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排泄小説 10

 面接室に行ってみると、スーツ姿の四十くらいの男が一人いた。そいつがポリ介だった。
「お仕事中すいません。すぐ済みますので、どうぞお座りください」
 おれは会釈してやつの向かいに座った。あまり居心地のいい感じではなかった。ポリ介は手元の資料を繰った。ちらりと見ると、ここで働いているやつらの履歴書だった。これがこいつらの手口だ。おれたちの情報はとっくに掌握されているのだ。
「えーと、峰打イチローさんでよろしいですね?」
「はい」
「もうご存じかと思いますが、こちらにお勤めの万賀市恭一さんが昨夜こちらのお仕事を終えたあと亡くなりまして」
「はい」
「そのことでいくつか質問させていただきますが、どうかご協力ください」
 おれは黙ってうなずいた。そうしながら、聞かれたことにだけ答え、余計なことを喋らないように改めて自分を戒めた。質問の内容次第では嘘をつかなければならなかった。
「万賀市さんとはどれくらい一緒に働いていましたか?」
「一年程度。おれのが先にいたので、彼が来てから」
 おれはここで一年半働いていた。万賀市はおれより半年遅れて入ってきた。
「どれくらいの頻度で顔を合わせてましたか?」
「週に二、三日」
「同じ部門の中では峰打さんが一番年が近かったようですが?」
「はぁ」
「特別親しかったというようなことは?」
「いや、特に」
「外で会ったりとか、何か仕事上の悩みを相談されたりしたことはありますか?」
「いえ」
 嘘をつく必要はなかった。万賀市が自分からパワハラのことやなんかを言ってきたことはなかったからだ。
「そうですか」
 ポリ介は手帳に何か書き込んだ。書き込む必要があるようなことを喋ったとも思えなかった。こちらを不安にさせるための手なのかもしれない。
 ポリ介はペン先で手帳をとんとん叩いた。いやな感じだった。まるで、おれが万賀一の女とよろしくやっていることを知っているみたいな叩き方だった。ロッカーに隠している六百万のことを知っているみたいな叩き方だった。その金をどうやって手に入れたかを知っているみたいな叩き方だった。
 おれは次にやつが何か言うまでじっと黙っていた。やがて、ポリ介が何か言った。よく聞こえなかった。ポリ介はまっすぐおれの目を見て確かに何か言っていた。だが、何も聞こえなかった。おれは目を凝らしてやつの口許をよく見た。

 ハイホー
 
 目と耳で同時にやつの言っていることが分かった。いや、やつではなかった。やつは何も言っていなかった。おれの頭の中で音が鳴っていたのだ。

 ハイホー

 何かがはじまりそうだった。音楽のようなものが。

 ハイホーハイホー、仕事が好き

 七人の小人だった。やつらの胸くそ悪くなるコーラスだ。へその奥の方がぼんやり熱を持ちはじめていた。おれの悪い種が膨らみはじめていた。

 たらりたたらたた、ハイホーハイホー
 ハイホーハイホー、仕事が好き

 おれはやつらを黙らせようとした。意地でも黙らせようとした。ポリ介にあれこれ聞かれているときにこんな歌は聞きたくなかった。だが、押さえつけようとすればするほど歌声は大きくなっていった。ハイホーが耳の奥でこだました。おれはこっそり自分の腹を殴りつけた。声にならないうめきが漏れた。歌声は収まらなかった。まるで効果がなかった。
「✖△✖**✖○&△△✖?」
 ポリ介が何か言ったが、おれには何を言ってるのか分からなかった。

