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茶木寿夫(ちゃき としお)の「人生冒険物語」シリーズ まえがき総集

イントロダクション

好奇心があれば、何事も面白い。
あの峠の向こうには何があるのだろう・・・、それと同じく自分の人生には、この先何があるのだろう! どんな世界が開けるのだろう・・・と思うとワクワクした。

結果として、私の好奇心は7つのことに向いた。
それは、アルペンスキー、モータースポーツ、飛行機パイロット、ヨットセーリング、乗馬の5つに加え、ジャーナリスト、国交省の運行管理者講習会の講師の7つである。

よく人に「人生で、そんなに沢山のことが出来るものですか?」と言われることがある。
「ある数年で全てやれと言われたら無理ですが、人生の時間の流れのなかで、数年単位でリレーのように繋げば、十分出来ますよ」と答える。

私には、「人生は天が与えてくれた遊びの時間」という考えがある。ならば、反社会的行為でない限り、どうせ一度の人生なら、好きな事、楽しいことを目一杯やってみたいと思ったからである。
そんなことから、未知の世界へ飛び込む人生冒険の旅に出た。

今回、そのうちの5つを、単行本的に「人生冒険物語シリーズ」として順次掲載していくこととした。

人生冒険物語シリーズ   

  • 人生冒険物語 第1編 スキーに魅せられて

  • 人生冒険物語 第2編 モータースポーツに魅せられて

  • 人生冒険物語 第3編 大空への挑戦

  • 人生冒険物語 第4編 ヨット魅せられて

  • 人生冒険物語 第5編 乗馬に魅せられて カゥボーイに憧れて


よく人に「人生で、そんなに沢山のことが出来るものですか⤴」と言われることがあるが、
「数年単位でリレーのように繋げば、十分出来ますよ」と答えている

それらへの動機やキッカケ、困った時の打開策や、人生これで終わりかと思ったこと、各転機でのエピソード、人との出会いで人生が広がったこと、思いがけない展開等、各編に分けて著した。

これらのことから、何かが貴方の人生のヒントになれば、著者として大いなる喜びである。

詳しくは各編をご覧いただきたいが、各編をまえがきとして書くと次の通りである。


■ 第1編 スキーに魅せられて


私は、永遠の青春歌謡「青い山脈」とともに、昭和24年(1949年)にこの世に生を受けた。
富山の農家に生まれた私は、毎日、田園風景と北アルプス立山連峰を眺めながら育った。
子供の頃、野山で風を切って滑るスキーはとても面白く感じた。
社会人になったら、地元の企業に勤め、週末に農業をやれば、安定した生活があるだろうとは分かったが、それは私の性には合わない。
そして学校の授業はつまらない。学校の勉強には興味はほとんど湧かず、当時唯一興味を持ったスキーに頭が行った。

それが嵩じてスキーの受験資格最年少の21歳でインストラクター資格も取り、そこから人生が広がった、
日本一になった男で親友の斉藤博さんとの接点も深まり、さらには世界ジュニアで優勝した伊藤敦さんや、オリンピックで2度優勝し、世界のミスターGSと呼ばれたアメリカのデッドとも懇意になった。
というよりも、テッドがまだ子供の頃、彼の両親と親しかった私は、彼の家によく泊まっていたのである。

田舎の一スキーヤーが、日本のトップ選手や、世界のトップ選手と懇意になるとは、当時は夢にも思わなかったが、私は、彼らが有名人だから付き合った訳ではなく、知り合いが有名になったというのが本当のところである。

でも兎に角、一流の人は技術はもとより、人間性も素晴らしいものを持っている。
このような人達から学ぶものは大きい。
これもひとえに、スキーに好奇心を持ったのが始まりだった。


1984年8月 ニュージーランド南島にて。スキーヤー茶木寿夫
(撮影:写真家・柳木昭信)

■ 第2編 モータースポーツに魅せられて


あるカッコイイ都会的な人から、振り向きざまに「茶木君、君、ラリーって知っているかい?」と言われた。「いえ、知りません。ラリーってなんですか?」と返事した。
この一言から、私のモータースポーツへのめり込む人生が開けた。
スキーで日本一になるのは無理と分かったが、この世に生まれたからには、何かで「日本一」と言われるようになってみたいという気持ちがあった。

ラリーに何回か出てみて、地方大会でトップランクになってきた私は、「ン? これは自分を信じてやれば、日本一になれるかもしれない」と思うようになった。
そして当時日本で最高峰と言われた日本アルペンラリーに参加し、三菱やプリンスのファクトリーチームに伍して入賞し、主催者からも、三菱からも表彰された。

それが嵩じて、日本アルペンラリー主催の親会社である日刊自動車新聞社に入れてもらい、ラリーコース設定を専門とする職業に着かせてもらった。
そんな職業に着いている人は、日本で2人しかいなかった。私のボス(上司)であり、ラリーの神様と呼ばれた澁谷道尚氏と、私の2人である。

