は管の内側の壁として機能し、食べ物の中の養分を摂取し、排泄物を外に送り出している。たとえそれが裏返って身体の外側に来ても機能は変わらない。ただ乾燥しやすいのでバスタブに水を張って漬け、表面の腸に栄養を吸わせている。
「吸わせるって、どんな風に」と私は聞いた。
「彼はやって見せてくれた。牛乳と蜂蜜を腸のヒダヒダに注ぎかけてね。すると肉塊がぶるんと震えて、確かに栄養を取り入れてるようには見えた。排泄物もバスタブの底に少しづつ溜まるので、たまに栓を抜いてシャワーで全体を洗っている、と言っていたかな」と叔母は缶ビールを一口飲んだ。「今でも本当に見たのか、信じられないんだけど」
「どうしたら」牛乳のパックを注ぎ終えるとダンサーは言った。「病院に連れて行けばいいのか、どこか大学の研究施設に連れて行けばいいのか、本当に、どうし……」
 すると「駄目ー!」という声が狭いバスルームに響いた。ビオラの男の子の声だった。
「聞こえるの?」叔母は言った。
「ああ、大きな声を出せば、なんとか話もできる」
 そして叔母は裏返ってしまったビオラの男の子と話したという。その内容とは、病院なんかに連れて行かないでくれ、しばらくこのままでいさせてくれ、そのうちどうにかして元に戻るかもしれない、その時までこうして静かにいさせてくれ、そんな声が少しお相撲さんみたいな籠った声ではあったけど、聞き取れたという。「私もどうにかして戻れる方法を考えてみる」と叔母は二人に約束し、その夜はそれで帰ったという。
「ええと、まだ少し、よくわからない」と私は叔母に聞いた。「人間が裏返る、裏返る、ええと、本当にそんなことがあるとして、つまり、どうなるの?」
「単純な話よ。今まで内側だった腸の内壁が外側になって、外に面していた皮膚が内側に来る。腕とか脚とか、頭なんかが全部、内側に、内向きにぐるっと裏返っているわけ。空気を取り込む肺は行き止まりで一直線の管になってないから、外側には来ていない。腸とか、胃や食道が外向きになっているわけ。ただそんな区別はつかなかったけど」
「で、叔母さんはその後、どうしたの?」
「考えたわよ」と叔母は言い、飲み干した缶ビールをテーブルに置いた。「まず、そもそも人間が裏返るなんてことがあるのか、いや、人間の身体とはどんな構造になっているのか、図書館に行っていろいろと本を漁って調べてみた」
「でも調べたって、そんな」私も二本目のビールを開けていた。
「例えば、靴下は裏返せるけど、鉄パイプは簡単には裏返せない。ていうか、まず無理。それはなぜだと思う?」
「硬いからでしょう」
「そう、鉄パイプはとても硬くて、まったく裏返すことはできない。じゃあ、人間の身体がそんな硬いかといえば、そんなことはない。腕や脚ならともかく、腸そのものはすごく柔らかいから、多分、取り出したら裏返せるでしょうね、やったことないけど」
「でも、それとこれは違うような」
「それに腸は五、六メートルもの長さがお腹の中に入っっていて、蠕動運動で食べ物を吸収しながら動かしている。肛門のほうにゆっくりと送っている。この動きというのは、全体でみればバラバラなんだけど、もし、何らかのきっかけで動きが揃ってしまったら……」
「ええっと、どうなるの?」私は聞いた。
「つまり、どうなるんだ?」とダンサーは聞いた。二度目に二人の部屋を訪ねた、一週間後のことだった。
「もしかしたら、外部からの刺激で、まったくの偶然で動きが揃ってしまったら、腸のすべてを裏返すような、力強い動きになったかもしれない。だって、もともと人間の腸はそういう、男の人同士が愛し合うようには作られてないもの」
「そりゃそうだが」
「薬を使ったりは?」
「いつもセックスの前には浣腸をしてきれいにしているけど」
