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【短編小説】暗闇を抜けて漆黒の中へ

 泉慎太郎は学校の成績がよく、顔立ちも整っていたが、性格に難があったので女の子にはもてなかった。自惚れている、思い上がっている、上から目線だと周りから思われていたのだ。慎太郎が自分に向けられているそんな視線に気づいたのは高校三年の夏で、修正するにはもう遅かった。だから彼は開き直った。もうすぐ俺は東京の大学に行く、こんな田舎の町なんか俺の方から捨ててやる、そう一人で誓い、高校の卒業式に出席した時にはホロリとする感情さえなかった。
 彼が入学したのは都内の一流私立大学だった。学校から徒歩五分の広いマンションに荷物を広げた。当然、親からの仕送りに頼っていたが、医大の教授である父は世間的にも名が知られていた。海外の医学賞を貰ったこともあり、テレビの医学番組に解説者として出演するのも度々だった。ただ慎太郎は医学の道に進むつもりはなかった。そこまでの学力はなかったし、もともと自分は医者には向いてないと思っていた。父と母の様子を見てきた彼の目には医者の仕事は魅力的に映らなかった。慎太郎は自分にはもっと別の道がある、そう考えていた。
 しかし大学で映画のサークルに入ったのはまったくの偶然で、たまたま呼び止められ勧誘のビラを渡された上級生の女子に一目惚れしたからだった。彼女、真梨子は自分でもシナリオを書いている映画監督志望の二十歳の女の子だった。「すいません、俺なんかが入部していいんですか?」と聞く慎太郎に真梨子は「君、映画は好きなの?」と聞いた。
「普通に見ますけど、もの凄く好きかといえばそうでもないです」
「正直ね」と真梨子は言った。「私も映画は好きなの。でも、本当のことを言うと映画が好きっていう奴は嫌いなんだ」
 この女性のことをもっと知りたい、慎太郎はそう思った。
 そのサークルは毎年秋の学園祭に向けて自主制作の短篇映画を自ら撮り、上映するのを目的としていた。男が五人、女が二人、たまたま慎太郎の学年からは彼一人だけの入部となった。「新入生は毎年、俳優をやってもらうが覚悟はいいか?」と部長の岸和田は慎太郎の肩に手を置いて言った。「大変だぞ、泥の中を転び回ったり、熊と戦ったり、戦車に突っ込んでいったり」
「すいません、今すぐ退部します」
「部長、脅かさないで」と真梨子が言う。「大丈夫、今年シナリオを書くのは私だから」
「はあ」と慎太郎は曖昧に言った。
 彼らの活動とは実際の映画撮影を別にすれば、ただ集まってくだを巻くことが主で部室でDVDの映画を上映することさえ稀だった。しかし慎太郎はこんな下らない日々こそが憧れの大学生活にも思えて満足していた。サークルの上級生に誘われて大学近くの雀荘をはじめて訪れた時は嬉しくてたまらなかった。
「泉君、断ってもいいんだよ」と真梨子に窘められたが、慎太郎は自分でも気がつかないくらいににやけていた。
「大丈夫です、真梨子先輩」と彼は言った。「田舎者なんで最初、浮かれてるだけです。少ししたら落ち着きます」
「それならいいけど。私の学年で、一年の最初から遊びすぎて進級も出来なくて大学にこなくなったって奴、何人もいるから。新宿のホストになったのとか」
「先輩の彼氏ですか?」
「違うよ」と真梨子は言った。
 入学して二ヶ月もすると慎太郎の身体の細胞はほとんど入れ替わった。田舎の高校で思い悩んでいた以前の彼は更新された。東京の騒がしさと賑やかさにも順応し、一人暮らしの不便さを感じる暇もなく日々の楽しさを満喫していた。しかしそれも夏休みに実家に帰省するまでのつかの間の自由でしかなかった。慎太郎はまったくわけが分からなかった。「映画のサークルに入ってね、毎日楽しくやってるよ。自主制作の映画を撮るサークルなんだけど」と話したところ、母親の顔色が変わった。瞬時に、さっと険しくなった。
「そんなの辞めなさい」と母親は言った。
「え? 何が? 何のこと?」
「そんなサークル、今すぐ退部して」押し殺した声だった。
「いや勉強も普通にやってるよ、単位の取りこぼしとかもないし」
