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プロレス・スーパーヒーロー列伝 呪われた鷲の爪 フリッツ・フォン・ヴィルケ編【短編小説】

 世界的ベストセラーとなった歴史書を何冊も上著しているエルサレム大学の歴史学教授のハラル・ユブリ教授の新刊は、これまでの全人類を俯瞰する本とはガラリと傾向を変え、とある一点に絞った著書になっている。タイトルは『メディアの中のナチスドイツ』。戦後の西欧諸国の映画や小説といったエンタメ作品で取り上げられたナチスドイツ像が、どのように変化、変容していったかを検証し、21世紀に広まりつつある歴史修正主義の潮流も紐解くものになっている。そして第7章は「プロレスの中のナチスドイツ」であり、章の大部はフリッツ・フォン・ヴィルケについて書かれている。彼がナチスギミックの代表とも言えるレスラーだからであろう。
 しかし、戦後のアメリカプロレス界においてナチスを標榜する悪役レスラーはフリッツ・フォン・ヴィルケが最初でもない。もっとも初期にナチスを名乗ったレスラーとして、一九四七年から五〇年代にかけておもにセントルイス地区で活躍していたハンス・シュナウファーがいる。ヴィルケはデビュー直後のセントルイス遠征で彼と出会い、影響を受けて自分もドイツ出身のナチスレスラーに転向した、というのが定説である。翌年には二人でタッグチームを結成して、ナチスレスラーのヒール二人組としての活動も本格化する。
『最初期のナチスレスラーであるシュナウファーは、祖父の代にミシガン州に移住したドイツ系の出身で、長身に金髪碧眼と、ヒトラーのナチスが標榜していたアーリア人そのままの容貌であり、ナチスギミックを纏うのに無理はなかった。しかし彼のレスリング技術はとても褒められたものではなかった。高校大学とフットボールの経験はあったもののぎこちない動きが目立ち、プロモーターからの評価も高くはなく、狂乱のラフプレーが語り継がれているばかりの、まさにギミックレスラーだった。しかし一方でフリッツ・フォン・ヴィルケはまったく違って、試合運びも、レスリング技術も高く評価されている。ナチスのフリなどしなくても、一流のレスラーになったのでは、という声もあるほどである。』(上記の「メディアの中のナチスドイツ」から引用。以降の引用も断りがない限り同書から)
 フリッツ・フォン・ヴィルケ、本名をフレッド・クルピンスキーは一九二九年にテキサス州でドイツ系の家に生まれている、というよく知られたプロフィールも、実のところあまり信用が出来ない。後年、ヴィルケ本人による念入りな修正が入っているからだ。『メディアの中のナチスドイツ』でも取り上げられているが、彼には隠された出自があるらしいのである。それは、フリッツ・フォン・ヴィルケは実はユダヤ人の血を引いているのではないか、という疑惑だ。
 しかしここであることを考えなければならない。それはユダヤ人とは何か、というかなり込み入った問題だ。人は何をもってユダヤ人とそうでない人を区別しているのだろうか。単純に言えば、ユダヤ教を信仰している人、その人をユダヤ人と呼ぶべきかもしれない。さらにもう一つ、ユダヤ人とは民族の定義でもある。ユダヤ人の母親から産まれないことには、人はユダヤ人になれないのである。
 フリッツ・フォン・ヴィルケの父、エーリヒ・クルピンスキーは間違いなくユダヤ人として生まれている。彼の父親がポグロムを逃れて妻とエーリヒと二人の妹を連れてニューヨークに渡ったのは19世紀の末だった。一族はもともと東プロイセンのユダヤ人であり、ヘブライ語とドイツ語を話す法律家の家系だった。しかし父は食肉の輸入業者としてニューヨークで地位を築き、息子のエーリヒもその後を継いだ。エーリヒが二十五歳の時に同じユダヤ人である女性との間にフリッツ・フォン・ヴィルケことフレッド・クルピンスキーは生を受けた。まったくユダヤ人として産まれてきたのである。しかしフレッドが二歳の時に母は病気でこの世を去る。インフルエンザをこじらせた肺炎が原因とされる。
