排泄小説 8

　目が覚めたときにはもう日が高くなっていた。南真南はおれより早く起きたらしく、フロアリングにできた日だまりに寝転がってぼんやり窓の外を見ていた。時間は午前十時を過ぎていた。
「仕事、休んじゃった」
　南真南は寝転がったまま言った。
「ちょっとゆっくりする」
「ここで？」
「うん」
「おれ、出るけど」
「どこ行くの？」
「バイトあるし」
「だよね。留守番しとく」
　遠回しに出ていけと言ったつもりだったが、南真南はそうは受け取らなかった。おれとしても起きたばかりでやりあいたくなかった。変に疑われたくもなかったし、どうやら本当にバイトに行くことになりそうだった。
　一晩寝て起きてみたら、もう顔を見るだけでうんざりだった。もともと気に入っていたわけでも何でもない女だった。おれは、この女が痛い目に遭わないと分からないやつじゃないといいなと思った。そうだったらどうするつもりか、自分でもよく分からなかったが。
　おれたちはテレビを見ながら遅い朝食を食べた。テレビは苛立たしいほどつまらなく、食事はトーストとヨーグルトだけの貧相なものだった。南真南がいることを除けば、いつもの朝だ。
　おれはまた金を持ち歩かなければと思ってうんざりした。昨夜は茶封筒に入れたままトイレの天井裏に隠しておいたので発見されずに済んだ。六三一万、全額揃っていた。おれは札束を茶封筒の中で二列にして腹にあてがい、シャツと一緒にズボンの中にたくしこんだ。刃物よけに雑誌を一冊入れているような感じだった。やはり銀行に預けてしまった方がよさそうだ。
　バイト先には、昨日のことはシフトを勘違いしていたとでも説明すればよかった。半年に一度程度なら通用する言い訳だし、どうせ昨日の仕事はもう終わっているのだ。終わったことは終わったことで、誰も気にしたりなどしない。
　おれは早々に支度を済ませて部屋を出た。南真南はテレビを見たまま「いってらっしゃい」と言った。
　駅前にあるＡＴＭに立ち寄ろうと商店街を歩いていると、先の方からふいに視線を感じた。大勢の歩行者がいて見通しがきかなかった。人と人の重なりが一瞬途切れたとき、おれは遠くに知っている顔を見つけた気がしてふと立ち止まった。やつがここにいるはずなどなかった。かなり離れていたので見間違いかもしれない。それでもわざわざそちらに近づきたくない感じだった。おれは金を預けるのは後回しにして、駅前を迂回した。
　スーパーに来てみると、どことなくいつもと様子が違っていた。どこがどうとは言えないが、いつもより空気が張りつめているようだった。万賀市のことがもう伝わったのかと思い、おれは少し警戒した。誰かに聞かされるまで、やつのことは知らないふりでいるのがよさそうだった。
　ロッカールームに入ろうとすると、隣の休憩室からチーフの眉毛が出てきた。模糊山より格上の食品部門のナンバー１で、おれの直属の上司にあたるやつだ。眉毛がつながっているからそう呼ばれているのだ。
「昨日すいません。なんかシフト勘違いしてたみたいで」
　おれは用意していたセリフを口にした。
「え？」
　眉毛は一瞬何のことか分からないような顔をした。
「あぁ、まあしょうがないよ。それよりちょっと大変でさ」
「何です？」
「今なんか警察が来てるんだけど」
　警察？
「万引きですか？」
「いや。万賀市が死んだとか言ってんだよ」
「え？」
　おれは芝居じみて見えないくらいのところで驚いてみせた。無断欠勤がまったく問題にされなかったことはよかったが、警察がわざわざ店に来るなんて全然歓迎できることではなかった。
「昨日仕事あがったあとすぐらしい」
「なんか事故とか？」
「いや、自殺だって」
「自殺」
「あいつマジか、ホント。うちでのことが原因じゃないかって、一人ずつ話聞かれることになりそう」
　原因というのは模糊山のことを言ってるに違いなかったが、眉毛は明言を避けた。自分の下で働いていたやつが自殺するなんて初めてなのだろう。場合によっては何らかの責任を問われる可能性もある。食品部門のナンバー１は売り場で悪質なクレーマーに捕まったときよりずっとひどくうろたえていた。
「警察には聞かれたことだけ答えてよ。分からないことは分からないでいいから。なるべく、ほら」
　眉毛は言わんとすることは分かるだろうという感じで、一本につながった眉毛をウェーブさせた。
「事を荒立てないように？」
「そうそうそうそう」