「辞めなさいったら、辞めなさい」と母親は睨むように慎太郎を見る。「いや、でも母さん」と慎太郎は言ったが、彼女は聞く耳をもたなかった。「言うことを聞きなさい!」と声を張り上げた。
「・・・・」慎太郎は黙るしかなかった。もちろんその後も何度か食い下がったが、「言うことを聞かなければ仕送りを止める」とまで宣告されてしまったら口をつぐむより他に選択肢はない。父親に相談したのは、日曜日の午後だった。母親は買い物に出かけていて家を留守にしていた。
「ああ、そりゃあ、そうだな」と父親は言った。「言うことを聞かなくちゃ駄目だな」
「子供じゃないんだけど。なんで学校のサークルのことまでそこまで言われなくちゃならないのか、まったく意味不明っていうか」
「意味はあると思うぞ」と父は書斎の机の上に積み上がった書類の束の間から慎太郎を見て言った。「意味はあるんだ。ただ、母さんはそれをうまく説明できないだけなんだ。分かってやれよ」
「説明できないのに理解できるわけなんてないよ」
「それもそうだな」父親は立ち上がり息子に歩み寄る。「さすがに母さんもお前の学校の中まで立ち入り調査はしないだろうから、口だけでいい、辞めたことにしておけ。そのうち、ちゃんと理由を説明させるから」
 慎太郎はまったくわけが分からないまま帰省を終え、大学に戻った。父の忠告どおり母親には「映画サークルは退部したよ」と報告したものの、帰省する以前のままの生活に戻った。朝、家を出て大学に向かう。授業に出て単位を取り、午後は部室に顔を出す。どこにでもいる大学生の生活だった。慎太郎が望んでいた東京での暮らしそのままだから失いたくはない。母親は何度も電話をかけてきた。「本当に辞めたんでしょうね?」「うん、辞めたってば」と繰り替えされる会話が慎太郎は苦痛だった。生活費はすべて仕送りに頼っていたから必要な嘘だが、慎太郎の良心をぎりぎりと苛んだ。
「泉君、どうかした?」と問いかけてきたのは真梨子だった。「夏休みが終わってから少し何だか、暗いような・・・」
「別に変わりませんけど」慎太郎は答えた。
「それならいいけどね」
 慎太郎は努めて以前と同じように振る舞っていた。しかし無理はあった。真梨子はそんな慎太郎のぎこちなさを嗅ぎつけたのだ。慎太郎は彼女の顔を前ほどまともに見れなくなっていた。「今ちょうど君を主役にシナリオを書いてるからさ、出来上がったら読んでよね」と話しかけてくる真梨子と接している時には、思いが溢れてきそうになる。母親から反対されましたなんて恥ずかしくて自分の胸に留めておくしかないのに、彼女には弱い自分を見せてしまいたくなる。しかし慎太郎は彼女に相談することはなかった。その代わり、長年世話になってきたある大人を前に思いを吐露してしまった。
 麻生医師は泉家のホームドクターで、慎太郎も子供の時から診て貰っている開業医だった。父親の友人でもあり、付き合いは家族ぐるみだったが、子供がいない彼からすれば慎太郎はたまに会う我が子のような存在だった。慎太郎は大学の入学式にも麻生医師から贈られたブレザーを着て出席した。血縁関係こそないが親戚のような間柄だった。「用事があって東京に出てきた。飯でも食うか?」と誘われて呼び出されたホテルのレストランでのこと、慎太郎は「先生、実はさ」といきさつを話した。
「それはそうだな」と麻生医師も父親と同じように口ごもる。
 慎太郎はこの人は自分の知らないことを知っている、と察知した。「ねえ、酷いと思わない?」
「確かに酷いな」と医師は言う。言いながら、慎太郎に視線を送る。何かに戸惑っている。「確かにそれじゃあ納得しないだろうな」
「まじで母さんの頭がおかしくなったのかと疑ったよ」慎太郎は言う。向かいの麻生医師の背後に小さなステージがあり、髪の長い女性がピアノを弾いている。艶やかで真っ直ぐな黒髪が真梨子を連想させた。「おかしなサークルもあるからね、パチンコ研究会とかアイドル研究会とか。そんなのに比べたら至って普通というか、昔からよくある普通の学生サークルだから、いったい何が気に入らないのか。卒業生の中には映画会社とか、広告代理店に入った先輩もいるみたいだし」
「それが目当てだったのか?」
