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排泄小説 9

 そのときだった。最初からふさがっていた奥の個室のドアの鍵がそろそろと青に変わった。許容の青。今さら遅すぎる許容の色だ。だが、そこが空けばひとまず中に避難することができる。おれは腰を引いて太ももを開いた姿勢のまま、顔を逸らして中のやつが出ていくのを待った。そいつは、音と臭いでおれがくそを漏らしたことに気がついているに違いなかった。
「あっ!」
 突き刺すような声に思わず顔を上げると模糊山だった。奥の個室を占拠していたのは、この洟垂れデブだったのだ。やつは目を丸くしておれを見た。いつものように軽くあしらうことなどできなかった。パンツの中にびちぐそを溢れさせて、そんなことができるわけなかった。
 本当のところ、最悪の相手だった。だいたい、なぜこいつがこんなところにいるのだ。売り場でもバックヤードでも見なかったから欠勤かと思っていた。だが、制服を着ているところを見るとそうではなかったらしい。ずっとここに隠れていたとでもいうのか。万賀一の件で。
 とにかくとんでもない巡り合わせだった。おれは、最低最悪の時と場所と相手の前でパンツの中をびちぐそまみれにするという、地獄の真っ只中にいた。
「なんか変な音したから……」
 模糊山はおずおずと言いながら鼻をひくつかせた。自分が何の音を聞いたのか、本当はよく分かっていたはずだった。
「くっさ!」
 パワハラ野郎にこの言われようだった。おれはその言葉が耳から入って体の中をピンボールみたいにでたらめに跳ね回りながらおれに深刻なダメージを与えるのを黙って受け入れるしかなかった。
 おれの人生はずっとこうだった。下痢くそ野郎に成り下がってからずっと、おれはこうやって差別され、蔑まれてきたのだ。誰も彼もがおれをくそのことでバカにしてきた。誰も彼もがだ。
「やい、うんこマン、またうんこ行くのか。いつも何食ってんだよ」
「くせー、くせー、みんなこいつに近寄るな」
 みんな大笑いだ。びちぐそまみれのおれの過去。人間なら誰だってくそをする。それなのになぜ、おれだけがうんこのことでこんな風に扱われなきゃならない。なぜだ。
「うっそ!」
 模糊山はおれの顔をまじまじと見ながら言った。この臭気の原因がおれだということが信じられないといった様子で。
 そうだ。こいつは遠慮などない男だ。デリカシーゼロで、思ったことをそのまま口に出す男だ。そういうやつらがいつも先頭に立っておれを差別しやがったんだ。そういうやつらが、臭気たっぷりの絶対に逃れられないこの呪縛でおれを縛りつけたのだ。
 おれは模糊山がここぞとばかりにマウントをひっくり返し、おれをうんこ垂れとからかい、見下し、罵り、蹂躙してくるのを覚悟した。うんこを漏らしておきながら誰にもバカにされずに済むほど世の中は甘くないことを、おれはいやというほど知っていた。
「あの、ちょっと中入れば?」
 思っていたのとは違う言葉だった。おれは呆然自失のまま模糊山の顔を見た。やつは笑ってはいなかった。鼻はつまんでいたが、それなりに真剣な顔をしていた。
「ここ入って」
 模糊山は、うんこマンと化したおれを個室に導き入れた。二歩下がって、おれのうんこオーラに触れないようにしながら。
「ちょっとここで待ってて」
 やつは何か妙案があるかのようにうなずくと、外からドアを閉じた。おれは、最後の力を振り絞るようにして鍵をかけた。他に何もできなかった。
 やつがどうするつもりか分からなかったが、こうしていればひとまず隠れることができた。臭いが漏れ出すのはどうにもならなかったが、姿をくらませていられるだけましだった。
 おれは個室の壁に肩からもたれかかった。指先が震え、膝には力が入らなかった。三十にもなってうんこを漏らしたという事実が心と体の隅々にまで行き渡り、おれのなけなしの自尊心はずたぼろになった。
 ズボンを下げる気力もなかった。硬いくそならともかく、びちぐそはパンツからぬぐい去ることも簡単ではない。それはピーナツバターみたいにパンツの内側にべったりと塗りたくられるのだ。いや、それよりもっとべちゃべちゃだ。ブルーベリージャム、煮詰まったデミグラスソース、水分多めの黒カレー。
 ロッカーの中に隠してある六百万のことを思い出しても、心はまったく晴れなかった。おわりだ。おわりだ。おわりだ。そんな言葉が頭の中でこだましていた。
