文章を書くということや思いを伝えるということ、そして効率性と愛の欠如について
こんばんは。トサノコージです。
note 連続投稿6日目です。
写真展のためとはいえ、我ながらよくやると思います。
ただ、現在22:21でこの文章を書き始めたのですが、果たして今日中に書き終えるでしょうか?
なんか昨日も同じこと言ってた気がしますが、レッツトライ。
本日は品川あたりでお仕事でした
さて今日も仕事の行きと帰りにしか(SNS、写真展用の)写真を撮っていません。 朝8時前後と夕方4時前後。時間にすると15分程度しか撮ってないような。
天気が良かったおかげでなんとなく形にはなりました。
夕焼けは偉大です。
なんならもう夕焼けだけ撮っていたい。
ちょっと仕事が立て込んでまして、じっくり写真を撮れない日々が続きますが、仕方ないですね。明日も5時起きです。
写真を撮るだけでは伝わらないこと
さて本日の本題です。
何度もお伝えしているのですが、僕は地方誌の編集者でした。福岡で街の名所や名物、美味しいお店や有名な人、熊本で街ゆくオシャレな人や面白い人たちの情報を読者に文章や写真で伝えていました。
根本にあるのが「人に何かを伝えて、役に立ちたい」という気持ち。
これは、きっとmixi(懐かしい)時代からSNSで写真をあげ続けていられる原動力になっているのだと思います。
伝える、というのはどんな手段でも可能です。
今みたいに文字を書くのは当然として絵を描くことで伝えることも可能ですし、音楽でつたえることも可能でしょう。
今僕は仕事で写真を撮っているのですが、これは写真というメディアが時間をかけず(作り込めば別ですが)にサクッと成果物を得られるという性質が好きだからです。
短期なので時間のかかる作業が苦手なんですね。
仕事としても趣味としても続けれられている理由です。
ではなぜ今、note という場で文章を書いているのでしょう?
それは、大きな理由は4月に行う写真展のPRのためなのですが、SNSだけでは自分の存在や思いを伝えきるのに限界を感じてきたからでもあります。
多くを語らずとも「写真を観て感じてもらえれば良い」という考えもあるのですが、残念ながら自分にはSNSという広くも狭い土俵では伝え切ることができません。
なら、文章を書けば良いじゃないか。と思ったのです。
140字の制限もないことだし!
効率よく思いを伝えるということ
そこでここ数日は(時間的に)しんどい思いをしながら毎日note を書いているのですが、なれないとなかなか大変なものです。
6日目にしてようやくエンジンが温まってきたところなのですが、まずこれまで文章を書いたことがない、という人には気軽にオススメできるようなメディアではないと思っています。
が、ここでとても役にたつ記事を見つけました。
写真アカウントを始めてから、Xで名前を見ない日はないほどのインフルエンサー Ken Tanahashi さんの記事です。
彼は僕がSNSの運用を始めるにあたって、いろんな知見を参考にした方です。最近はAI 方面に力を入れられているようですが、写真に関するSNS運用の仕方はとても参考になる、というか知ると知らないでは効率が雲泥の差になるだろうな、とここ1年で痛感しました。
こちらのnote の記事も今日拝読したのですが、「これから文章を書きたい」という人は有料記事になりますが一読をお勧めします。
伝えたいことがあるなら、その「伝わりやすさ」が段違いになると思います。
効率が全く変わるのは間違いないです。
効率性の追求は愛の欠如なのか
そして効率、という言葉で思い出したのですが…
以前にとあるフォトグラファーの仕事の集まりで面倒くさがりの僕は撮影の仕方に対して「もっとやり方はこうした方が効率はいいんじゃないですか?」と気軽に提案したことがあります。
そんなことばかり言ってると
「効率って言ってると、写真撮影じゃなくてまるでただの作業みたいだな」的なことを言われたことがあります。
ちょっとドキッとしました。
これは日常の業務でやりがちな自覚があるのですが、時間は有限だと思ってるので、無駄は限界まで排除してなるべくキチッと写真を撮ろうと思うタイプなのです。
写真って結局撮る方は感情の問題だし、被写体が人間なら撮られる方の感情の問題でもあります。
あまりにシステム的にこなそうとすると、大事な何かが薄れる気も確かにするのです。
何か、というのが曖昧ではあるんですが、メチャクチャ雑に言葉を当てはめるとすれば「愛」とかそんなもんなんじゃないかなあ…。
ですが、その先輩フォトグラファーの意見は「まあ一理あるんだよな」とは思いつつ、やはりそれでも僕はより多くの成果物を上げられるのなら、とことん効率は追求したくなる人間なのです。それを面白がっている節すらある。
そもそも日本の職人に昔からある「努力、苦労の美学」みたいなものが大嫌いで、苦労すれば苦労するほど良いものができる、という神話的なものが基本的に苦手なのです。
苦労しなくても良いものができる、伝わるものものがあるなら、わざわざ面倒な手数を増やすのって無駄じゃないですか?
使えるものは何でも利用するのが近道だと思う
話が逸れたような逸れてないような感じでアレなんですが、要はあまり自分の行動を神聖視しないで、冷静に使えるものはなんでも使った方がいいんじゃないかな、と自分は個人的には思っています。
もちろん、苦労したり悩んだりするのが目的なら、いろんな回り道をしながら活動を楽しむ、というのもアリだとは思います。
が、自分のようなオッサンにとっては人生はもういろんなことを回り道して楽しむには時間が残されていないので、全力で近道を探しながら謳歌したいと思っています。
まあ、心の奥底には「愛」のあるスペースはしっかりと確保しておきたいものですがね。
文章で「愛」なんて単語を単体で使ったの初めてかもしれない(照)
それでは、また明日! 多分!
トサノコージ初個展「百日」まであと20日!
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