「全然ちがうよ、違うって」慎太郎は両手を広げて言った。少し大げさな仕草だったのか、ピアノを弾いている女性と目が合ったような気がした。「ただの大学生のお遊びサークルだよ。だから余計に母さんの気持ちが理解できないっていうか」
「んん」と医師は喉の奥で小さく唸る。「分かった。この件は俺が預かる」
「預かる?」
「また後で連絡する」
 一週間後、麻生医師からメッセージが届いた。「ここで待ってる」と指定されたのは新幹線の駅だった。慎太郎の地元より二つ手前の、小さな街にある各駅停車が停まるだけの駅だった。慎太郎は指定時刻の三十分前に新幹線を降り、高架の駅の階段を下った。九月の夕方で、まだ蝉が鳴いていた。駅前のロータリーを見回すと、麻生医師の車がすでに待っていた。トヨタの大きなSUV。
「ごめん先生、待たせた?」
「いや今来たところだ」麻生医師は言い慎太郎を助手席に乗せると荒っぽく走り出した。「キャンプに行くぞ」
「キャンプ? なんで?」
「今流行ってるからな、ソロキャンプ」
「二人だけど」
「細かいことはいい。道具も二人分あるしな」そう言い、六十代の開業医は後部座席を顎でしゃくる。「スーパーで食材も買った。ステーキを焼いて食おうか」
「いいけど」慎太郎は言う。「なんだか急だね」
「キャンプ場まで二十分ぐらいだ」
 慎太郎は車の窓を開ける。九月にも関わらず熱の残っていた空気が徐々に冷えたものに変わっていくのが皮膚に感じられる。車は市街地を抜け、山に向かっている。大柄なSUVはつづら折りの山坂道を駆け登っていく。さっきまでの新幹線の高架や街の景色を窓の遠くに見下ろしている。エンジンの音が低く唸り、慎太郎の身体も左右に振られて人形のように揺れる。慎太郎は麻生医師に話したいことがあるのに話のきっかけが見つからず黙っているしかなかったが、今日ばかりは予感があった。母親から受けた訳の分からない仕打ちの謎が解けるのではないかという期待、それと不安だった。
「そういえば、昔、来たことがあるんだが、覚えてないか?」医師は聞いた。
「え? このあたり? 覚えてないなあ」
「十五年くらい前だったかな。冬はスキー場になるんで、夏と冬にきてるぞ」
「覚えてないよ、そんな昔のこと」
「聞くが、お前の一番古い記憶って何だ?」
「え? 一番古い? ええと、何かな」慎太郎はもう一度、「ええと」と口ずさんだ。「何だろう、幼稚園のころの、なんだったかなあ、運動会かな?」
「本当にそれか?」
 慎太郎はステアリングホイールを握る医師を見た。詰問されたように感じたのだ。「先生、それって重要?」
「重要だな」
 麻生医師はじっと正面を見据えたままだったが、はっきりとした口調でそう言った。慎太郎は頭の中で医師の問いかけを繰り返す。一番古い記憶? 本当に幼稚園の運動会だろうか? そんな映像が記憶の断片として垣間見える気がするのだが、おぼろげな幻のようにも感じる。もう一度考える。しかし何も出てこなかった。車はキャンプ場に着いたようだった。砂利敷きの駐車場にゆっくりと入っていった。医師は他に十数台停まっているだけの広い駐車場の端にSUVを停める。「キャンプサイトまで少し歩くんだ。荷物はお前が運んでくれ。俺は受付を済ませてくる」そしてそう言い、車を降りて歩いていく。
 慎太郎は車のリアハッチを開けて荷物を引っ張り出した。何を持っていけば分からないから、タイヤが二つ着いて折りたたまれていたキャリーを開き、とにかくキャンプに使いそうな道具を引っ張り出して積んでいく。乗せただけだと落ちそうだからゴム紐で固定していると、麻生医師が戻ってきた。
「A6という区画だな。ここから少し歩くけど、静かな方がいいだろう」
「先生、これだけでいい? 他にも持っていく?」
「足りるだろう。忘れたらまたくればいいさ」
 二人は砂利の坂道を歩いて登っていく。駐車場近くには家族連れのテントがいくつも並んでいたが、五分も坂を登ると人の姿は消えた。リフトの支柱だったらしい塗装が剥げて朽ちかけた鉄柱の下をくぐり、広い芝生の広場につく。「よし、さっそく設営だ」
 慎太郎はキャンプなんて初めてだった。記憶にある限りでは。もし小さな子供のころに両親や麻生医師とここにキャンプに来たことがあるとして、それが母の理不尽な要求と何か繋がるのだろうか?
