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雛祭り・桃の節供の源流「上巳」の行事とは?【歴史にみる年中行事の過ごし方】

「上巳の節供」は江戸幕府が式日として定めた「五節供」の2番目にあたる。

「五節供」は明治5年(1872)12月の「明治の改暦」に伴い廃止されたものの、それぞれ旧暦の日付をそのまま新暦に引き継いで民間行事として残った。

現在3月3日は「雛祭り」「桃の節供」とも呼ばれ、「雛人形」を飾り、桃の花や菱餅など供えて祝う日として親しまれているが、今のような形式になったのは江戸時代に入ってからだという。

「雛祭り」「桃の節供」の源流となる「上巳」の行事から、その歴史を振り返りたい。


病気や災厄を流す行事

 「上巳の節供」と「雛祭り」は、本来、別物だった。

「上巳」とは3月最初の「巳の日」のことで、古代中国には「上巳の祓」という水辺に出て病気や災厄を流す禊の行事があった。

魏晋南北朝時代(220〜589)以後、3月3日が「上巳」と定められ、貴族や文人のあいだで「曲水の宴」も行なわれるようになる。

公事十二ケ月絵巻

「曲水の宴」とは、庭園に作った曲がりくねった小川に沿って参会者が座り、上流から流される杯が自分の前を通り過ぎないうちに詩歌を詠み、その杯を手に取って酒を飲むというもの。

これらの風習は、遅くとも奈良時代には日本へ伝えられていた。

漢人も 筏浮べて 遊ぶといふ
  今日そ我が背子 花縵せよ

奈良時代末期の成立とされる『万葉集』に、天平勝宝2年(750)3月3日に大友家持が邸で「曲水の宴」を催したおりに詠んだ歌が収められている。

その後、「曲水の宴」は廃れたものの、平安貴族のあいだで病気や災厄を託した紙の人形(ひとがた)を川や海へ流す禊の行事が行われるようになった。『源氏物語』須磨の巻でも、光源氏が陰陽師に祓をさせ、人形(ひとがた)を舟に載せて海に流す場面が描かれている。

人形(ひとがた)と「ひひな」

平安時代には呪具としての人形(ひとがた)と、幼児の遊びの玩具として「ひひな」(紙などで作った小さな人形)とがあった。

この時代を代表する作家・紫式部の『紫式部日記』に、皇子誕生の五十日祝の小道具に「小さき御台、御皿ども御箸の台、洲浜などもひひな遊びの具と見ゆ」とあり、清少納言の『枕草子』には「過ぎにしかた恋しきもの〈中略〉ひひな遊びの調度」とみえ、「ひひな」は「上巳」の行事とは関係なく、幼児の遊びの玩具として用いられている。

また、3月3日の「上巳」に人形(ひとがた)を贈る風習は、室町時代前期の公家・万里小路時房の『建内記』永享12年(1440)3月3日条に「上巳祓在貞朝臣自二昨日一送二人形一」とみられた。
ただし、「ひひな」の贈答は『御湯殿上日記』文明11年(1479)閏9月9日条、『言継卿記』弘治2年(1556)10月13日条などにあるように、3月3日以外にも行なわれている。

その後、江戸時代初期の西洞院時慶の『時慶卿記』寛永6年(1629)3月4日条に「昨日中宮ニテヒイナノ樽台等ニ有酒」とあり、江戸時代初期には3月3日に定着していた。

時代が下るにつれ、人形(ひとがた)と「ひひな」が結びつき、現在の「雛人形」となったようだ。

江戸の春の風物詩「十軒店の雛市」

「ひひな遊び」が「雛祭り」として定着したのは、江戸時代、幕府が「上巳」を五節供の1つに定めてから。

贈答品となった「雛人形」は次第に立派なものとなり、お祓いののち仕舞われ、翌年にも用いられるようになる。また、旧暦の3月3日頃に桃の花が咲くことから「桃の節供」とも呼ばれるようになった。

女児の成長や幸せを願って「雛人形」を飾る風習は、京を中心とした上方のものだったが、寛文年間(1661~73)には江戸にも浸透したという。

桃の節句

江戸時代の「雛人形」には時代の名前をとった寛永雛、元禄雛、享保雛のほか、次郎左衛門雛、古今雛などがあり、美術工芸品としても優れた作品が作られるようになった。やがて雛段を3段、5段にしたり、御所や紫宸殿を模した御殿飾りなど飾り方にも工夫が見られるようになる。

このような豪華な「雛飾り」は朝廷や幕府、大名や豪商たちが中心だったが、享保年間(1716~1736)には臨時の市が立つようになり、次第に一般にも広まった。
2月25日から3月初めにかけて、江戸では日本橋十軒店や尾張町など、京都では四条通、大坂では御堂前などに雛市が立ち、その賑わいは季節の風物詩だったという。

江戸名所図会 7巻.

年中行事は時代とともに変遷する

江戸や京、大坂など都市部に普及した「雛人形」が全国各地に広まったきっかけは、明治時代に入って百貨店が扱い始めたことが大きかった。

明治37年(1904)、俗に「二八」と呼ばれる商売の閑散期に、三越が近くの日本橋十軒店の雛市の盛況ぶりをみて手掛けるようになり、やがて東急や松屋などがつづいたという。

百貨店は、それまで雛市で行なわれていた売り手と買い手の駆け引きをせず、正札をもって販売。その後も時代の変化を捉え、新しい製品を次々と生みだし、今のような形式に至っている。

雛人形

近年、ジェンダー平等への意識が高まり、「雛人形」の飾り方(男雛と女雛の並び)に違和感を感じる人もいると聞く。

江戸時代後期の国学者・喜多村信節が『嬉遊笑覧』で「今の雛祭は上巳の祓を思へるにや」と記しているように「雛祭り」は「上巳の祓」の名残りで、そもそも3月3日は春を寿ぎ、水辺に出て病気や災厄を流す禊の行事を行なう日だった。

「雛祭り」に限らず、今に伝わる年中行事のほとんどは、時代の移り変わりとともに変化してきた。今後「雛人形」の飾り方も、その時流に沿った形式に変わっていくのだろう。(了)

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国立国会図書館デジタルコレクション

【主要参考文献】
・新谷尚紀著『日本人の春夏秋冬』(小学館)
・河合敦監修『図解・江戸の四季と暮らし』(学習研究社)

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