生き残るために発信するのではなく、いつ死んでも良いように記録する

そして今と向き合うために推敲し、他者に投げかける。

私は他人の目をとても気にする性格です。
その割に我は強く、他人と違うもどかしさを抱えて10代20代を過ごしてきました。
昔のmixiでも長文を書いては共有できず、Twitterの100字でも30分1時間悩むのはザラだし、
そのうえで投稿したものも結局癖が強くて自分自身を悩ます。(全然フォロワーいる訳じゃないのに、何人かの顔が浮かび声が聞こえてくる。)
Instagramになった頃には少し自分に整理がついて、ウケなくて良いから自分の印象的な事を年に3〜4回更新する事にした。
Facebookは年に一回の生存報告と挨拶用。

そんな私が32歳になって積極的に発信をする事にした。流行りのInstagramで別アカウントをつくって。

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きっかけはその前年に挙げた結婚式。
自分とゲストに向き合って、何を・どんな風にやるか、どうやってもてなすかについて必死に考え続け組み立てる事、
そして半分は自分の超身近な人、
半分は初めましての人、
その両極端に向けて同じプログラムを走らせる事にとてつもない感動を覚えた。
それこそ生きる時間だと感じたし、それは結婚式以外でも起こせるという気がした。
それをやるために発信をする事にした。

ここで言う発信は、「自己発掘→記録→見られる事をイメージする→自分に気付く」というような順序を踏んでると思う。
なので、いわゆる外向きの「発信」というものとは違う気がしている。(インフルエンサーやアフィリエイト的な人達をイメージしてる。そういう人の存在価値はあると思うけど、自分には絶対やれない。)
発信上手な人や、ある程度流行を捉えてる人にとっては、自分の発信は下手糞で失敗に見られていると思う。
そこまでは一応わかってるつもりのうえで、セオリーを無視して自分なりの発信を考えて追求している状態。

重ねて、
結婚して一年経ったら娘が産まれ、コロナウイルスが世界的に大流行している。
そこで自分の変化が起きた。
「父親が死んだ時、どんな人間だったか娘に残せる状態にしたい」という気持ちが芽生えた。
これはコロナに限らず、単純に寿命で先に死ぬだろうし、長生きしても30歳の自分の事を30歳の娘に伝える時には、自分はとっくに60歳の別人のような爺さんになってるハズだから。
そういう意味で、今と向き合って記録する意味は、生きるなかで計り知れないと痛感できる。

発信の内容は、地方都市の住宅の在り方を通して個人の生きる事と世の中についての考える事。@SHAREFOR_rec
(自分は不動産とまちづくりが専門なので、幸いにもここまで言ってきた「発信」というテーマと、中身の親和性がわかり易過ぎるくらいめちゃくちゃ高い。これは運なだけで、入れ子の構図はとても楽しい。)

発信によっていくら売り上げた・何人がフォローしている というのは、結局経済に人間が負けている状態で、消耗戦に足を踏み込んでいると思う。
発信によって得るべき事は、
自分自身に向けた対話であり、
伝えたい数名に伝えられる安心感であり、
自分を知ったうえでの優しい繋がりだと思う。

その辺も見えて来て、(相変わらず発信に四苦八苦しているが)、発信してみる事にして多くの事を得ている実感がある。
お金や承認を得るために発信してる人は、自ら自分の環境を破壊してるように見える。
ありのままを記録し、発信したい。