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23 追憶の殺人

ある夜、男は終電に近い私鉄の駅でホームの端をふらふら歩くスーツの中年男性を見かけた。かなり酔っているようだった。

電車が入って来ると、男は引き寄せられるようにしてその見ず知らずの相手に近づいていった。そして、何を思ったか、すれ違いざまに背中を肩で強く押したのだった。

中年はバランスを崩してあえなく線路に落下した。直後に急ブレーキの音が響いた。周囲に他に人はなく、男は振り返ることもなくその場を去った。

ほんの出来心だった。中年は轢死し、男は捕まることもなかった。

数年後、そのときのことはどちらかと言えばいい思い出として男の中で記憶されていた。なぜそんな風に記憶しているのか、自分でもよく分からないくらいだった。

あるとき、男は付き合いが深まりつつあった女と英国式庭園が見えるレストランに出かけた。ゆっくりできる窓際の席だった。結婚を申し込むつもりだった。

食事中、二人の間には常に笑いが絶えなかった。絶品のバジルソースのパスタに気をよくした男は、ふと数年前の駅での出来事について話しはじめた。

女は興味津々で話にうなずき、男も興に乗った。最後の部分まで話し終えると、二人で一緒に笑い合った。

男はプロポーズを切り出す前にいったんトイレに席を立った。用を足している間も上機嫌で、いい返事をもらえると確信していた。

席に戻ると女がいなくなっていた。彼女もトイレかと思い、男はエスプレッソのおかわりを注文した。自分のした話の余韻に浸りながら、男は一人にやけてそれを飲み干した。

三杯目を飲み終えたところで、男はようやく女がもう戻らないのだということに気がついた。男は四杯目を注文した。

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