 やがて、隣りの個室から幸せそのものといったトイレットペーパーを引き出すときのからからいう音が聞こえてきた。おれが紙を使うときには絶対に鳴らないような軽やかな音だ。どうやったらこんな音が出せるんだ。幸せとは、トイレのことで何一つ悩まないでいられることだ。
 ジジイがトイレから出て行くと、入れ違いに誰かが入ってきた。おれの個室がノックされた。
「開けて」
 模糊山だった。おれはどうすべきか分からなかった。
「色々持ってきたから」
 やつが一人だということは足音から分かった。おれを見世物にするために他のスタッフを引き連れてきたわけではなさそうだった。おれはそうする他にどうしようもなく、鍵を開けた。ドアが外向きに開けられ、模糊山が一歩中に踏み込んできた。
「ぉふっ」
 模糊山はドアを足で押さえると、「ちょっとごめん」と言って制服のポケットから使い古しのマスクを取り出して装着した。それなしにうんこマンと相対することなどできないのだ。仕方ないとは分かっていても、そういうちょっとした挙動がおれを手ひどく痛めつけた。
「これ。着替えて」
 模糊山は店のロゴ入りのビニール袋をおれに差し出した。中には新しい制服のズボンとここの二階で買ったらしいパンツが入っていた。白のブリーフだ。
「脱いだやつはそのまま袋に入れて縛って捨てればいいし。じゃ、おれちょっと出てるから」
 おれは黙って言われた通りにした。考えることなどできなかった。制服の黒のスラックスをめくるようにしておろすと、トランクスが股間にべったり張りついていた。裾からびちぐそが内ももを伝って流れ落ちていた。先に靴と靴下を脱がないとダメだった。靴は無事だったが、靴下はびちぐその被害を受けていた。
 おれは靴と靴下を脱ぎ捨てると、なるべく汚れが広がらないようにしてズボンをゆっくりおろした。足腰のバランス感覚とミリ単位の正確さが問われる作業だったが、なんとかうまくやれた。
 難関はこのあとだった。トランクスの内側はまだ一口も手をつけてない大盛りのキーマカレーをぶちまけたみたいになっていた。脱ごうとして手をかけると、裾からびちぐその一部が床に落ちてにちゃっといやな音を立てた。聞き間違えようのない、びちぐそが床に垂れた音だった。
 被害を広げずに脱ぐことなど不可能だった。おれの足はますますひどいことになった。穢れが広がるたびに、おれは叫び出したくなるのを抑えなければならなかった。
 びちぐそまみれのパンツをなんとか脱ぐと、少しだけ気持ちが前向きになるのを感じた。下半身はひんやりしたが、やるべきことが見えてきた。
 おれはトイレットペーパーを巻き取って泥だらけのケツを拭いた。ケツとその周り、それから内ももを。膝の下辺りまで。最後にふくらはぎやくるぶしを。個室にわしゃわしゃという紙の音が響いた。
 水っぽいくそは肌に染み込んでなかなか落ちなかった。おれは何度も紙を巻き取ってわしゃわしゃと拭いた。そのたびに使用済みの紙を便器に捨てた。わしゃわしゃ。ぽい。わしゃわしゃ。ぽい。悪夢でも見てるみたいに、拭いても拭いてもきれいにならなかった。
 紙を一山使った頃、おれのケツはようやく少しましな状態になった。風呂場でよく洗い流さない限りすっきりすることはありえなかったが、急場はしのげそうだった。
 おれは新品のパンツを袋から出した。四半世紀ぶりに白ブリーフとご対面だ。二階の売り場にはトランクスやボクサーパンツもあったはずだった。模糊山がこれを選んだのは、やつが白ブリーフを愛用しているからに違いなかった。本当に気持ち悪いやつだ。
 白ブリーフに両足を通すと、まるでやつの履き古しを履いているみたいな気がして怖気をふるった。後ろから金玉をがっしり捕まれているみたいな、鳥肌ものの締めつけ具合だった。おれは目を閉じてその不愉快なイメージを追い払い、鳥肌が引くのを待った。
 制服のズボンはお馴染みの黒のスラックスだ。事務所に何本かストックがあるのだ。おれはそいつを履くと、いったん肩から壁にもたれかかった。便器に座って一息つきたかったが、まだケツとズボンの生地をぴたっとくっつけるだけの勇気はなかった。それでも状況は好転しはじめていた。あとは汚物を処理すればひとまずオーケーだ。臭いはまだ充満していたが、それはやがて消えてくれるだろう。