「それも何かの原因になっているのかも、もちろん、こんなのは素人の推測に過ぎないんだけど」
「じゃあ、どうしたら、元に戻る?」
「ええと、それは」と叔母は言い淀む。「わからないわ」
 ただ、ダンサーもあまりの事態に驚愕してこの二週間、ただ事態を見守り、おろおろしていただけだった。解決策をまったく試していない。「もしかしたら」と叔母は言った。「少し手荒なことをしてもいいのかも。ねえ、そこのホースを入れたのはいつ?」
「翌日だな。ベッドの上だとすぐに乾燥しちゃうんで風呂に浸けたんだけど、それじゃあ、空気が行かないような気がして、いろいろと隙間に手を突っ込んだら、奥まで通じる穴があってそこに突っ込んだ」
「私も考えたんだけど、もし、身体が全部、完全に裏返ったとしたら、声は出せないんじゃないかって思うの。喉から口まですべて裏返ってしまったら声帯を使って声を出すことは無理じゃないかと」
「ああ、そうだな、そうかもしれない」とダンサーは少し表情を明るくした。「つまり」
「つまり、彼の身体は完全に裏返っているわけではなく、長い腸は裏返ったかもしれないけど、胃か食道のあたりで止まっていて、肩から上、顔のあたりはただ内側に取り込まれているだけなのでは? とこれは憶測なんだけど」
「どうなんだ?」とダンサーが呼びかけた。
 するとバスタブに浸かった肉塊から「そうかもしれない」と声が返ってきた。「喉のあたりまでの感覚は以前のままだし」
「この私の見立ては多分、間違ってないと今でも思うの」と叔母は私に言った。「五、六メートルの長さの腸がもしすごい勢いで裏返ったら、残りの身体は例え表のままでもそれに巻き込まれてしまうのではないか、だから、逆に強い力でひっくり返せば、もとに戻るのではないか、うん……」
「やってみたの?」私は聞いた。
「うん、二人がかりでやってみた。一人じゃ無理なのよ、どう考えても。なんてったってまったく掴みどころがないし。ふにゃふにゃに柔らかい、そう、まるでスポンジみたいな柔らかい肉がただどこまでも折り重なっていて、どこをどう掴んだらひっくり返せるのか、探り探りやってみるしかなかった」
 ダンサーがホースを突っ込んであるあたりに腕を差し込んでみたが、肩まで飲み込まれてしまった。しかし彼はバスタブに寄りかかった体勢のままさらにじたばたと藻掻いた。
「あの時、とてもその場では言えなかったけど」と叔母は私に言った。「彼の横顔が肉塊にぐいっと押し付けられて、それでもひるまずに奮闘する彼の姿を横で見ていて、美しいなあ、これが真実の愛よね、と思ったのよ」
 私はくすりと笑った。「それは言えないね」
 時間にして五、六分はバスルームの中での格闘は続いた。「よし、掴んだ」とダンサーが言った。
「掴んだ?」
「中で奴の手を掴んだ。このまま引っ張り出す。ちょっと、俺の腕の周りをめくってくれないか?」
「やってみる」
 叔母も二人に近づき、浴室の床に膝をついた。ダンサーが差し入れている右腕に添うようにして手を入れ、めくり返そうと力を込めた。中の腕を引っ張り出そうとするダンサーと、その動きとは逆に肉を押し返す叔母の二人で協力して、ビオラの彼を助け出そうとした。しかし、びくともしなかった。一時間近く、バスタブの中の水を跳ね飛ばしながら二人で押したり引いたりと肉の塊と闘ったが、事態はほとんど変わらなかった。ダンサーはついに掴んでいたビオラの男の子の手を滑らせ、バスルームの中で尻餅をついた。
「私と彼はもうぐったりとして、何も言わずに顔を見合わせることしかできなかった」と叔母は言った。「でも、何も収穫がなかったといえばそうでもなく、内側に取り込まれてしまったビオラの子の手を掴んで引っ張ることはできたし、もし、これをもっと強い力でやれば、元に戻せるかも、そんな希望の光は見えたわけよ」
