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私の論語教室 1.文なるかな。

八佾第三、第十四章、「文なるかな」を読み解きます。

【原文】
子曰、
周監於二代、
郁郁乎文哉、
吾従周矣。

【書き下し文】
子いわく、
周は二代に監(み)て、
郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな、
吾は周に従わん、と。

【現代語訳】
ある時孔子が言った、
周は先行する二代の王朝を参考にして、
華やかな文化を築き上げた、
私は周に従うよ、と。

孔子の言葉は、世間話をするかのような口ぶりで、さらりと無限の含蓄を伝えます。よく耳を澄まさないと、重大なことを聞き逃す。その不安に身を震わせる者にしか、その深遠な思想は届きません。

そうなるように計算して、発言している節すらあります。耳が無私(公)の心によって開かれていると書いて、「聡」(さとい)と読みますが、まだ充分に聡くない人に私の声が届かなくったって良いと、孔子は思っていたようです。俗に言う、「論語は読者の成熟の度合いに応じて異なる姿を見せる」とは、孔子のこうした態度に由来するものです。

今回採り上げた「文なるかな」も、注意深くない読者ならば、周の文化を支持するという宣言以上の意味を受け取らず、何の感動も覚えず次章に進んでしまうでしょう。

この章を深く読み解くには、古代中国の歴史について、多少の知識が必要です。孔子が言う「二代に監(み)る」の「二代」とは、周に先行する二代の王朝、夏(カ)と殷(イン)のことを指します。

夏は、伝説の聖人禹(ウ)が建国したとされる中国最初の王朝です。考古学的には実在が認められていませんが、その次に成立したとされる殷の前に、規模はさておき、何らかの政治勢力が存在したことは疑いなく、それが夏に相当するとみなすことはできます。紀元前2000年から1600年頃までの400年間です。

殷は、その実在が確実視されている次代の王朝ですが、漢字の原形となった甲骨文字が発明されたものの、祭祀儀礼で使うためのものに過ぎず、文字を書く行為は純粋に呪術行為でした。コミュニケーション・ツールとして文字を使用する発想はまだなくて、当時の人が当時を語るような、一次資料としての歴史書が存在しないため、社会のありさまや政治運営の実際を、つぶさに知ることはできません。紀元前1600年から1000年頃までの600年間です。

革命によって殷を滅ぼして出来たのが周です。孔子が「文なるかな」と讃えた周です。たしかに、周は古代中国文化の集大成と言えます。この時代に中国は、「コミュニケーション・ツールとしての漢字」を発明しました。儀礼制度、法制度、神話と歴史、文学、宗教思想、ありとあらゆることが初めて文字化され、未来永劫に残すべき人類の知的共有財産として登録されました。紀元前1000年から200年頃までの800年間です。

孔子が生まれたのは紀元前500年頃で、周の没落期にあたります。統率が崩れて諸侯国が周皇帝を軽んじ始め、大乱の予感に包まれていた「不安の時代」です。この頃になると、周は中国大陸を束ねる政治的なリーダーではなく、祭祀儀礼を司る宗教的権威として、かろうじて存在意義を認められる程度にまで、落ちぶれていました。現在のバチカン市国を想像してもよいでしょう。

そういうタイミングで、「文なるかな」が発せられたことは、前提として押さえておく必要があります。孔子が「華やかな文化を築き上げた」と讃えた周は、孔子の目の前にあった落ちぶれた周ではなく、聖人周公旦が活躍した全盛期の周でした。

孔子は「昔は良かったなあ」と、オヤジの定番のボヤキを言っているのでしょうか?それとも、「あの頃と比べて今は不安の時代だ」と、月並みな時事評論家よろしく、世相を斬っているのでしょうか?

どちらも違います。孔子は短い言葉で、なぜ彼が周を支持するのか、その理由を端的に述べているからです。それは、

1.二代の王朝に監(み)ていること。
2.華やかな文化を築き上げたこと。

の二点です。この二点の理由から周の文化を信奉すると、はっきり宣言しています。ならば、これの意味する所をよく考えなければなりません。

一番目の理由、先行する二代の王朝について「監ている」とは、どういう意味なのか?冒頭において私は、「参考にしている」と訳していますが、これについては議論の余地があります。

論語の最高の研究者である、朱熹(12世紀中国)、仁斎(17世紀日本)、徂徠(18世紀日本)の解釈を元に、考えてみます。

朱熹は「監は視なり」、監は見ることだと言います。何を見て、どうするのか?「二代の礼を見て之を損益するを言うなり」、二代の礼(文化)の長所短所を見きわめて、増減したと言うのです。