 おれはびちぐそのついたパンツと靴下を、びちぐそのついたズボンでくるむようにして、なるべく小さく丸めた。そいつをビニール袋に放り込むと、中の空気を抜いて口をきつく三回縛った。おれはトイレを流し、びちぐそを封印したビニール袋を土産の鮨詰めみたいにぶら下げながら、ふらつく足で個室から出た。おれの心と体は目の粗いサンドペーパーで三日三晩擦り続けられたみたいにすり減っていた。
「窓開けたから」
 マスクをした模糊山が言った。
 おれは窓の方を見た。住宅群の上に澄んだ青空が広がっていた。助かったのだ。おれはモンスター映画で最後に一人だけ生き延びた登場人物のような気持ちになった。悪魔の毒々うんこ怪人は退治された。もう大丈夫だ。
「捨ててくる」
 模糊山がビニール袋に手を伸ばしてきた。おれは反射的にそれを背中に隠した。
「捨てるってどこに」
「下のごみ捨て場とか」
 模糊山は自信なさそうに言った。
 確かにそこしかなかった。店で出るごみをすべて溜めておく場所が、一階納品口の脇にあるのだ。スーパーという場所はもともと生ごみが大量に出るところで、ゴミ捨て場は常にいやな臭いが充満していた。毎朝一番に回収車が来るが、誰もわざわざ中を漁ったりなどしないだろう。だからと言って、そう簡単にこいつを人手に渡すわけにはいかなかった。
「なんで――」
「あ、峰打さん、いたいた」
 言いかけたところへ、学生バイトがトイレに顔を覗かせた。そいつはおれと模糊山が対峙しているこの状況をうまく飲み込めず、わずかに態度を固くした。
「峰打さん、ポリ介が――、ってなんか臭ぇ!」
 そいつは顔を曇らせて言い、おれが手にしているビニール袋に目をやった。おれの心臓はクラブのぶ厚い入口ドアの向こうから響いてくるビート音みたいに激しく脈打った。とっさに何の言い訳も思いつかなかった。この臭いが自分のケツの穴と直結しているということはごまかしようがないと思えた。
「ちょっと客が汚したんだよ」
 模糊山が言った。
「え? あぁ」
 学生バイトは勝手に了解してくれたようだった。
「ポリ介が呼んでるんで、面接室行ってください」
 学生バイトは模糊山をちらりと意識しながら言うと、会釈して出ていった。おれはすかしっ屁みたいにすかした息を漏らした。
「ん」模糊山が手を出して言った。「捨てとくから」
 おれはおとなしくビニール袋を渡した。
「袋二重にしとく」
 おれは目をそらせてうなずいた。人手に渡った自分の汚物をまともに見ることなどできるはずもなかった。
 そのとき、模糊山がいきなりずいと一歩近寄ってきた。やつの張り出したメタボ腹が当たり、おれは圧迫感から逃れようとわずかに身を引いた。模糊山はその分だけ距離をつめてきた。おれがもう一歩下がると、やつはまた同じだけつめ寄ってきた。おれたちはそのやりとりをもう二、三回繰り返した。おれは壁際に追いつめられた。
「言ってくれるよね?」
「え?」
「警察に。おれ、何もしてないし。何調べてるか知らないけど、おれ、疑われるようなこと何もしてないじゃん」
「それは……」
「おれがいなきゃ、これ無理だったでしょ」
 やつはビニール袋を掲げた。おれは思わず顔を背けた。おれのびちぐそは今や脅しのネタに使われていた。
「ね? ね? 無理だったよね」
 模糊山の目は必死だった。それとこれとは別の話だと言いたかったが、理屈を言っても通用しそうになかった。それに、うんこマンの口から言えることでもなかった。やはり、やつは警察から隠れるためにトイレにこもっていたのだ。疚しいところがあると言ってるも同然だったが、本人はそんなことには気がつかないようだった。
「誰にも言わないから頼むよ。おれ、万賀市にひどいことなんかしてないよね? 証拠とかないし。だよね?」
 答えようがなかった。こいつはまだ万賀市のピーチクパーチクのことを知らないのだ。こいつに教えてやるやつなど誰もいないからだ。
「おれがいい上司だって言ってくれるよね。峰打くんにだって何もしてないもんね?」
 それはおれがそうできないようにラーメンの五食パックを投げつけてやったからだ。
「おれだって自分の仕事をこなしてただけなんだから。人手不足とかおれのせいじゃないし。おれがバイトまとめないと店が回らないわけでしょ? おれだってただの契約なのに社員は誰も助けてくれないんだから、むしろ被害者みたいなもんだよね。ね? ね?」
 おれはあいまいな返事をしてトイレを出た。


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