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日本独自の風習「十三夜」の起源と変遷を辿る【歴史にみる年中行事の過ごし方】

旧暦9月13日の夜を「十三夜」という。

「中秋の名月」、いわゆる「十五夜」の月を愛でる風習は中国・唐より伝わったが、「十三夜」は日本独自のものだ。

昨今忘れられつつある年中行事の歴史を振り返りながら、今宵は夜空を眺めたい。


文化人たちに愛された「後の名月」

雅びで華やかな王朝文化が花開こうとしていた時代に、いささか満月に満たない晩秋の月が賞翫された。

旧暦9月13日の夜の月を愛でる風習は、平安時代前期、寛平法皇(宇多天皇/第59代)がこの夜の月を「無雙」と賞したのが始まりとも、醍醐天皇(第60代)の延喜19年(919)に清涼殿で「月見の宴を催した」のが始まりともいわれている。当時、都の貴人たちは池の水面に映る月を眺めたり、杯に月を映した月見酒を酌みながら観月の宴を楽しんだ。

また「十三夜」の月は「中秋の名月」の約1ヵ月後であることから「後の名月」とも呼ばれ、いにしえより文化人たちに愛された。

雲消えし 秋の半ばの 空よりも月は
 今宵ぞ 名におへりける(『山家集』)

平安後期から源平争乱の時代を生きた西行は「中秋の名月よりも十三夜の月の方が名月の名に相応しい」といい、鎌倉幕府滅亡から南北朝の動乱の時代を生きた吉田兼好は『徒然草』に「八月十五日・九月十三日は、婁宿なり。この宿、清明なる故に、月を翫ぶに良夜とす」と「中秋の名月と並んで、十三夜は月を賞翫するのに相応しい夜だ」と綴っている。

「片見月」の起源は吉原か?

「十三夜」という天皇や貴族、文化人を中心とした風習が一般庶民に広まったのは江戸時代のこと。

町人文化が華やいだ元禄期、泰平の世を謳歌した松尾芭蕉は『笈日記』の「芭蕉庵 十三夜」の中で「仲龝の月はさらしなの里、姨捨山になぐさめかねて、猶あはれさのめにもはなれずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は宇多のみかどのはじめてみことのりをもて、世に名月とみはやし――云々」と「十三夜」が寛平法皇(宇多天皇)頃に始まった日本独自の風習であると記していた。

「中秋の名月」、いわゆる「十五夜」が秋の実りに感謝する祭りとして親しまれ、里芋などを供えて「芋名月」と呼ばれたように、「十三夜」は豆や栗などを供えて「豆名月」「栗名月」と呼ぶ。

また「十五夜」の月と「十三夜」の月をあわせて「二夜の月」といい、どちらか一方の月しか見ないことを「片見月」といって縁起が悪い、両方の月を同じ場所で見ると縁起が良いと伝えられる。

この出どころは諸説あるものの、一説に江戸吉原の遊郭が紋日だった「十五夜」に登楼した客を「十三夜」にも再訪させるために謳い始めたといわれている。あるいはもともとあった「片見月」の伝承を吉原遊郭が利用したことで広く流布されたとも。

いずれにせよ、当時、吉原の遊女たちはどちらかにしか登楼しない客を「片見月」と呼んで忌み嫌ったらしい。見栄っ張りで縁起担ぎが好きな江戸っ子の心をくすぐる、吉原の商魂たくましさに口もとが緩む。

江戸時代の娯楽「二十六夜待ち」

ちなみに江戸時代の人々の観月にまつわる風習は他にもあった。

旧暦1月26日と7月26日の深夜八つ刻(午前2時頃)に現れる月には阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が宿るとされ、その月の出を待って遥拝することを「二十六夜待ち」という。

どちらかといえば7月26日が盛んで、江戸後期には高輪から品川にかけての海沿いや高台に老若男女が押し寄せ、飲食を楽しみながら真夜中の月を仰いだ。

これはもともと「月待ち」と呼ばれる民間信仰だったが、時代が下るにつれて大衆の娯楽へと発展したもの。自然や季節の移ろいを肌で感じながら、その風情を楽しむことが彼らの娯楽となった。

四季に恵まれた日本には、いにしえより連綿と受け継がれる年中行事がある。昨今忘れられつつあった観月の風習を見直すことで、これからの暮らしに楽しみが増えた。

今年の「中秋の名月」は天候に恵まれ、全国各地で観測できたと聞く。
「片見月」の謂れはともかく、まずは「十三夜」の月を愛でることから始めたい。(了)

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国立国会図書館デジタルコレクション

【参考文献】
・赤坂治績著『浮世絵で読む 江戸の四季とならわし』(NHK出版)
・井上忠司+サントリー不易流行研究所著『現代家庭の年中行事』(講談社)


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