 たらりたたらたた、ハイホーハイホー
 ハイホーハイホー、仕事が好き
 たらりたたらたた、ハイホーハイホー
 ハイホーハイホー、仕事が好き

 七人の小人たちの悪意に満ちたにやついた顔が、スライドショーみたいに目の前にちらついた。
 さっきの残りだということは分かっていた。残りがあると、いつもだいたい第二波が来るのだ。経験上、そのことは分かっていたはずだった。あそこまで汚しておきながら、おれときたらあの場で全部出し切ってなかったのだ。おれの理性がちょっとでも格好つけることを選んだのだ。同じ漏らすのでも、より少なく漏らす方がましだというように。
 ケツの穴を入ってすぐのところで、あっという間にうんこ風船が破裂しそうになっていた。もう止められそうになかった。なぜだ。なぜおれだけがいつも多勢に無勢なんだ。なぜおれだけが負ける運命にあるんだ。
「✖△✖**✖○&△△✖?」
 ポリ介が何か言った。
「え?」
「顔色がよくないみたいですが」
 おれはやつの言葉をなんとか聞き取った。
「いえ」
 おれはひきつった顔で答えた。これではまるでおれに疚しいところがあるみたいだった。

 ハイホーハイホー、仕事が好き
 ハイホーハイホー
 ハイホーハイホー

 なぜさっきパンツの中にすべて出してしまわなかったのか。後悔してもどうにもならなかった。ときとして、プライドは命取りになるのだ。ポリ介の前で歴史を繰り返すわけにはいかなかった。そんなことをしたら、さっきよりひどいことになるだろう。あらゆる罪を自白するより、もっとひどいことに。
「げ、下痢ぎみで」
 おれはじっとりと脂汗をかき、うつむいて白状した。
「あぁ」ポリ介はさりげなくうなずいて言った。「あの、どうぞ行ってきてください」
 そう、うんこを前にすると誰しもさりげなく振る舞うのだ。少しでも常識を身につけたやつなら誰しも。「え? うんこ? うんこしたいの? 今?」と心の中では思いながら。
 おれは消え入るようにしてすいませんとつぶやくと、そそくさと部屋を出た。ポリ介のやつがこのことをメモ帳に書き留めるだろうと思い、悔しくて泣きそうだった。
 ハイホーが頭の中で渦巻いていた。一刻の猶予もなかった。トイレに駆け込むと個室は二つとも空いていた。おれはさっき使った奥の個室に入った。トイレに関して、おれはより馴染みがある方を選ぶ傾向にあった。
 ばすっ!
 一発かました。
 ――。
 それだけだった。
 ――。
 ぱすっ!
 もう一発、残りが出た。
 それで本当に終わりだった。
 股の間から覗き込むと、焦げ茶色のゲル状のかたまりが三つ四つ水面に浮いていた。鳥の糞並みの微々たる量だった。大部分はさっきすでに放出していたのだ。これだけのためにぐったりだった。
 死にたい。急にそう思った。おれの目に涙がにじんだ。こんなものに苦しめられて。人知れず苦しめられて。こんな、こんな、うんこなんかに。
 ポリ介がなんとメモを取っているか、目に浮かぶようだった。
「峰打イチロー、取り調べの最中にくそに行く。どう考えても怪しい」
 おれが今ここで、このトイレの中で万賀市のように自殺したとしても同じだ。
「峰打イチロー、やはりあいつが犯人だった。取り調べの最中にくそに行くようなやつだ。やつのくそは間違いなく悪党のくそだ。鑑識に回すまでもない。おれのようなベテランになれば臭いで分かる。悪党どものくそは、なんて情けないくそなんだ」
 おれは惨めさに打ちのめされながらケツを拭いた。焦げ茶色のべとべとのものがついた白い紙は、いつもおれの心を少しだけ慰めた。それは最低でも無事にくそをし終えたという証だった。おれが何かに感謝することがあるとしたら、パンツを汚さないで済んだことにだけだ。
 ケツがきれいになると、おれは足でレバーを押して水を流した。どんなに苦しめられたくそでも、流すときには一抹の寂しさを覚えた。誰にも知られずに消えていくのだから。おれの苦しみが誰にも知られないまま消えるのだから。心が空っぽになる気分だった。おれは泣いたことを悟られないように、洗面台で目をよく洗った。