「希望なのかな……」私は言った。
「その夜は、彼らの家に泊めてもらったんだった。なにせ夜も遅くなってたし、タクシーを捕まえれば自分のアパートまでそんなに遠くもないんだけど、服が濡れてびちゃびちゃになってたし、着替えを貸してもらって着ていた服は洗濯して、シャワーも浴びさせてもらって……」
「シャワーって、ビオラの子が風呂に浸かってるんじゃないの?」
「だから、浴槽には入らずにその横でシャワーだけ浴びさせてもらったの。だって、彼は肉の塊でこっちを見ることもできないんだから、別に何とも」
「何ともあると思うよ」私は言った。
「まあそうね、今から思えば物凄く変な体験よね。裏返った腸のすぐ横で裸になってシャワーを浴びたんだから」
 しかし叔母が彼ら二人と会ったのは、その夜が最後だった。直後、叔母は数学の学会に出るため一か月ほどフランスのリヨンに滞在していたので、彼らと離れざるを得なかった。日本に戻り、四谷のマンションを訪れた叔母が見たのは、からっぽの部屋だった。一階の管理人室にいたお爺さんに事情を話して中を見せてもらったのだが、二人が暮らし、叔母も二回ほど訪れた部屋はものけの空だった。「田舎に帰る、と言ってたよ」とお爺さんは言った。
「私のこと、……誰か訪ねてくるとか、何か言ってませんでした?」
「いや、何も。急いでいるみたいで、そそくさと荷物をまとめて出て行ったな」
「えっとじゃあ、これで終わりなの?」と娘は言った。「なにそれ?」
「叔母さんが実際に見聞きしたのはこれだけよ。でも、そのまま知らんぷりしたわけじゃない。どうにかして二人と連絡を取ってビオラの彼が元に戻れるよう協力するつもりだった。しかし二人はそのまま消息知れず。バレエダンサーは所属していたバレエ団も退団していて、事務所に直接訪ねて行ったけど、引っ越し先を教えてもらうことは出来なかったって。今ほど個人情報にうるさい時代ではなかったけど、熱狂的なやばいファンか何かと思われたみたいで、同じように田舎に帰って家業を継ぐようですよ、とだけしか教えてくれなかったみたい。ビオラの彼はどこのオーケストラにいたのか詳しくは聞いてなかったから、問い合わせようがなかった。二丁目のお店にも顔を出して、彼らのことを聞いてみても二人のことを知っている人は多いんだけど、どこに消えたのか、誰も知っていなかったみたいで」
「だから、この話はこれでおしまい」と叔母は私に言った。「二人がこの先どうなったのか、知りようがない」
「ビオラの彼は元に戻れたのかな?」
「どうかな?」と叔母は言い、ビールを飲む。「私は、もっと大勢で引っ張れば裏返った状態を元に戻せるような気がしていたのよ。つまり、丈夫なロープを中に差し入れてビオラの彼に掴んでもらって、そのロープの周囲を五、六人が腕を突っ込んでひっくり返せば、元に戻るんじゃないかって」
「でも、本人はそんな姿を誰にも見られたくなかったのかもしれないね」私は言った。
「そう、そうだったかもしれない」と叔母は言った。そしてまた一口ビールを飲み、ふううと息をついたのだった。
 その後も私は夜遊びして終電を逃すたびに叔母の部屋に泊めてもらった。そして「二人の消息は?」と何度も聞いたが、「全然」という答えしか返ってこなかった。「それに、最近はあまり二丁目にも行かなくなったんだ」と叔母は言った。「なんだか、覚めちゃったのよね」
「その後、叔母さんは」娘が言った。
「そう、子宮癌が見つかってね」