『エーリヒは愛する妻の死に相当のショックを受けたようで、羽振りの良かった輸入業者の地位からも危うく滑り落ちかけた。しかし翌年、テキサス出身の歌手を目指していた二十三歳の女性と出会い、恋に落ちる。フレッドが彼女、ウルスラによくなついたのも再婚を考える要因になったようだ。しかしウルスラは再婚に際してひとつ条件を出す。自らが信仰するキリスト教プロテスタント、米国聖公会の洗礼を受けること、である。つまりユダヤ人であることを辞めろと突きつけたのである』
 一九三三年にエーリヒとウルスラは結婚しているので、エーリヒは少なくともユダヤ教の信仰は捨てたものと見なしていいのかもしれない。しかしその7年後に今度はエーリヒが交通事故でこの世を去ってしまう。フレッドが十二歳のある冬の日であった。折しも第二次大戦の勃発により、世情が混乱を極め、ウルスラは輸入業者の経営権を売り払って、故郷のテキサス州に戻ることを決めた。母親とは血の繫がりがなくとも、フレッドに選択権はなかった。まだ彼は身体の大きな中学生に過ぎなかった。
 テキサスに渡ったフレッドはその地でフットボールに熱中し、大学時代には最優秀選手のトロフィーを獲得するなど、そこそこの活躍をするのだが、プロリーグの壁には阻まれた。そもそも彼がなぜプロレスラーの道に進むことになったのかは、あまり解っていない。大きく恵まれた体格と、高い運動能力を見込まれてスカウトされたという説もあるが、自らカナダのカルガリー地区に渡り、プロモーター兼トレーナーだったスチュアート・ビショップの道場に入門したというのが真相のようだ。彼はこのビショップ宅の地下室の道場、通称「地下牢」でレスラーとしての基礎を身につける。タッグパートナーだったシュナウファーとの差は、この地下牢での経験がもたらしたものだろう。
『五〇年代に主にセントルイスを中心とする中西部地区を暴れまわった二人のコンビも、一九五五年を最後に袂を分かつ。二人の間に何らかの亀裂が入ったのは間違いないが、ギャラの取り分で揉めたのか、詳しいことまでは伝わっていない。あるいはレスラーとしての技量の違いにどちらかが耐えられなくなった、のかもしれない。もっともプロレス関係者の意見ではコンビを解消した後のフリッツ・フォン・ヴィルケはレスラーとしてさらなる飛躍を果たした、との声が大きい。それには彼独自の技、今までのレスラーが誰も使わなかった物珍しくも見栄えがよく、説得力を持った彼だけの必殺技を開発したからでもある。』
 言うまでもなくそれこそが「鷲の爪」である。彼が独自に開発したフィニッシュホールドでもあり、彼自身につけられた二つ名として、生涯に渡って通用することになる彼の別名でもある。しかしそれはあまりにも単純な、大きな手で相手の頭部(まれに腹部も)をがっちりと掴んで離さないというわかりやすい技でもあった。プロレスの技としてはそれまでは蹴ったり殴ったりの打撃技、組み付いて投げ飛ばす投げ技、手足の関節を極める関節技などが全てであり、それらを組み合わせて相手と戦うの本筋であったが、そこにまったく新しく掴み技なる発明をしたのがヴィルケだった。以前に似たような技を使っていたレスラーがいるわけでもなく、まったく彼が独自に生み出した新機軸だった。とある酒場で客同士の喧嘩があり、止めに入った彼がたまたま相手の頭を掴み、そのまま酒場の外に引きずりだした、という偶然の出来事がきっかけで思いついた技だった。自らの手が異様に大きいことは解っていたし、握力がずば抜けている自覚もあった。しかしプロレスの技として使えるのか、自信がなかった。ある日、試合前のインタビューで林檎を握り潰すパフォーマンスをし対戦相手に「お前の頭も握りつぶしてやるぜ」とのたまった所、大いに受けてプロモーターにも客にも受け入れられてヴィルケ独特の技として認知されたのだ。