「ねえ先生、さっきの質問だけど。一番古い記憶は何かって言う」
「ああ、分かったのか?」
「いや分かんないんだ。小学生にころに友達と校庭でドッジボールをしたのは覚えてる。でもそれって多分、三年生ぐらいだよ。もっと古い記憶って・・・・」
「ないだろう?」
「え?」
「一年生より前の記憶はないだろう。俺が消したからな」
 慎太郎はテントにポールを差し込んでいたが、手が止まりただ「え? それって・・・」と言葉も出てこなくなった。
「覚えてないだろうな。俺がお前の記憶を操作して消したんだ。だから忘れていて当然なんだよ」
「なんでそんなこと・・・・」
「それは話せば長いんだが、ああ、そうだ。薪を買ってなかった。買ってくるからテントを二つ、ちゃんと建てておいてくれ」
 麻生医師は坂道をゆっくりと下っていった。彼が両手に薪の束をぶら下げて戻った時、慎太郎はまだ椅子の組み立てに苦戦していた。二張りのテントとテーブルは設営されていたが、アルミパイプとキャンバス地の椅子の組み立てに四苦八苦している最中だった。「お前って、意外に不器用だったんだな」と医師は言い、代わりに素早く二脚の椅子を設置した。
「じゃあ、さっそくステーキを焼くか」
 陽が暮れはじめる。蝉の声が徐々に静まり、鈴虫の鳴き声に変わっていく。医師は二人の間にステンレス製の焚き火台を置き、火を熾す。最初は小枝から、だんだんと太い薪に炎を移していく。あたりはすっかり暗くなる。麻生医師は額にヘッドライトを灯し、LEDの明かりでオーストラリア産の牛肉を焼きはじめた。
「先生、ご飯は炊くの?」慎太郎は聞いた。
「米も用意してきたがもう面倒くさいなあ。冷凍のフライドポテトが袋いっぱいあるからそれで足りるだろ。足らなかったらカップラーメンでも食え」
「足りると思うよ」慎太郎は言う。「ステーキは何で味付けるの?」
「塩胡椒しか用意してない。それでいいだろう。お前、グルメだったか?」
「そんなことないよ。というより先生が味に無頓着過ぎるんだよ、こないだのホテルの時だって」
「食えれば何でもいいんだ。食い物にああだこうだ言う奴は俺にいわせれば二流だな」麻生医師はダンボール箱の中からフライパンをもう一つ、取り出した。「じゃあお前はそれでポテトを作ってくれ。ただ焼くだけでいい」
「はいよ」
 慎太郎はガスランタンを灯し、その明かりを頼りに冷凍ポテトの袋を開けて中身をフライパンに出した。解凍しかかっている細切りのジャガイモにサラダオイルを降り注ぎ、焚き火の炎の上に置く。虫の鳴く、静かなキャンプ場に油が弾ける音が加わる。慎太郎は一人暮らしの部屋では自炊などほとんどしないから加減がまるで分からない。適当にフライパンを揺すってみているだけだった。
「ねえ先生、話の続きだけど」と慎太郎は言う。医師はさっきからずっと分厚い肉をフライパンの表面に押し付けたり、ひっくり返したりと忙しそうだった。「別に疑ってるわけはないんだけど」
「俺も嘘をついてるつもりはない。しかし、少し盛ったな。現代医学で人の記憶を好き勝手に消したり操作することなんて不可能だからな。SFじゃあるまいし」
「じゃあ、何なの?」
「まだ幼稚園のお前に強く暗示をかけたんだ。いや、正確に言えばすでにおかしな暗示がかけられていたから、その上からさらに強い言葉を繰り替えして、つまり上書きしたんだな。それ以前の記憶は消えたろうが、そうするしかなかった」
「なんでそん・・・・」
「どうしてそんなことをする必要があったかってことだろ? それにはそうだな、何から話せばいいか」麻生医師は焼きあがった牛肉のステーキをプラスチックの大きな皿に載せた。「先に食べてろ。俺のはこれから焼くから」
「半分こしようよ」