    研究所の健康診断で人間ドックに入ったところ、叔母に子宮癌が見つかった。「私に子どもなんか出来るわけなさそうね」と言って叔母は手術し子宮全摘出となったのだが、一年後に転移が見つかった。まだ四十八歳の若さで叔母は旅立った。私は休みのたびに仲の良かった叔母を見舞い、元気づけていたが、徐々に痩せていく彼女を見るのは正直、辛かった。叔母の死後、私は叔母が住んでいたアパートの大家に直接交渉して、名義を書き換えただけで、叔母の部屋にそのまま住むことにした。「悪いんだけど、私の荷物、処分してくれる? 本や好きなものは貰ってくれてもいいし、捨ててもいいし」と病床の叔母に言われていたが、廃棄したのはほとんどない。本は私の趣味の範囲だったし、冬用のコートはぴったりのサイズだった。捨てたのは下着ぐらいだ。今の夫と知り合ったのは、その後だ。友達の紹介で出会い、しばらくは叔母のアパートで同棲し、妊娠の発覚とともに今のマンションに移った。その時はさすがに叔母の荷物の大部分は処分した。しかし段ボール十箱分の本や映画のソフトは引っ越し先に運び、今も寝室のベッドの下にある。
「もしかしたら」と娘はおでんのこんにゃくを箸でつまんで言う。「そのビオラの彼は今も裏返ったままなのかもしれないね。どこかの家のバスタブに浸かったまま。そしてその傍にはバレエダンサーが寄り添って」
「そうかもしれない。それもあるかも」
「でも、一番可能性があるのが、ただの悪ふざけかもしれないってこと。騙されたのよ」
「誰が誰を騙したの?」
「ダンサーの人が叔母さんを騙したのかもしれないし、叔母さんが小説のネタか何かで母さんをからかったのかもしれない」
「叔母さんは嘘をつくような人じゃないし、私をからかって楽しむようなこともしないと思うけど」と私は椅子から立ち上がり、お茶を淹れた。「真実は闇の中よ。結局、本当のことなんてなにも分からないわ」
 玄関が開く音がし「ただいま」と夫の声がした。「あれ、早いね」と娘が言う。
「どうしたの? 遅くなるっていうから、晩御飯の用意してないけど」居間に入ってきた夫に私は言う。
「ああ、悪いね。思ったより早く終わったから、外で食べないでまっすぐ帰ってきた」
「だから晩御飯の用意、何もないよ」
「何でもいい。カップラーメンでも何でも」と夫はネクタイを緩めつつ言う。「そっちは何を?」
「パックのおでんがあったから、二人でそれを食べたの」
「残ってない?」
「あるよ」と娘が言った。「チンしとくね」
 夫は私たちが食べ終えたばかりの食卓に座って、おでんとパックのご飯の夕食を食べ始めた。
「お父さん、今、お母さんと智子叔母さんのことを話してたの」
「ああ、神楽坂の」と夫は言う。「俺も直接は会ってないけどね」
「もう少し広いアパートだったら、あのままずっと住んでもよかったんだけど。私なんか職場まで徒歩で十五分だったし」
「そういえば、玄関先によくでっかいカエルが現れたなあ。それで思い出したんだけど」と夫はくくっと笑う。「あのカエルを見て子供の頃を思い出したんだ。小学生ぐらいだったか、家の近所の田んぼでカエルを捕まえて身体を裏返せないかと肛門に指を突っ込んで、ぐいっとやったことがあって…」
「ええっ!」と私と娘は声を上げた。
「小学生か幼稚園くらいの頃だよ。そんなガキだったってこと」と夫は竹輪を頬張りながら言う。「もちろん、そんなこと出来るわけはなくて」
「あたりまえじゃない」と私は言った。「竹輪を裏返すことだって出来やしないんだから」                                                                                                                                            

                                   (了)


 

 
 

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