　おれはこういうことなかれ主義が好きだったから、にやりとしない程度のところでうなずいた。眉毛もまたしきりにうなずき返して、何かぶつぶつ不平不満を漏らしながら売り場に出ていった。当たり前だが店はいつも通りに営業していた。
「あ、峰打さん、聞きました？」
　ロッカーで着替えていると、あとから学生バイトが入ってきて言った。おれがうなずくより早く、もう一人の学生バイトが来てやはり同じ話題を持ち出した。ロッカーは急に万賀市のことで盛りあがった。こいつらによると、万賀市の自殺は昨夜のうちにほとんどのスタッフの知るところとなったのだという。
「ブラックで首吊りとかマジありえないスよ」
「下手すると会社ごとトビますよ。トンだ方がいいスよ、こんなとこ」
「待てよ。なんでそんなに知ってるんだ？」
「あ、峰打さんニャインやってないから」
「ピーチクパーチクのアカウント出回っちゃったんスよ、万賀市さんの」
　ニャインというのは、携帯を持っているやつならまず間違いなく入れているアプリで、知り合い同士でいっぺんにメッセージのやりとりができるものだった。そもそもの情報源がどこかははっきりしなかったが、スーパーの従業員の間でこれを使って万賀一の自殺というホットニュースが拡散されたのだ。
　ピーチクパーチクというのは、１１４文字までの短い文章を電脳空間に投稿できるアプリで、匿名性と手軽さからやはり多くの利用者がいた。それぞれが好き勝手に喋っている様からその名前がついたという。閲覧者は、気に入ったお喋りがあれは「マジウケる」や「おうむ返す」などの機能でそのお喋りを拡散することができた。
　万賀市がピーチクパーチクをやっているとは意外だった。
「あの人芸人やってたじゃないですか。そのときからのアカウントだったらしくて、ここで働いてる人は誰も知らなかったみたいだけどフォロワーけっこういたんスよ、な？」
「な、ヤベーよな。今まためっちゃ増えてますよ、死んだから」
「な？」
　このように、学生バイト同士は仲がいいのだった。
「何が書いてあったんだ？」
「ヤバいっス」
「何が」
「ここのこと、めちゃくちゃチクってます」
「何を」
「ほとんどデブにやられたことですけど。万賀市さんのアカウント、ブラックバイト就労日記って感じですよ」
「なんだよそれ」
　おれは学生たちに万賀市のピーチクパーチクのアカウントを教えてもらった。
　中番の始業時間になると、珍しくミーティングが開かれた。改めてチーフの眉毛から例のことでお達しがあった。警察に余計なことを言うなとか、スタッフの間で噂話をするなとか、ネットに情報を流すなとか、そういうことだ。おれたちは「はい」なんて答えるが、そんなことを言われても無理だった。バイトは職場の利益のことなんて考えないし、人の口に戸は立てられないのだ。
　警察は今、事務所の隣にある小さな面接室にいるという。バイトの面接のときくらいしか使われないからそう呼ばれている部屋だ。おれたちも順番に呼ばれて話を聞かれるらしい。おれとしては、自分の番が来る前に万賀市のピーチクパーチクに一通り目を通しておきたかった。もしそこに何かおれのことが書いてあって、おれが喋ることと食い違いが生じたりしたら困るからだ。
　おれは率先して空になったカートラックを片付けるという仕事に取りかかった。折り畳んだり重ね合わせたりが厄介な作業だが、やっている間は一人になれた。おれは適当にサボってこそこそ物陰に隠れて万賀市のピーチクパーチクのアカウントを見てみた。すぐに一万を越えるフォロワー数が目についた。名前に万がつくとはいえ、万賀市とも思えない数字だった。
　プロフィールは「元芸人の底辺社畜」となっていた。死してなお、いちいちイラつく間抜けだった。芸人にも社員にもなれてないくせに。投稿は新しいものから順に表示されるが、一番新しい、つまり最後の投稿で、やつは「もう無理。無理だから。死ぬから」と書いていた。俳句みたいな響きだった。
　投稿時間は昨夜九時半過ぎで、南真南から聞いていた話とも一致した。やつは、恋人がコンビニに買い物に行っているわずかな時間に自殺予告までしていたのだ。
　売り場での品出し作業に移ってしまうと、もう続きを読むことはできなかった。だが、やつの死の直前のお喋りに自分が登場してなかったことで、おれは少し落ち着きを取り戻した。