給料を貰いながら、ギャランやスカイラインのラリー仕様車に乗り、全国の山道を走り回れるのだから、最高の職業と思った。さらには、日本のトップラリーストを、私の意のままに、走らせることが出来るなんて、こんな面白味のあることは他に無いとも思った。

必然的にラリー界の方々との接点も深まった。
それがさらにはレース界の大御所、フォーミュラキングの異名をとる堀雄登吉氏や、元F1ドライバー片山右京氏らとの接点もできた。
物事は面白いもので、接点が接点を呼び、海外のマレーシアでのレースの展開にも結び付いていく。

機械に詳しかった父親の影響で、私は小学生の頃から田んぼで耕運機を操っていた。そんな田舎の一介の物好きが、ラリーやレースの世界で存分にさせて貰えたのは、「背伸びして、峠の先のあの世界にはどんな光景がひろがっているのだろう・・」という好奇心が強かったからだと思う。
そこにあった気持ち、キッカケ、折々のエピソードで綴ってみた。


1979年11月 WRC(世界選手権ラリー)英国RACラリー出場(クラス6位)

■ 第3編 大空への挑戦


子供の頃、背戸の田んぼで凧揚げしながら、空を悠々と飛ぶトンビを見て「あの鳥のように、大空を自由に飛んでみたい」という気持ちを頂いた。
それから20数年。郷里の富山で小さなチャンスは訪れた。だが実は結ばなかった。当時の月給が2万数千円のとき、飛行機の免許を取るには100万円必要だった。

さらにそれから10年、チャンスは再び訪れた。知り合いが私の事務所を訪れ、「アメリカで飛行機の免許をとらないか。私が面倒をみるよ」と言ってくれた。「人生最後のチャンスかもしれない」と思った私は、それを機にハワイ、ロスアンジェルとへと渡った。

だが、道はそう簡単ではなかった。ハワイではFBIに追われた。警察にも連れていかれた。ロスアンジェルスでは日本なら確実に新聞記事になるであろう次のことを行った。

ナビゲーションと機械ものを扱う感性に自信のある私は、慢心から自分が今どこにいるか分からなくなる現象の機位喪失(ロストポジション)に陥った。時刻は夕方で、太陽はどんどん西に落ちていく。燃料は後2時間しかない。飛行機には私一人だから、自分で何とかするしかない。英語も最低限の事しかしゃべれない。そして生き残れるチャンスは、真下にある不明の滑走路に降りるしかない。空港と無線連絡を取りたいが、その空港の名も分からず、無線周波数も分からない。死ぬよりマシと思い、無断強行着陸決行の挙に出た。高度を下げるにしがたい、地上の戦闘機が見えてきた。そこは米軍の海兵隊の基地だった。
ロシアなら殺されると思った。だがアメリカだから1週間ほどの拘留で返してくれるかもしれないと肚をくくった。
だが、幸いにも生きて帰れた。

その後、富山空港で、元ゼロ戦パイロットにして、定期便の機長や、アフリカの台頭猟奇の機長も務めた菅原靖弘氏との知遇を得た。
そして後年、菅原氏を主人公にした物語単行本「ゼロファイター大空を翔る男」(長崎出版刊)を著した。それからさらに20年後、改題して「ゼロファイター世界を翔る」を潮書房光人新社(サンケイ新聞系)から文庫本を刊行してもらった。

それは私が、曲がり何もパイロットとして飛行機にのること、戦闘機と同じく操縦桿が床から出ているステックタイプの高級滑空機(ソアラ―)を操ったことなどの経験が、役だったからだと思う。

この執筆が、私に戦争と世界の歴史に、深く関心を抱かせてくれた。
世界の歴史と、人の人生の歴史は、誠に興味が尽きない。
そんな片鱗を感じ取ってもらえたら嬉しく思う。


1981年5月 アメリカ・カルフォルニア州 サンタカタリーナ島にて。
私と同じ年生まれのパイパーアパッチ双発機で、同島へフライト。

■ 第4編 第4編 ヨット魅せられて


私の青春時代に、銀幕のスター祐ちゃんこと石原裕次郎さんは、カッコいい象徴の1人だった。
彼はヨットが好きだった。その姿に憧れた。

スキーがそれなりに滑れ、モータースポーツをやり、飛行機の操縦も出来るようになった私は、「ン? じゃあ、それに加え、ヨットと乗馬をやれば、007のジェームス・ボンドのようにモテるんじゃないか・・・」と思った。

それは映画の世界だけなのに、なぜかかなり本気でそう思った。

キッカケになることは3つあった。
一つ目は、私が中学生の頃、義兄からかけられた「ヨットをやってみればいい」に一言だった。兄は大学時代、琵琶湖でのヨット経験があった。
でも私には海は海水浴に行くくらいしか接点がなかった。でも想いは心の中に伏流水のように深く入り込んだ。