「そうか。じゃあ、切ってくれ」
 慎太郎は包丁で肉を半分に切っていく。医師は二枚目の肉を焼きはじめる。
「今じゃあまるで信じられないと思うが、お前の母親はステージママだったんだ。かなり熱心な」
「ステージママ?」
「自分の子供を子役として売り出したい、芸能人に仕立てたい、そういう親のことさ。久美子さんは一時期、本当にお前をあちこちに連れて行ってオーデションを受けさせたりしてた。もちろん子役の芸能事務所にも登録してた」
「全然、本当、全然そんな記憶ないんだけど・・・・」
「だから言ったろう、俺が消したからな」医師は焚き火台に新しい薪をくべた。火の粉が散り、あたりに一瞬光が溢れた。「それと言っておくが、今回、俺がこんな話をお前にすることは両親に了解をとってある」
「そうなんだ」
「親が自分の子供が可愛い、そんなのは当たり前かもしれない。しかしものには限度があるからな。お前が赤ん坊のころ、久美子さんはリミットを振りきってたな。お前の一歳の誕生日に彼女は五十人もの人を呼んでホームパーティーを開いてた。やりすぎだろ?」
「今の母さんからは想像もつかないっていうか・・・」
「だからそんな彼女がステージママになったのも自然のなり行きなのかな。お前のことを溺愛してたからな」
 慎太郎はフライパンを焚き火台から離し、ポテトを二人分、皿に分けた。切り分けたオージービーフを口に運んだ。黙って噛み締め、母親の顔を思い浮かべる。母親がステージママだった? すぐにはそんな現実を受け入れる気分にはなれない。母親が実は宇宙人だった、というホラ話の方がまだ信じられる。慎太郎は「でも」と言った。「なんで母さんは映画のサークルにも文句を言ってきたのかな?」
「お前が幼稚園の年長のときにある映画に出演が決まったんだが、そこで酷い目にあってな、彼女はそれがトラウマなんだろうな。二階堂健吾って映画監督の名前を聞いたことあるか?」
「有名な人? 知らないなあ」
「最後のクソリアリズム監督、なんて異名がある。ヒット映画があるわけでもないし、世間的には無名の人だよな。五年くらい前に死んでるはずだ。その人の映画にお前が出ることになったんだ、主人公の子供役で」
「まったく覚えてない」
「今じゃあまったく考えられないっていうか、当時でもどうかしてると思うんだが、その監督がお前に暗示をかけたんだ。主役の女優が死んで、子供のお前に悲しむ演技をしてほしかったんだな、お母さんが死んだんだよ、悲しいね、死んだんだよ、悲しいねって、何度も何度も言い聞かせたらしい。久美子さんも現場にいたらしいんだが、何かと言いくるめられて、別のところに連れていかれてその場にはいなかったそうだ」
「覚えてないよ・・・・・」
「どうもそれが強烈な暗示になって、お前はしばらく塞ぎ込んでしまった。本当に母親が死んだと思い込むくらいにな。小さな子供にそんな暗示をかけるなんて、俺に言わせりゃ虐待もいいところだが」麻生医師はヘッドライトを灯したままステーキを食べはじめる。「お前の父親と俺でなんとかして暗示を解こうとした。心理学の教授や、脳科学の専門家なんかまであちこち尋ねて回ったな。しかしどうも駄目だった。結局、荒療治しかなかった。俺が三日間、お前と過ごして暗示を上書きするしかなかった」
「父さんは何してたの?」
「あいつは当時既に患者を何人も抱えてたから、つきっきりってわけにはいかなかった。でも何もしなかったわけじゃない。俺とあいつ、それに久美子さんの三人で試行錯誤をしながらお前の記憶を消したんだ」
「現代医学じゃそんなことできないって・・・・・・」
「そのあたりはものの言い方だな。カルト宗教が信者を洗脳する方法ってどんなものだが知ってるか?」医師は慎太郎に視線を送る。ヘッドライトがまともに慎太郎の顔面を照らした。
