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#158|私はこういう生き方が好きだ

記事を書く時、書き始めはアタマに浮かぶことをただ出していくが、書き進めると何らかのテーマが出てきて、表現したいことの狙いや論理性などが何かしらのまとまりになることが多い。

今日はそうではなく、書き始めから終わりまで、アタマに浮かぶことをだーっと出した日。書いてみると、それは「私の理想の生き方」というテーマの散文になった。note365日連続投稿チャレンジ158日目。


運命思考論者

「起こる出来事、人との出会い、それらには全て意味がある」と、率直にそう感じるところもあるが、「そう考える方が絶対に得だ」という観点からも、そのような考え方を持っている。

「なぜ私は今ここに生きているのか」「なぜ私はこういう私なのか」「なぜ私はあるのか」といった、いくら考えても答えが出るものではない問いも、年に数度ほどそういうような視点を持つ時間を取ると、新しいナニカに気づくこともある。


「Do」より「Be」

クラブハウスをしなかったら出会っていなかった人たちとの出会いは、私に何をもたらすのか?私はなにをあげられるのか?ということを思う。

人生の残り時間がどれくらいあるかわからないのに、毎晩クラハをして、noteを書いて、多くの人とやりとりして、それが本当に自分のやりたいことなのだろうか?

答えはイエス。

というか、私にとって「コト(何を)」というのはそこまで重要度が高くない。「どのように」それをするのか?の方が大切なことだ。

今出会っている人たち、今関わっている事柄というのは、何かしらのご縁の結果だ。その「今、目の前に現れているものごと」に、「どのような姿勢で関わるのか」ということの方が、私にはずっと重要な時間の使い方になる。


病める時も健やかなる時も

「残された時間がわかった瞬間に人は生き方が変わる」というが、仮に「今晩、命が終わる」ことがわかった場合、もはや「あれはいやだ」「これがやりたい」というような気持ちは浮かばないのではないだろうか。

ただ、今、目の前にある「昨日までは平凡そのものだった景色」が、厚みとリアリティを伴って、どうしようもなく眩しく見えるようになるのではないか。

そう思うと、「非凡なもの」とはいつも目の前にあるものだ。目の前の物事を「非凡」にするのは、いつも自分の視点であり在り方だ。

私は「死ぬことが決まってからそのことに気づく」ような、「亡くなることがわかってからその人との時間を大切に思う」ような、そういう生き方よりも、いつもいつも、今、存在していることの奇跡と感動と感謝を噛み締めて生きていたい。

そうすれば極論、「何をするのか」はどうだっていいのだ。これから先が「どうなるのか」も手放してしまえる。

大切なのは、私に今与えられているものと「どのように」関わるのかだけ。そこを徹底的に突き詰めて、その後の展開のオーダーは「どうぞ自由に」。いつも相手からの、世界からの、「オススメ」を受け入れらるような深さと余裕を。


Drift

ここまで書いたことは私の「理想の生き方」の面で、そうでない現実的な面もある。「あれはいやだ」「これがいい」と望む、そちらの方も楽しんでいる。

「どのように」がひたすらに重要だ、と思いながら、「何を」にもかなりのこだわりがあるのも事実だ。"お店"に入れば「店主のオススメ」より「俺の好み」を優先する場面も多い。

なので、現実的に実行しているスタイルは「目の前のことをたいせつに」しながらも、「望む景色の場所に移っていく」ような仕方でやっている。


それは、「『漂流』を歓迎する」仕方だ。「向かうゴールを明確に決めて進む」ことよりも、ただ今、全力で生きた結果どこに行き着くのか?の方が興味がある。

今の自分が望む程度のゴールをぶち抜いてもっと先のゴールに行きたい。自分のアタマで考えて、自分のエゴの範疇で行き着く場所を限定してしまうよりも、可能性に対してもっと開けている方が絶対におもしろい。

どれだけ予想を超えていけるか。「未来がわからない」展開の人生がいい。「明日は何が起こるんだろう?」という生活が理想だ。

とはいえ、本当にただ「漂流」するのではもったいない結果になると考えていて、なので「ゴールをセットして追求する」ような方法を完全に手放してはいない。

ゴールセットと環境に任せての漂流、この「いいとこどり」。大まかな流れを見て希望に向かう波には乗るように意識しながら、しかしどう流れていくかは手放し、流されている今を楽しんで生きたい。


✑50分|1800文字

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