　おれは万賀市が何のためにあんなお喋りをしていたのだろうと考えながら加工食品の品出しをした。南真南はやつがピーチクパーチクをやっていたことなど一言も言わなかったが、このこともまた知らなかったのだろうか。パワハラを受けていたことも分かってなかったのだから、やはり知らなかったと考えるのが自然だろう。万賀一は、ああ見えて恋人にこそこそ隠し事をするタイプだったのだ。
　午後四時から一時間の休憩があった。職場の休憩室では落ち着かないので、おれは上着だけさっと着替えて迅速へ向かった。スーパーとは歩いて三分と離れてない。迅速は相変わらずジジババで混み合っていた。おれはコーヒーを飲み、メロンパンをかじりながら、万賀市のお喋りを斜め読みでさかのぼっていった。
「1000出勤。2215退勤。休憩25分。Ｍにまた怒鳴られる。いやな気分」
「0915出勤。2120退勤。休憩40分。Ｍはいつもわざと休憩中に仕事を言いつけてくる。少しも休まらない」
「1005出勤。2055退勤。休憩10分。Ｍが怒り狂う。おれが遅刻したせいだ。５分の遅刻と１５分の説教で休憩が２０分削られる。そこからさらに３０分削られて、裏で仕事しながらおにぎりを食べた」
「0800出勤。2025退勤。休憩50分。Ｍが怒鳴るが何を言ってるのか分からない。怒鳴られていると喉が締めつけられて声が出なくなる。耐えられない」
「0930出勤。2010退勤。休憩35分。Ｍにやめたら殺すと言われる。言われるの８回目。数えてるおれ。Ｍなんか死んだらいいのにと思う。何度も死んでほしい。マジで」
「1000出勤。2245退勤。休憩40分。Ｍはおれが定時であがってるように見せかけるためにときどき勝手にタイムカードを押す。けっこうある。客前で「使えねぇな」と言われる」
「1000出勤。2240退勤。休憩45分。Ｍに裏で怒られる。約一時間。社員は素通り」
「0900出勤。2050退勤。休憩25分。Ｍが自分のミスをおれのせいにして客に謝らせられる。そのあと説教。限界」
「0800出勤。2145退勤。休憩50分。Ｍがおれのあとから階段をあがってきながら怒鳴る。ホラー映画みたいな恐怖。狭い通路の行き止まりに追い込まれ、しばらく怒鳴られる。ネズミみたいだと我ながら思った」
「0815出勤。2300退勤。休憩45分。Ｍが怒鳴り散らす。ボケだの死ねだのお前のせいだの。連日の人手不足で六連勤。ぼろぼろ」
「0800出勤。2130退勤。休憩40分。Ｍにあれこれやらされる。Ｍは何もしないで社員のご機嫌取り」
「0900出勤。2045退勤。休憩40分。Ｍが用もないのに休憩室に来て、休んでんじゃねえとか嫌味を言う。手をはたかれて食べかけのおにぎりが落ちる。拾って食べた」
「0900出勤。2100退勤。休憩45分。Ｍに正座させられる。あとで泣く」
　万賀市のお喋りはずっとそんな調子で続いていた。スタイルも決まっていた。よっぽど仕事とＭのことが好きだったらしく、そのことしか書いていなかった。おれのことなどどこにも出てこなかった。
　ここに登場するＭとは、もちろん模糊山のことだ。こいつはまさしくパワハラ日記で、おれたち同僚はここに書かれていることが概ね事実であることを証言できた。
　万賀市のあほんだらは、模糊山にいびられているその場では何も言い返さないで、こうしてピーチクパーチクに記録を残していたのだ。パワハラを告発したいのか、ただのストレス発散か、ピーチクパーチクで人気取りをしたかったのか、どういう目的でやっていたかは分からないが。
　なんとなく、やつがやめられなかったのは仕事ではなく、このピーチクパーチクの方だったのではないかという気がした。やつはそれくらいバカだからだ。
　休憩を終えてスーパーに戻る途中、急に腹が痛くなった。万賀市のピーチクパーチクのことに気を取られてまったく油断していた。腹の奥がうずくいやな感じがすると思ったら、すぐに差し込むような痛みに変わった。ケツの穴を入ったすぐのところで、罰ゲーム用のうんこ風船が膨らみはじめていた。破裂するまで膨らみ続けるやつが。
　おれのトイレマップが指し示したのは、職場であるスーパーのトイレだった。迅速の向かいにある区の施設の方がランクはよかったが、もうそこは通り過ぎていたし、休憩時間も終わろうとしていたのだ。おれはケツの穴をきゅっと締めながら商店街を急ぎ足に進んだ。道を歩いているやつの誰一人として、おれが小走りになっている理由を知らなかった。