仁斎もまた、「監」を見る(参考にする)意味に取る点では朱熹と同じです。見る対象が礼(文化)である点も同じです。ただ、参考にした上で、それをどうしたかについては、独特の解釈がありますので、これは後に述べます。

徂徠は、「監」を見るの意味に取ること自体に反対します。ここで言う「監」は「監戒」の意味である、二代の王朝の礼(文化)を反面教師にして、その欠点を戒めたのだ、と言うのです。

三者三様の解釈ではありますが、「監」の対象が二代の礼(文化)である点は変わりなく、周がそれを何かしらの仕方で改めたことが、孔子の評価した所だという点でも、違いはありません。

二番目の理由、華やかな文化を築き上げたとは、どのような意味でしょうか?また三者の言葉を借りて考えてみます。

朱熹は「郁郁は文盛なる貌」、郁郁とは文化が盛んな姿を表現した形容詞だとします。私が「華やかな」と翻訳した部分です。その上で、「三代の礼、周に至りて大いに備わる。夫子其の文を美として之に従う」、三代の礼は周の時代になって完備された、だから孔子は周の文化を美として評価し、周を信奉したのだ、と解釈します。

仁斎は、孔子が「華やかな文化」をポジティブに評価したこと自体を問題視します。なぜ問題になるかと言えば、「文」には「飾る」(豪華)という意味があり、この場合の対義語は「質」(質素)です。論語には質素であることを推奨して、贅沢を戒める言葉が山のように出てきます。それなのに、どうしてここでは華やかなことを讃えているのか?これを問題視しているのです。

仁斎はまず、夏と殷の文化は周に比べて質素であったと判断します。その上で、周の文化が「文」(豪華)であることが何故、ポジティブな評価につながるのかと言えば、個人道徳と朝廷の礼(文化)は、同じ価値基準で測られるべきではないからだ、と主張します。個人道徳の基準からすれば質素なことが善であるが、朝廷儀礼の基準からすれば「文」が備わっていることも必要な要素であると、いわば個人道徳と政治道徳の峻別をもって、矛盾を解決するのです。

徂徠は、仁斎の説を真っ向から否定します。「文」を「飾り」の意味に取り、贅沢と質素の問題とすること自体がナンセンスである。「文」は「文化」の意味で、むろん夏には夏の文化、殷には殷の文化があった。周は二代の文化の欠点を戒めて、周独自の文化を築いた。その文化を見た孔子が、「周の文化こそ文化と呼ぶにふさわしい」と評価した。それだけのことだ、というのです。

いずれの解釈も捨てがたい魅力があります。朱熹は二代の文化の長所短所を見きわめて、良い所は取り、悪い所は去って、集大成したことを重視します。仁斎は「文」を「文化」ではなく「飾り」の意味に取って、周が二代の文化に加えた華やかさを重視します。徂徠は「監」を「参考にする」ではなく「戒めにする」の意味に取って、二代の文化の欠点を削って整備した点を重視します。

私は三者の見解の優劣に興味はありません。私の関心は、「歴史に学ぶとはどういうことか?」をめぐって、三者が独自の思考を深めたという事実に集中しています。

朱熹:過去の文化を集大成すること。
仁斎:過去の文化に華やかさを加えること。
徂徠:過去の文化を点検し改めること。

いずれも正しいと見て良いと思います。そのようにして歴史に学んだ周の全盛期の文化を、「不安の時代」の人、孔子は信奉すると宣言した。昔は良かったとボヤくのでも、暗い世相を嘆くのでもなく、この時代の文化を継承するのだ、今こそ歴史に学ぶのだと、決意した。

ここで注意しなければならないのは、この孔子の「歴史主義」は、「懐古主義」とは無縁だということです。古けりゃ何でも良いと言うのならば、夏の文化が一番古いわけですから、夏の文化に帰依するのが筋です。孔子はそうはしなかった。孔子は周の「歴史に学ぶ姿勢」に帰依したのです。先人が築いた文化に敬意を払い、改めるべき所は点検の上で批判的に継承し、過去になかった華を加えて、集大成した周の姿勢に。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」19世紀ドイツの政治家、ビスマルクの言葉です。賢者は経験から学ばないのではない。もちろん個人の経験からも学ぶが、それに加えて、先人の歴史からも学ぶことができるのです。歴史に学べる人こそが、賢者と呼ぶにふさわしい。それくらい、歴史に学ぶことはむつかしいことです。

キリが良いのでお開きにしましょうか。本日は、孔子が敬慕した周の文化と、歴史に学ぶ姿勢についてのお話でした。


終わり

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