「先生、眩しいよ」
「悪い」医師は苦笑して続けた。「これは俺も聞いた話でしかないんだが、新しく獲得した信者は、外界と接触できないように隔離して、さらにはご飯を食べさせないとか、眠らせないとか極限状態に追い込んで、肉体的精神的に弱っているところに教義を教え込むとかそんなことをしているらしい。自分で大声で教義を怒鳴らせたりして徹底的に叩き込むんだと」
「じゃあ、先生は幼稚園児の俺にカルト宗教の洗脳のようなことをしたってこと?」
「そうだ」医師は言う。「悪かったな、今まで黙ってて」
「悪くなんかないよ、先生は」
「よけい悪くなる可能性もあったから、まあ、俺もどうかしていた。しかし両親の同意の上でやったことだし、他に何か方法があったのか、もう分からない。しかし、お前は一時期の酷い状態を抜けて、現にこうしてまともに育ってくれた」
「まともかな」慎太郎はふんと鼻息混じりに言う。
「久美子さんはそれ以降、ステージママはやめた。当たり前だな。お前をそんな風にしてしまったと一時期、かなり自己嫌悪だったようだが」
「子供のころから、一度も映画に連れて行ってもらってなかったのはそのせいかな。学校で話題になってたアニメとかさ、ねだっても絶対に駄目だった。遊園地とか博物館にはよく連れていかれたけどね」
「そうだろうな」医師は言う。「彼女も苦しんだんだ。あまり責めるようなことは言ってやるな」
「言わないよ、別に」
 慎太郎は黙ってステーキとポテトを食べる。昼からろくに食べていなかったこともあり、すぐに平らげる。ふと見ると、麻生医師はほとんど口をつけていなかった。「先生、食べないの?」
「ああ、なんだか、胸がいっぱいでな」と開業医は言う。「ああ、そうだった、この話はいつかしなくちゃいけない、お前に本当のことをいつか話さなきゃとずっと胸につっかえていたからな。今こうして肩の荷が降りたというか・・・・・・」
「先生は悪くないよ」慎太郎は言う。
 しかし医師は答えない。ヘッドライトを消して額から外す。ガスランタンの仄かな明かりだけでは、医師が手で顔を覆い、肩が微かに震えているのが分かるだけだった。
「ごめんね先生、変な負担をかけていたみたいで」慎太郎はそう声をかけるのがやっとだった。焚き火が消えかけていたので新たな薪をくべた。するとポケットのスマホが鳴った。手に取る。真梨子からメッセージが届いた。
「シナリオ書けたよ。ファイルで送るから読んでね。あとで感想聞かせて」
 慎太郎は「分かりました。あとで読みます」と返した。「ねえ、先生、俺今度サークルの映画で主役をするんだってさ。ていうか、させられるんだけどね。先生はさ、子供の俺の映画を見たんでしょ? 俺の演技はどうだった?」
「ちゃんとしてたぞ」医師は小さな声で言う。「うん、ちゃんと母親が死んで悲しんでいる子供の演技をしてた。リアリズムを追求するとああなるのか、そう思わせる内容だった」
「今、見れないのかな?」
「昔、レンタルビデオ屋に並んでるのを見たが、DVDにはなってないはずだ。テレビでもやらないだろうな」
「そうなんだ・・・・。別に見たくもないけどね」
 慎太郎は医師が食べ残したステーキも平らげた。さすがに腹も膨れ、気分も落ち着いた。インスタントのコーヒーを貰って飲み、暗闇に包まれたキャンプ場を改めて眺める。さかんに虫の声が響いているが、耳の中を満たしてしまえば無音と一緒だった。斜面の下には街の景色が広がっていたが、今は真っ暗だ。明日の朝、朝日が昇れば視界はクリアになっている。太陽の日差しが何もかも見通す道標となり、悩む必要なんてこれっぽちもなくなるだろう。慎太郎は「先生、そろそろ寝ようか。眠くなったよ」と言った。