二つ目は、名古屋のFさんという友達が、「今度ヨット&ボートショーが東京の晴海である。自分はその為に東京に行く。どうだ一緒に行かないか」と誘ってくれたことだ。
ヨットのことなど、右も左も分からない私だったが、会場に入り一目見たニュージャパンヨット社の「ソレイユ・ルボン」に、目はクギ付けとなった。
「いつかヨットに乗るなら、絶対にこの船!」と完全に一目ぼれした。

三つめは、東京の稲城市に住むTさんからのお誘いだった。
「私は静岡の沼津に、モーターボートを持っている。一度乗りに来ないか」と誘われた。前夜に彼のマンションに泊めてもらい、翌朝船を出した。
Tさんは、いろんなことをよく知っている人で、海の魅力を語ってくれた。私はだんだん海の魅力にハマっていった。

それらと相前後して、船の免許も4級、そして1級とへとステップアップして取った。
1級取得の時であったのが、後日自分のヨットで太平洋を往復したOさんだった。

海やヨットに、何の接点もなかった私が、いろいろな人から声を掛けてもらったことにより、ヨットを入手し、伊豆の八丈島や、三重県の志摩、そしてシンガポールやニュージーランド、さらには地中海でもセーリングさせて貰えた。

海は広い。そして海は人の心も大きくさせてくれる。と同時に自然は容赦なく、人に襲い掛かってくる。歌の文句じゃないが、今は静かな海も、一度荒れたら岩をも砕くのである。
海では甘えは一切許されない。能力の無さは死に直結する。言い訳なんか何の役にも立たない。自分の乗っている船と、技量と、経験と、体力が全てである。
そんな生きる知恵と海の素晴らしさを、海と自然から教わった。
英語は世界の人と繋がる言葉のツールだが、船の技量は世界中のどこでもそのまま通用する。人生に広がりがでる。そんなことを感じて貰えたら嬉しい。


1980年代半ば。静岡県の伊豆半島、西伊豆の古宇港にて

■ 第5編 カゥボーイに憧れ、乗馬に魅せられて


私が子供の頃、TVで見るアメリカ映画はカゥボーイの作品が多かった。大草原で馬を走らせるカゥボーイはとてもカッコよく見えた。
私が小さい頃、家には農耕馬が致し、家の一角は馬小屋だったから、馬には親しみがあったが、カゥボーイのように草原を馬で疾走するなんて、夢の世界でしかなかった。

それが実現へのキッカケとなったのは、1984年に封切られたロマンチックコメディ「ロマンシング・ストーン 秘宝の谷」を観たときだった。
この映画は、女性が髪をなびかせ、颯爽と馬を走らせるシーンから始まる。それを見た時、「カッコイイ」としびれた。自分も是非ああやって馬を扱ってみたい! と強く思った。

だが、どうやって・・・??? 

最初は手探りで、ちょっと接点があったアメリカの田舎へ手紙を送った。でも返事はない。
それから、あの手この手と尽くしたが、全ては空振り。
考えてみれば当たり前で、大して馬にも乗れない日本人が行ったって、足手まといになるだけだし、相手にもされないだろう。
万策尽きて「やっぱり無理なんだ」とおもい、肩をがっくりおとした。

だが、窮すれば通ずで、何気なく長野の白樺湖畔にあるホープロッジに、ふらりと立ち寄ったことから、想いは急展開した。

ホープロッジの名物酋長こと川村嘉彦氏とは、以前から面識があった。私はその乗馬牧場で、何回か乗馬をしたことがあるからだった。

東京へ帰ろうとする私に、酋長は「飯でも食べていけや」と声を掛けてくれた。急ぐこともないしと思い、言葉に甘えて一緒に食事をしていたとき、私は何気なく「北米大陸へ行って馬に乗りたい」と話したら、酋長はしばらく考えていてから口を開いた。
「君が、そんなに馬に乗りたいのなら、カナダへ来い。わしは今度、映画【天と地と】のホースチームの総責任者としてカナダに行く。馬は1,000頭使う。現地には現地のカゥボーイのリーダーがいるが、ワシが総責任者だ。君一人くらいなら面倒見てやる」

余りにも突然で、とてつもなく大きい話なので、私はすぐに返事をしかねた。
「でも酋長、私はそんなに馬には上手にのれませんよ」というと、
「そんなのかまへんで」と言ってくれた。
物事の出会いやチャンスは、まさに急行列車のすれ違いのようなものだと思った。

そこから話はトントン拍子に進んで、2週間後に私はカナダに向かった。

そしてカナダの大草原で、本物のカゥボーイ建ちと3ヵ月間、毎日毎日、朝から晩まで、馬に乗って映画の撮影に明け暮れた。
願いは叶った。
後年、今度は私が日本人をホーストレッキング(馬でのトレッキング)にガイドするまでになった。


1989年夏 カナダ・アルバータ州のインデァン居留地での映画撮影時

夢を本気で願えば、いつかは叶う。
そんなエピソードを書いてみたいと思う。



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