 とはいえ、地味と言えば地味かもしれない。相手の頭、額のあたりの顔を片手で掴んで離さないだけなので動きとしても華々しさがない。しかし、林檎を握りつぶす人間離れした握力と遠目からでもわかるヴィルケの巨大な手のひらのおかげで絶大な説得力を持つ必殺技になり、全米から声がかかるトップ悪役レスラーの地位を獲得するのに半年もかからなかった。また以前からのナチスギミックとしてナチスが採用していた鷲の紋章(さすがに下半分のカギ十字の部分は省いてあった)をジャケットの背中に縫い付けて入場していたこともあり、鷲の爪は誰からともなく語られるようになる。彼の二つ名としても自然に定着した。
 一九五〇年代後半から六〇年代前半にかけてが彼がナチスの悪役レスラーとして活躍した全盛期と言えるだろう。ユダヤ人の多いニューヨークからは滅多に呼ばれなかったが、それ以外では全米のみならず全世界から(さすがに西ドイツも同じく上陸していない)お呼びがかかり、地球を股にかけた活躍と言っても間違いはない。しかし、一九六六年から彼の立ち位置が少しづつ変わりはじめる。地元のテキサス州ダラスで映画館を複数経営する実業家と手を組み、自らをエースとする新団体を設立したのだ。となると、団体のエースがヒールでいるわけにもいかない。フリッツ・フォン・ヴィルケはそれまでのナチスギミックを捨てて、ベビーフェイス・レスラーに転向したのだ。
『プロレスの世界では昨日までは悪役だったレスラーが善玉となる、なんてことが起こり得る。そしてその逆のパターンもある。珍しいとは言えないくらいに、昨日までの常識が通用しなくなるのがプロレスの世界なのだ。ただヴィルケの場合は、ジャケットの背中から鷲の紋章がなくなったくらいの変化しかなく、各地から呼び寄せた悪役レスラーの額を掴んでギブアップをさせる試合運びなどは、以前までと変わることはなかった。それだけ彼のフィニッシュホールドである「鷲の爪」は世界的に受け入れられ、試合を見に来た観客からも求められていたのだ。ただ、その時から彼にまつわる悪い噂も囁かれはじめる。彼が呪われている、という噂だ。』
 最初の悲劇は、彼が新団体のエースになる半年前に起きた。当時、四歳だった彼の長男、ジョンが自動車事故により幼くして亡くなってしまったのだ。当時のヴィルケは悪役レスラーとしてトレーラーハウスを牽引した車で全米各地を巡っていた。その際、給油のために立ち寄ったガススタンドの敷地内で別の車に跳ね飛ばされたのである。時刻は夜の十時であり、夫婦が目を離した一瞬の隙に訪れた不幸だった。二歳だった次男のロスはトレーラーの中ですやすやと眠っていた。しかし、この事故は当時は周囲に告知されることもなく伏せられていた。後年、ヴィルケの一族に不幸が重なり、呪われているのではと囁かれ始めてから掘り返された悲劇のひとつに過ぎない。つまり、引用した『メディアの中のナチスドイツ』の記述は正しいとは言えないのだ。しかし幼い長男の死は一家の中に大きな影を落とし、ヴィルケも新団体の設立を躊躇するくらいには落ち込んでいた。翌年には次男(順番としては三男)のアランが誕生し、ヴィルケの新団体も軌道に乗るとトレーラーハウスは売り払い、以後はダラス郊外に建てた自宅に腰を据えることになる。
 ダラスを拠点としたヴィルケの団体は順調に成長し、観客動員もテレビの視聴率も平均以上を維持し続けた。しかし、どうしても避けられない懸案が次第に頭をもたげつつあった。彼が年齢を重ね、体力面で団体のトップを張るのが難しくなってきたのだ。だが一方で準備も進めていた。自宅の庭に設置したリングでトレーニングさせていた自分の息子たちをレスラーとして次々にデビューさせたのである。まず長男(実際には次男)のロスを十七歳で、二年後に次男のアランをやはり十八歳でリングに上げた。若く、ハンサムで見栄えがよく、毛並みが整った息子たちは、父が若い頃に全米をサーキットしていた頃ではありえないほどの歓声を受けることになった。主に若い女性たちから映画スターさながらの、アイドル的な人気を博すのである。会場は黄色い歓声で満たされることになった。そしてこれからが本題だとも言える。呪われた鷲の爪とは、フリッツ・フォン・ヴィルケ本人ではなく、主に彼の息子たちに降り掛かった不幸のことであるからだ。
