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空中庭園


 三十歳の男とその半分の年齢の少女が、お別れの記念にと東京の西の方から電車を何本も乗り継いで目的地もないままあちこち寄り道してやってきた長い旅の途中で、ホームから見える絶景の海原が有名な駅ではなくその一つ手前にある小さな寂れた駅に降りたった。
 線路は海岸線と並行に走っていたため、その駅も海から遠くなかった。さてどうしようと話し合うのでもないまま、二人は海に向かって歩きはじめた。軒先に吊るされた鯵の干物の匂い、日用品を積んだ個人商店、その商店のガラス戸についたほこり、悠然と道を横切るぶち猫、円筒形の郵便ポスト、荷台に青と黄のビンケースを載せた軽トラック、小道を通り抜ける潮風がまだ少し冷たかった。
 海岸道路が見えてくると波の音がかすかに耳に届き、二人の足は自然と速まった。海辺に出る階段をおりるとき、靴の裏に砂がざらつくのを感じた。少女はこのとき初めて海というものを目の当たりにしたのだった。波打ち際まで駆けていきたかったが、大きさも形も異なる石が不安定に積み重なった足場に行く手を阻まれ気を揉んだ。
 転ばないようにと差し出された男の手を借りて、少女は足元を確かめるのに気を抜けないでいた視線をちらちらと上げては前に進み、ようやく波打ち際に出た。
 午後早い時間の海は、刻一刻と現れては消えていく無数の面がきらきらと光を跳ね返し、ひどくまぶしかった。空は雲ひとつなく晴れわたり、頭上高くに一羽の海鳥が飛んでいた。遠方には数隻の漁船が浮き、穏やかで絶え間ない波音に、時折海岸道路の車の走行音が混じって聞こえた。
 少女の胸がにわかに締めつけられた。初めて海を見た感動や喜びからではなかった。どこへでも行きたいところに行けるこの旅が続いている限り二人はいつまでも一緒だと思っていたのに、海はむしろこの先どこへも通じていない行き止まりを連想させたからだ。
 少女は思わず男の手を強く握った。しかし、口には出さなかったその思いが手を通じてそっくり伝わってしまうような気がしてすぐにそれを解き、気持ちをごまかすように足元の貝殻を拾いはじめた。
 ところどころ欠けたものも多い貝殻たちは、少し大きめの波が来るたびに水をかぶって濡れて光った。拾ったものを太陽にかざし色々な角度で眺めやりながら、少女はこの旅がやがてどこかにたどり着くのではなく、ただ元いた場所に戻っていくだけだという、最初から分かっていたはずのことをもう一度思い起こした。
 そうなったとき、自分と男では一体どちらがつらいのだろう、どちらがより傷つくのだろう。考えてみても分からなかった。ただ、胸の内に何か捉えがたいものがあって、それは意識されたりされなかったりしながら、時にもやもやと際限なく広がるのだった。男と出会う以前には知りえなかった感覚だった。
 男はその捉えがたい何かが少女の内にあることを分かっているようでもあり、分かってないようでもあった。男が分かっているように思えるとき、少女は男の内にもまた自分と同じようなものがあるのではないかと感じることができた。男がまるで気づきもしないとき、少女は見知らぬ場所に一人きりで取り残されたような気持ちになった。
 男が少女を呼び寄せた。その指さす方に視線を向けると、海岸沿いの高台に建つ奇妙なコンクリートの建物が目に入った。
 奇妙というのは、その窓から樹木や植物があふれ出し、空に向かって枝葉を伸ばしていたからだ。二人のいる位置からは、海に向いた南側の全面に大きくとられた窓と、東側の壁についた二つの窓が見えたが、いずれの窓もまるで内側から殻を食い破られるようにして植物に突き破られていた。枝葉が日の当たる方へ伸びるため、建物全体が海に首を突き出しているように見えることも奇妙さを引き立てていた。
 男が行ってみようと誘った。
 朽ち果てつつあるその四角い建物は、店舗として利用されていたものらしかった。入口部分の横長のシャッターが壊れて半分めくれあがっており、いかにも廃墟然としていた。すいすいと無断で侵入する男のあとについて、少女も建物に入った。広いが薄暗く、何本かの柱があるだけでがらんとした一階をぐるりと見て回ると、二人は奥についていた階段をあがった。
 思いのほか長く傾斜のきつい階段をのぼりながら、少女は妙に思った。上の階には植物があれほど繁茂しているのに、一階にはその気配が微塵もなかったからだ。コンクリート打ちっぱなしの作りで土さえなく、空気にもまるで湿り気が感じられなかった。
 ふと手をついた壁に、家具か何かの角をぶつけてできたような凹みがあるのが目についた。それが昔住んでいた部屋の壁にあった傷に似ていて、少女は過去に触れるようにしてそっと指でなぞった。周囲にはゴムが擦れてできたような黒い筋がいくつか残っていた。
 先を行く足音が途絶えたような気がしてはっと顔をあげると、いつの間にか男が消えていた。気を取られていたのは一瞬のことだった。階段はまだはるか上まで続いており、のぼり切るだけの時間はとてもなかった。
 階段をのぼった右手に二階の部屋の入り口が見えたが、蔓の一本も這い出していなかった。急に、そこにはただがらんどうの閉じた空間があるだけなのではないかという気がしはじめた。振り返ると、いつの間にか一階もはるか下となっていた。男の姿はどこにもなく、少女は階段の途中で足がすくんで動けなくなった。
 いつもそこで目が覚める。
 それは以前にあった出来事をなぞる夢だった。いや、そうではない。現実にあったことを参考にしながら、それとは別のものになっていた。降りた覚えのない駅。歩いた覚えのない道。海岸や貝殻も知らなかった。窓から植物のあふれ出た建物もそうだ。ただ、男だけはいた。二人で電車を乗り継いであてのない旅をしたのだった。
 夢の結末は怖いところもあるし、たびたび見るようになったはじめの頃はそのせいで苦しんだり気持ちが落ち込むこともあった。しかし、それも次第に薄まっていき、今ではただ男を懐かしく思い出すのみだった。
 あれから、その旅の終わりから、少女は元の生活に戻ったのだった。
 以前のように学校に通い、また友人たちと会った。日本史と美術が好きになり、料理を覚えようと努めた。時折、その夢を見たりすると、あのときの続きをぼんやり考えてみるのだった。夢の続きではなく、ほんの二、三年前に現実で男と一緒に行った旅の続きをだ。あるいは、あのときのいくつかの出来事や、二人で交わした会話、印象深い仕草などをただ反芻した。
 その日は休日で予定は何もなかった。少女は夢の余韻をできるだけ引き伸ばそうと、布団を引っ張り上げて頭から潜り込んだ。そして、想像と反芻の時間を心ゆくまで味わうのだった。


いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。