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13 診察券

男は朝早くから病院の待合で座っていた。昼休みが近づいても名前が呼ばれないので、何かおかしいと思った。診察券を出し忘れていたのだ。財布を探ったがそこに診察券は入っていなかった。家に忘れてきたらしい。男はいったん取りに帰ることにした。

途中、男はそもそもなぜ病院に行ったのか思い出すことができないことに気がついた。何か心配事があったはずだった。考えているうちに、ふいに別のことを思い出した。朝家を出るとき、玄関の鍵をかけ忘れたのだ。近所で空き巣被害があったばかりだった。慌てて帰ると鍵はしっかり閉まっていた。勘違いだった。

部屋に入ると、男はあちこちの引き出しを開けて診察券を探した。心配事が何であったにしろ、それがなければ診てもらえないことに変わりはないのだ。

ところが、どこを探しても診察券は見つからなかった。そのうち、男は部屋が思っていた以上に汚く、不要なもので溢れていることに気がついた。男は一晩かけて部屋をきれいに片付けた。不要なものはすべてゴミに出した。

風呂場で汗を流しているとき、男は途中から診察券のことをすっかり忘れてしまっていたことに気がついた。その一方、そもそもなぜ病院で診てもらおうとしたのかは思い出せないままだった。

そのとき、どこからか笛を吹くような甲高い音が聞こえてきた。男はやかんを火にかけたままだったことを思い出し、慌てて風呂を出た。注ぎ口から水蒸気が勢いよく吹き出していた。火を止めると、中身はほとんど蒸発してしまっていた。

男はふいに診察券をしまった場所を思い出した。壁にぶら下げた安物のウォールポケットの中に入れたのだ。男は水滴をしたたらせながらそちらに足を踏み出し、はたと立ち止まった。それは前に住んでいた部屋で診察券をしまっていた場所だったのだ。

男は急いで体を拭いて服を着ると、以前住んでいた部屋がある街に出かけていった。


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