 一九七九年、三男のジーンが兄たちに続いてレスリングのリングに上がると、フリッツ・フォン・ヴィルケはレスラーとしては引退し、以後はプロモーター業に専念することになる。彼の団体の最盛期は、フリッツ・フォン・ヴィルケが引退した後、息子たちが活躍していた八〇年代前半だと言って間違いないだろう。会場は毎回のように満員札止めになり、テレビの視聴率もうなぎのぼり、三人のヴィルケの息子たちはロックスターのような扱いで大声援を浴びつつ、父親譲りの「鷲の爪」で対戦相手たちを退ける。本拠地のダラスでもそうだが、彼らの人気は他所にも飛び火し、他地域に遠征している時でさえ地元のレスラーを上回るほどの声援を浴びていた。それらは決して人気先行のまやかしではなく、十代の若い頃から父親や、父の団体に所属する中堅レスラーから鍛えられていた実力とも相まって、次期世界チャンピオンに相応しいと周囲から囁かれるほどの闘いぶりだった。しかしそこに呪いが襲いかかる。
 次男のアランは兄のロスよりも身体が大きく、大学時代には野球、フットボール、バスケットボールなどの全てのスポーツで大活躍し、どの競技でもプロになれるとの太鼓判が押されるほど運動能力に傑出したものを持っていた。しかし子供の頃からの夢であった父の後をついでプロレスラーになるという思いを実現するべく、大学を中退してプロレスの道に進んでいた。その彼が突然に、この世を去ってしまったのである。場所は東京のホテルだった。以前には兄と二人のタッグチームで何度か日本遠征を果たしていたが、その時はスケジュールが合わず、一人で日本の提携先である汎日本のマットに上がっていた。日本各地を転戦しての最終戦、東京の大きな会場でのタイトルマッチを前にしての朝だった。集合時間になってもロビーに降りてこないアランを迎えに、汎日本の関係者がホテルの部屋のドアを叩いたが返事がない。フロントに頼んで、合鍵でドアを開けて中に入るとそこにはすでに事切れていたアランの姿があった。ベッドの脇には大量の鎮痛剤が散乱していた。検視結果は、もともと患っていた内臓疾患と、リングでのファイトで負った傷を癒やすための鎮痛剤の大量摂取が原因とされた。三ヶ月後には世界チャンピオンへの挑戦が内定していた将来のスターレスラーの突然の死に、テキサスのプロレス界は沈痛した。
『アラン・フォン・ヴィルケの死は、彼ら一族のみならず、プロレス業界全体への警鐘としても大きく取り上げられた。リングの上で激しく戦うレスラーたち、彼らの安全は確保されているのか? プロレス業界を統括するボクシングコミッションは機能しているのか? そんな議論が噴出した。その後の業界の再編へとつながるテリトリー制の崩壊は、アランの死がきっかけになったのではないか、といった議論もある。さらには、ケーブルテレビなどの新たなメディアの隆盛が、それまでの世界チャンピオンがローカルな地域を転戦して防衛戦を行うスタイルを崩し、メディアミックされた新しいプロレスへと変貌を遂げていくことになる。そうした新たな潮流にヴィルケの団体が乗り遅れたことは確実である。』
 しかしまだダラスを本拠とするヴィルケの団体は踏みとどまる。アランの死をきっかけに、それまでセコンドとしてリング下で見守るだけだった四男のブレットがレスラーとしてデビューをしたのだ。もっとも彼はレスリングのトレーニングは本格的にはじめたばかりであり、急ごしらえでデビューした感は否めなかった。それでも兄のロス、ジーンと組んだタッグマッチで経験を重ね、さらには父譲りの鷲の爪も会得し、若手有望株の筆頭として他地域に遠征するくらいにはレスラーとしての技量を身に着けていた。しかし、次の呪いに見舞われたのは彼、ブレットだった。
