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#長谷部安春
『流血の抗争』(1971年・日活・長谷部安春)
日活がロマンポルノへと路線を変更し、一般映画の製作を休止することになる1971 (昭和46)年は、日活アクション史における最後の年でもある。この『流血の抗争』は6月10日に封切られた長谷部安春監督にとっても最後の日活アクションとなった。く新しい資金源を求めて次々と新興都市を喰いつぶす巨大な組織暴力の実態>とプレスシートにあるが、アクション映画そのものも大きく変容していた時代でもある。
才気あ
『広域暴力 流血の縄張』(1969年・日活・長谷部安春)
ドスを呑込んだダボシャツ姿のアキラが、新宿歌舞伎町を彷徨う。望遠レンズで捉えたキャメラが、ナマナマしく1969年の新宿を行き交う人を映し出す。血まみれのダボシャツ。剃り込みの入った額。全身から発散する気迫。まさか、これが「渡り鳥」で黄色い歓声を浴び、スーパーヒーローとアジアで賞賛されたマイトガイと呼ばれた小林旭だと、誰も思わなかったんじゃないだろうか?
どう見ても本職。もちろん周囲にはスタッ
『野良猫ロック セックス・ハンター』(1970年・長谷部安春)
「野良猫ロック」の最高傑作は何か? 意見が分かれるところであるが、長谷部安春監督による第三作『野良猫ロック セックス・ハンター』(9月1日)が、シリーズの中でも際立っていることは間違いない。梶芽衣子の名台詞「バッキャロー!」は本作で登場。冒頭、中年のオジさんをカツアゲる不良少女グループのリーダー、マコを演じた梶芽衣子のスタイル! つば広の帽子にマキシ、ファッショナブルな梶芽衣子の美しさが輝いてい
もっとみる『女番長 野良猫ロック』(1970年・長谷部安春)
日本万国博覧会に沸き立つ1970(昭和45)年は、様々な時代のひずみが噴出しつつあった年でもある。斜陽の映画界では、製作システムが激変。この『女番長 野良猫ロック』も、和田アキ子の所属しているホリプロの系列会社であるホリ企画が製作、日活が配給するというかたちで企画された。
脚本の永原秀一は、1967年『拳銃は俺のパスポート』(野村孝)で、センセーショナルにデビュー、それまでのヒーローが悪玉を
『野良猫ロック マシンアニマル』(1970年・長谷部安春)
長谷部安春監督が三たび演出したシリーズ第四作『野良猫ロック マシンアニマル』(11月22日)は、それまでの長谷部作品とはいささかテイストが異なる。舞台は日活アクションの聖地であり、ホームグラウンドでもある港町ヨコハマ。例によって、不良少女グループと、暴走集団が共存しているこの街へ、基地の街、山口県岩国市から三人の男たちがやってくるところから物語が始まる。
岩国から来たのは、藤竜也演じるノボ、
「野良猫ロック」シリーズの魅力!
遂に「野良猫ロック」全作がソフトパッケージ化された! 1970(昭和45)年といえば、高度経済成長の総決算というべき大阪万博に沸き立ち、昭和元禄ムードの余韻に、世の中全体が浮かれていた年。同時に、学生運動、ヒッピームーブメントといった若者たちをめぐる状況は混沌としていた。そうしたなか、映画界はどん底に喘いでいた。邦画各社の成績もジリ貧となり、製作体制そのものが激変しつつあった。
そんな中、ア
長谷部安春の日活ニューアクション時代
長谷部安春監督のデビュー作は、小林旭のスパイ活劇『俺にさわると危ないぜ』(1966年2月12日)。助監督時代、鈴木清順に師事しただけあって、ポップな感覚にあふれ、セット中心の展開は人工美の魅力に満ちている。同時に、本寸法の演出は、やはり師匠の野村孝譲りの判りやすさだろう。日活が驚いたというカット数の多さは、長谷部自身の粘りによるもの。しかし、興行的にふるわず、1年4ヶ月ほど干されてしまう。