「そうだな」医師は答えた。欠伸を繰り替えしていた。
 翌朝、目を覚ました慎太郎はテントのファスナーを開けて外を見た。真っ白だった。五メートル先もよく見えないくらいの霧に周囲は包まれていた。空にあるはずの太陽も隠れ、白く垂れ込めた濃霧があたりをすべて覆い尽くしていた。慎太郎は靴を履き表に出る。テントのまわりを歩いてみた。視界どころか耳に届く音も霧は吸収しているのか、鳥のさえずりがわずかに聞こえるだけだった。隣のテントから眠そうな麻生医師が顔を出した。「先生、おはよう」
「ああ、おはよう。あいにくの天気だな。朝飯はおはぎが買ってあるだろう、あれにしよう」
「うん」
 二人はお彼岸のおはぎとインスタントコーヒーの朝食を食べたはじめたが、真っ白の濃霧はすぐに霧雨混じりに変わった。二人は朝食もそこそこにキャンプ道具の片付けにかかる。小さくまとめてキャリーに積み、斜面を降りていく。少し標高が下がった程度では霧はまったく晴れていない。
「先生、そういえば聞きたかったんだけど」と慎太郎は歩きながら医師に尋ねた。「昨日話してくれたカルトの洗脳のようにして暗示を解いたっていうのさあ」
「うん」
「具体的にどんなことをしたの? 鞭で叩いたりしたとかじゃないよね」
「ないない、その逆だ。お前が塞ぎ込んでいたから、それとは逆に馬鹿みたいなハイテンションで歌ったり踊ったり、久美子さんと三人でそれこそ、わあわあと歌いながら跳ね回ったり・・・・」
「本当? 先生もその時だっていい年だよね」
 駐車場の車に戻った二人はSUVのリアハッチを開けて荷物を積み込んでいく。「ああ、まったくだ。実のところ、忘れたくても忘れられない体験だったな、それこそ、こんな感じでな」
 医師はいきなり慎太郎の両手を掴んだ。そして駐車場の砂利の上で、慎太郎を引き摺りはじめた。踊るように回りはじめ歌い出す。「楽しい楽しいね、お母さんは元気だね、悲しいことなんて何もないね、世界は慎太郎を中心に回っているんだよ、楽しいね、楽しいね~」
 慎太郎は医師の手を振りほどき「ははっ」と笑った。身体を二つに折って腹を抱えた。「ひゃははは、何それ、先生、馬鹿みたいだよ、いい年した大人が何やってんの」
「笑うなよ、こっちも必死だったんだ、何をどうやれば暗示が解けるかなんて誰も分かりゃしないんだ。本当にこんなことを二日か三日、ずっとやってたんだ。お前に子供みたいな笑顔が戻るまで何度も何度もな」
「ごめん先生、笑ってごめん」慎太郎は言った。「笑うつもりはないんだけどね、先生にはありがとうって言うしかないんだけどさ、本当、ありがとうって言うしか・・・・・」
「まあいい、行くか」
 二人は車に乗る。麻生医師は駐車場を歩くような速度で車を走らせて舗装路の手前で停める。「しかし本当にすごい霧だな、ゆっくり進んでいくしかないぞ」
「うんいいよ。別に急がないし」
 二人が乗ったSUVは下りの山坂道を降りていく。白い霧は幾重にも幕を下ろしているかのようで、進んでも進んでも晴れない。対向車もなく、後続車もない。手探りで進んでいく霧の向こうがどうなっているかなんて知りようもない。しかし立ち止まることも後戻りするわけにもいかないから、進むしかない。慎太郎はそれが分かった。はっきりと理解した。真っ暗闇の中を進んでいくしかないのだ。それがどんな結果にたどり着くかなんて知るはずもないが、他に方法はない。
 慎太郎は目を閉じシートに寄りかかって、少し気分を落ち着かせた。

                            (了)


  

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