 テネシーに遠征していたある試合でのこと、相手の技を受けてリング下に転がり落ちた彼は、リングサイドと観客席を区切っていた鉄製の柵に腰を激しく打ち付けてしまう。悶絶し、リングアウト負けを喫したが、それだけでは済まなかった。腰椎を骨折し、さらには外傷性ショックを併発し、意識不明となりベッドから立ち上がれなくなってしまったのだ。三日後に意識は回復したものの、下半身の麻痺が残り、退院後も車椅子生活を余儀なくされた。事故から三ヶ月後には記者会見を開き「リハビリは順調に進んでいる。来年にはリングに復帰したい」と語っていたが、むしろ遅々と進まない回復に心を病んでいくことになる。アランの死からわずか一年半後のことだった。自宅療養中だったブレットは、数行のメモのような遺書を残し、自ら鎮痛剤を大量に服用して命を断った。メモには「この痛みにはもう耐えられない。アランのそばにいくよ」とだけあった。
 二年も立たない間に息子たちを立て続けに失ったショックで、ヴィルケ一家は立ち直れないほどのショックを被る。彼の一家が呪われているのでは、などと囁かれるようになったのは実際にはこの頃からだ。心無いマスコミは過去の警察記録を掘り返し、フリッツ・フォン・ヴィルケの長男の事故を取り沙汰した。そしてこの一家に起こった悲劇の連続は、ヴィルケがユダヤ人の血が流れているにも関わらず、ナチスギミックのレスラーとして名を挙げたからではないか、そんな論調の記事を書き立てたりした。フリッツ・フォン・ヴィルケはそんなマスコミに対して何も反論しなかった。ただ一言「私は米国聖公会の信徒だ」と言っただけだった。
 事実、彼は子供の頃に洗礼を受けているのでユダヤ教徒ではない。しかし自分の身体に流れるユダヤ人の血をまったく意識していなかったのか、というといくつか疑問が残る。例えば、自らの団体を設立してからは、何人かのユダヤ人のレスラーに便宜を払っていたという事実がある。その筆頭が実力世界一と言われながらも性格に難があり、各地のプロモーターからは扱いづらいと敬遠されていたブルーザー・バンディットを重用したことだ。やはりハンガリー系のユダヤ人であり、父の代にポグロムを逃れてアメリカに渡って来た彼を世界的なメインイベンターに育てたのは、ヴィルケだと言っても間違いない。実際にバンディットはヴィルケが年老い、しかし息子たちが若くまだ実力が伴わない一時期、ヴィルケの団体のエース格だった。
 ブレットの死からヴィルケの団体の凋落が始まった、という言い方は間違っていないが、もともとニューヨークの団体だったWHOが全米攻勢に乗り出し、各地の団体を飲み込んでいった流れに逆らえなかったという側面もあり、鷲の爪の呪いがダラスのプロレスを終焉に向かわせたという論調には無理がある。当時、フリッツ・フォン・ヴィルケはプロモーター業からも引退し、団体の運営は息子のロスに譲っていたが、経営の立て直しは上手くいかなかった。ロスとジーンは現役としてリングに上がり、以前までと変わらないプロレスを見せていたが、観客動員も落ち込み、テレビの中継も打ち切られてしまった。三男のジーンは活躍の場を求めて他団体に移籍する。代表権を持っていたロスは、立て直しは不可能と判断し経営を売り払った。ヴィルケ一族のファミリービジネスとしてのプロレス団体の運営はこうして幕を閉じたのである。
 しかし呪いはまだ続いた。三男のジーンは現役にこだわり、また彼の鷲の爪は技としてのネームバリューが衰えていなかったため、各地の団体を渡り歩きつつも活躍した。すでに国内随一のメジャー団体となっていたWHOとも契約し、全米中継のメインイベントでタイトルマッチを行うなどレスラーとしての輝きを放っていた。しかし試合会場へ移動する途中で自動車事故に遭い、左足の足首から先を失うという悲劇に見舞われる。それでもジーンは一年間のリハビリを経て復活する。義足をつけてリングに上がり、周囲には足首の先を欠損しているなどとは悟られないままプロレスを続けたのだ。確かに彼の鷲の爪は、飛んだり跳ねたりする必要のない技なので、しばらくはそれでもなんとかやっていけた。しかし義足と足首の接合部に生じる痛みは耐え難いものがあり、以前までの一流レスラーの動きにはもう戻れなかった。精彩を欠いたジーンのプロレスに観客も盛り上がらず、WHOからも契約の更新を拒否されてしまった。ジーンはそれでもフリーとして国内のインディーズ団体や日本に活路を求めた。派手なデスマッチで身体を痛め、ギャラの未払などに苦しみながらもリングに上がり続けた。しかしそれも限界が訪れる。将来に悲観した彼は、移動の途中で立ち寄った貯水湖の駐車場で、自らに銃口を向けて引き金を引いた。ブレットの死から五年後のことだった。
