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ただ放課後に一緒に遊ぶ友達が欲しかっただけなのに……

※stand.fmでこの内容の音声配信を聴くことができます。

こんにちは、TOSHIです。

私は常々、「情報発信をすることは自分自身と向き合うことだ」と言っています。

発信することを前提に、自分のことを掘り下げて考えることで、記憶の彼方に追いやられていたことや、忘れてしまっていた過去を思い出し、自分の人生を再解釈できます。

情報発信をすることで、ビジネスになったり集客になったりする部分はもちろんありますが、それは副次的なもので、一番の価値は「自分と向き合えること」にあると考えています。

それを裏付けるような体験が、私にもここ数日でありました。もう8年以上も情報発信をしてきて、自分自身と向き合い掘り続け、さらにはそんな情報発信のやり方を人に教えてもいるのに、それでも新しい発見があるのです。

「自分は勉強ができた」が出発点

私は中学・高校と勉強だけはできて、というか勉強だけに打ち込んできて、現役で京都大学に合格できました。

この事実ははっきりと自覚していたわけですが、「なんで、そんなに勉強に打ち込んだのか?」まで掘り下げて考えることをしていませんでした。

私は、そこまで勉強が好きではなかったはずです。得意科目があったわけでもなく、まんべんなく勉強したのです。よく考えると、これはかなり異常なことです。不自然さがあります。

孤独を感じていた小学校時代

そこに思いを至らせ、中学・高校以前の小学校時代がどうだったのか?を振り返ってみると、そこには孤独がありました。父親の仕事の都合で転勤が多く、なかなか友達ができずに寂しい放課後を過ごしていました。

このあたりのことは、こちらの記事にしています。

勉強ができると注目してもらえる!?

そこからさらに掘り下げると、「勉強ができれば注目してもらえる」ことから、勉強に打ち込むようになったのかもしれない、とつながってきます。

それが単に注目を集められることから、他人を下に見てマウントを取れる快感に変わっていきます。

こちらの記事に書きました。

有り余る時間に勉強をしてみただけ

小学校の頃、いつも「ヒマだ」と言っていたのを思い出しました。学校が終わってからの放課後、習い事も特にしていなくて、遊ぶ友達もいなかったので、とにかく何もやることがなかったからです。

みんなは習い事に行っていたり、友達と遊んでいたり、有意義な時間を過ごして楽しんでいるはずなのに、自分だけ何もやることがない……。

この寂しさというか、切なさというか、みじめさは、私にとっては記憶の彼方に封印してしまいたくなるほどにつらかったんだとわかりました。

そんな有り余るほどの時間で、何もやることがなかったから、勉強をしてみたところテストで点が取れて、「すごい!」と言って注目されてしまいます。それが気持ち良かったのでしょう。

勘違いと歪みといろいろ

「勉強ができると友達ができる」と錯覚してしまったのかもしれません。それが私にとって大きなモチベーションになったはずです。

成績が良くなって「優等生」になってくると、周囲の人が見上げてくれるようになります。

それが、自分が偉くなったように感じて、また快感になってしまったのでしょう。周りの人間を下に見て、マウントを取って偉そうにすることが、たまらなく気持ちよくなってしまったのかもしれません。

こうやって、どんどん歪んでいきます。

本来望んでいたこと

ただ、放課後に一緒に遊べる友達が欲しかっただけのはずなのに……。

大きく歪んでしまいました。これが私のその後の人生をも大きく狂わせることになります。

様々な歪みや汚れを取り除き、本来望んでいたはずの純粋な望みや思いに近づけるのが、情報発信をして自分と向き合うことの醍醐味だと私は思っています。

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