 面接室に戻ると、缶コーヒーの最後の一口を飲んでいたポリ介と目が合った。今や、やつは圧倒的優位に立っていた。やつはポリ介らしい服を着て、ポリ介らしいものを飲み、ポリ介らしくおれを疑うのだ。
「すいません」
 おれはぼそぼそと中座したことを謝った。
 これまで何度もこのことで謝ってきた。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、同じことで謝ってきた。ありとあらゆる連中に、おれのケツからくその臭いがしていませんようにと祈りながら、謝ってきた。
 時と場所をわきまえずにうんこをするようなやつは、犬猫にも劣る不届き者だからだ。おれのくそはどこまでもおれの自尊心を傷つけ、おれを貶めた。おれが真っ白な灰になるまで。
「大丈夫ですか?」
「まぁ」
 おれはおとなしく元の位置に座った。やつは手帳をいったん閉じていた。その顔に嘲笑は浮かんでいなかったが、だからといって安心はできなかった。ポリ介など信用できるわけがない。
「それではあと少しだけ」
 おれは黙ってうなずいた。立て続けに二度もびちぐそをして、やってないことまでやったと言ってしまいそうなほど憔悴していた。それでも、なんとか切り抜けなければならなかった。
「万賀市さんに一緒に暮らしていた恋人がいたことはご存知ですか?」
「まぁ」おれはあいまいに言った。「一緒に買い物に来てたこととかあったんで」
 ポリ介はうなずいた。
「直接のご面識は?」
 直接の面識。おれの脳裏に南真南のすけべ丸出しの顔がちらついた。万賀市には見せたことがないだろういやらしい顔が。
「いえ。話したことはないです」
 おれは平静を装って言った。南真南とは昨日今日の関係でしかなかった。誰もおれたちの間にあったことを知るわけがないのだ。
「じゃあ連絡先などは?」
「いえ」
 おれは首を横に振った。喉元にごろごろと違和感を覚えた。水分を補給したかった。なぜおれがこんなことに巻き込まれなければいけないんだ。あの女はとんでもない疫病神に違いない。
「ですよね」
 ポリ介はペン先で手帳をとんとん叩いた。
「ちょっと連絡がつかなくて困ってまして。その方の証言が取れればこちらも多少やりやすいんですけど」
 やつは困り顔で言った。死んだ万賀市の一番近しい人間にとんずらこかれたことが思いのほか痛いらしい。あの女に警察に連絡するよう言ってやるべきかもしれなかった。おれのことは絶対に喋らないように言って。おれのことをよく知らないうちに。
 ポリ介は話題を変えた。
「社員さんや契約社員の方との関係はいかがですか?」
「は?」
「峰打さんご自身の」
「特に何も」
 そんな漠然とした訊かれ方では何も言えなかった。
「けっこう荒っぽい方もいるという話を伺いましたが」
 すでに誰かが模糊山のことを喋ったのだ。おそらく複数の人間が。多分、この大きな波に乗らなきゃ損だと思って。模糊山はチクられて当然のやつだった。あいつは電気椅子にかけられるべき洟垂れデブだ。だが、他に喋ったやつがいるならわざわざおれまでべらべら喋ることはないだろう。
「こういう職場では珍しいことじゃないと思いますけど」
 おれは個人を特定するような言い方を避けた。それで模糊山への借りを十分返した気になった。ポリ介には、下手に関わることをいやがって余計なことを言いたがらないやつに見えるだろう。
「分かりました」
 ポリ介はまたペン先で手帳をとんとん叩いた。おれはそれを無視してテーブルの隅をじっと見ていた。それ以上質問はなかった。なんとなく、結論ありきの捜査をしているだけに思えた。パワハラで自殺した元芸人志願のフリーターという、週刊誌受けしそうな線で。
 おれは次のやつを呼ぶように言われて解放された。恋人も職場も警察も、誰も万賀市の側に立つやつなんていなかった。死んだやつの扱いなんてどうせそんなもんだ。おれは笑いが止まらなかった。少し元気が出てきた。


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