『もちろん呪いなどというものが実際あるとは信じがたい。オカルトまがいの論説であり、子供じみた決めつけだろう。しかしこのヴィルケ一族を次々に襲った悲劇はあまりにも短い期間に集中し、さらに偶然にしては出来すぎな不幸が重なっているため、プロレスファンのみならず世間の好奇にもさらされ、執拗に呪いという言葉が取り沙汰された。ただしフリッツ・フォン・ヴィルケ本人は一九九七年に肺癌を患い、六八歳でこの世を去るが彼自身に呪いが降り掛かったとは言い難いものがある。』
 フリッツ・フォン・ヴィルケは子供たちを若く亡くしてしまうという不幸を除けば、プロレスレスラーとしては順風満帆な生涯を送ったと言えるだろう。現在でも多くのレスラーが使用する技である鷲の爪の開祖として、彼の名前は人々の記憶から消えることはなかったはずだ。レスラーとして引退した後の活動でも、自ら団体を設立し、繁栄させ、しかしその後に行き詰まってしまうことなども、多くのプロモーターが経験している。プロレスの世界に勝ち逃げした者などいないのである。しかし、一族を巻き込んで不幸を招いてしまったケースはそうそうない。だからこそ、彼の家族に呪いが降り掛かったなどと囁かれてしまう。いや、それでも待って欲しい。それもプロレスの世界にはよくある事故や不可避の事態がたまたま同じ家族に、それも短い時期に重なってしまっただけ、とも言えなくもないのだ。現に長男のロスはレスラーとして長年激しく闘い、マットに叩きつけられたり、リングから転落したりしているが、深刻な怪我とは無縁だった。呪いなどというものはない。ただ悲劇があっただけなのだ。
 二〇〇九年になって、WHOはプロレス業界への長年の功績を讃えて、ヴィルケ一族を殿堂入りにすると発表した。フリッツ・フォン・ヴィルケ個人ではなく、息子たち全員を含めたファミリーとしての殿堂入りだった。そこにはレスラーとしての期間が一年半ほどしかないブレットも含まれていた。ファミリーの中で唯一健在だったロスがセレモニー会場に招かれて登壇した。彼はすでにプロレスビジネスから完全に足を洗い、好奇の目に晒されるのを嫌ってか、テキサスからも去っていた。ハワイ島に移住し、コーヒー農園を経営する傍ら子供たちを育てていたのだ。二人の息子と三人の娘に囲まれ、幸せそうな笑みでマイクの前に立った彼は次のようなスピーチを行った。
「ご来賓の皆様、皆様は私のことを呪われた一族の唯一の生き残りであると記憶しているかもしれません。私は、いや、私たち兄弟はまだ子供の頃から父から厳しく育てられました。父は常日頃、こう言っていたのです。お前たちの誰かが世界チャンピオンになるんだ、と。残念ながら、兄弟の中で誰もチャンピオンベルトを巻くことはありませんでした。それでも、私はレスラーとしてリングに上がっていた若かりし頃を後悔などしていないのです。おそらく、それは弟たちも同じだろうと思います。もういなくなってしまった弟たち、アランも、ジーンも、ブレットも、私などよりはるかに才能があり、レスラーとしての能力も高かった。それは断言できます。しかし、ほんの些細な運命の食い違いが、彼らを栄光から遠ざけてしまったのです。父も兄弟たちもこのプロレスビジネスの中で必死に闘い、もがき苦しみ、栄光と挫折を味わうことになったのです。確かに弟たちは若くしてこの世を去りました。しかしそれを呪いなどという言葉で片付けることは間違いだと言いたいのです。今でも世界中のプロレスのリングで、多くの若者たちが闘っています。いや、プロレスでなくとも、なんでもいいのです。私は全ての若者たちに伝えたい。人生には意味があると感じて欲しい。諦めずに闘う価値があるのだと」

                           (了)

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