　ハイホーハイホー、仕事が好き
　ハイホーハイホー、仕事が好き

　おれは従業員用の裏口ではなく、より近い客用の出入口から店内に入った。そして、すぐ脇にあるエスカレーターを駆けあがる。
　トイレは二階の生活用品売り場の奥まったところ、バックヤードへの通用口の脇にあった。エスカレーターの降り口とは正反対の場所だ。客とスタッフが共用で使うものだが、存在感が薄いこともあって客の使用頻度はそんなに高くない。男の方は個室が二つついており、両方ふさがることもめったになかった。状況はかなり切羽詰まっていたが、まっすぐ駆け込めば超弩級の爆弾を落とせるだろう。
　おれは台所用品の棚の間をすばやく通り抜けた。向こうの壁際の通路をジジイが一人、トイレに向かってとろとろ歩いている姿が目の端に写った。ライバル出現。おれは万が一を恐れて足を早めた。トイレに関する限り、悪い予感は的中しがちだからだ。
　形勢はこちらに不利だった。おれは一気に差を縮める作戦で、ペット用品の棚が並ぶ外回りのコースに出た。ところが、行く手にどこかのババアが道をふさぐようにしてカートを斜めに置いていた。
「ちょ、それどけて！」
　しゃがみ込んでペットフードを物色していたババアはまるきり気づかなかった。死ね、くそババア！　おれはカートを突き飛ばすようにして無理やり通り抜けた。

　ハイホーハイホー、仕事が好き

　ジジイを見ると、もうトイレにアプローチしかけていた。おれは猛然とラストスパートをかけた。
　タッチの差でジジイの方が先に入口ドアに達した。だが、勝負はまだ終わりではなかった。ジジイがくそとは限らなかったし、男トイレには個室が二つあるのだ。大丈夫だ、おれは無事にくそができる。おれはジジイのすぐ後ろにぴったり張りつき、やきもきしながらトイレに入った。脇に出るスペースがなく、追い越したいのに追い越せなかった。ジジイはそのまままっすぐ個室に入り、ドアを閉めた。
「あっ！」
　思わず声が漏れた。身は漏れなかった。
　鍵が閉まる音。拒絶の赤。と同時にもう一つの拒絶があった。隣の個室も使用中だったのだ。
　ありえないことだった。おれの頭は一瞬にして真っ白になった。ここでくそができるものと思っていた。他の案など考えてなかった。どんなにいい案があったとしても、どのみち今からでは遅すぎた。

　ハイホーハイホー、仕事が好き、たらりたたらたた、ハイホーハイホー
　ハイホーハイホー、仕事が好き、たらりたたらたた、ハイホーハイホー

　ケツの穴の中の風船はすでに限界まで膨らんでいた。七人の小人たちが総出でうんこを送り込んでいた。笑いながら。げらげら笑いながら。赤と赤。拒絶の色。もうダメだ。風船は今にも破――。
　ばしゅっ！　ぶじゅっ！
「かっ、はっ……」
　ぐじゅじゅー、ばっ！
　じゅっ、べべべっ！
　おれは壁のタイルに手をつき、腰を引いて太ももを開いた。何もかも手遅れだった。もう何もできなかった。何も――。
　ばぶっ！
　とどめに一発あった。パンツの中はびちぐそまみれだった。ぐちゃぐちゃの水様便の感触。くそというのは、実際に出てみるまでどんな形や色や固さや臭いをしているか正確に言い当てることなどできないが、今回のはまさに最悪だった。
　おれは手をそっと後ろに回し、ズボンの上からケツのところを触ってみた。生温かいびちぐそが中でべっちゃり潰れて引き延ばされるいやな感覚があった。そいつはズボンにまで染み出していた。おれは汁気が太ももを伝って垂れてくるのも感じた。
　おれは不思議な解放感と虚脱感に満たされていたが、何一つ打つ手はなかった。今の今まで、何があろうとくそを漏らさないように散々苦労を重ねてきたというのに、いざ漏らしてしまったときにどうするかということはまったく考えたことがなかった。自分でも笑ってしまうくらい何もだ。くそを漏らした場合のことなんて、おれにとっては死後の世界を心配するようなものだった。くそを漏らすことは死ぬことと同じだった。死んだらもうどうにもならないのだ。
　最低最悪の時と場所だった。ここではみんながおれのことを知っていたし、おまけによりによって警察なんかが来ていた。一度出てしまったくそはもう戻すことができなかった。逃げ場もどこにもなかった。どこへ逃げたとしてもおれ自身がうんこなのだ。何もかもおしまいだ。
　おれ自身がうんこなのだ。おれ自身がうんこなのだ。おれ自身がうんこなのだ。おれはうんこ。おれはうんこ。おれはうんこ。おれはうんこ。おれはうんこ。おれはうんこ。おれはうんこ。おれはうんこ。おれは……。
　今にも誰かに見つけられて、うんこ垂れ、うんこ垂れ、三十にもなってうんこ垂れ、と囃し立てられる恐怖のイメージが思い浮かんだ。