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排泄小説 3

 おれはよそのトイレに行くべく店を飛び出した。頭の中のトイレマップを開き、一番近くにあるトイレを検索した。裏の通りを少し行ったところにある児童公園に一つあった。急げば一分とかからない距離だ。ランクはD級だったが、ぜいたくを言ってる余裕などなかった。
 おれは脂汗をかきながら夜道を走った。やつらがすぐそこまで来ていた。ひょいと穴を覗けば先端が見えるくらいのところまで。一瞬の気の緩みも許されなかった。
 公園に着くと、男女共用の個室が一つしかない公衆トイレが絶望の荒波の合間に現れた聖母のように淡く光って見えた。おれは一目散に駆け込むと、ズボンとパンツをまとめて一気におろした。消毒せず直にケツをつけられるような便座ではなかったが、そんなことは言ってられなかった。
 座り込んだ途端、ずばしゅっ! おれはくそを噴射した。べしゅっ! 尻が浮き上がりそうなほどの勢いだった。
 じゅっ!
 どぅぶっ。ぼっ。
 沈黙。神抜きの長い沈黙。
 辺りに立ち込めるくその臭い。
 おれは精も根も尽き果ててぐったりとなった。股の合間から覗き込むと、藻を溶いたような深緑色の水様便が水面を覆い尽くしていた。よく見る光景。よく見る角度。おれの中から出てきたもの。毒。
 生きていても何もいいことがない。
 おれはくその臭いにまといつかれながら頭の中でつぶやいた。急性の下痢に襲われたあといつも思うことだった。最悪の事態は避けられたという安堵など、何ほどのものでもなかった。なぜおれだけがこんなに苦しまなければならないんだ。なぜおれだけがこんなことで苦しまなければならないんだ。
 おれときたら、手当たり次第にくそを撒き散らしながら生きているようなものだった。まるで下痢マシーン。すべてがくそを中心に回っていた。生き恥をさらすために息をしているようなものだった。
 ハイホーソングはいつの間にか聞こえなくなっていた。やつらはいつも通り寄り切りで勝利し、おれをいいように打ちのめして、腹の奥のどことも知れない隠れ家に再び引っ込んでいった。
 だが、危機は完全には去っていなかった。
 そうなのだ。油断大敵とはこのことだった。このトイレには紙がなかった。出すものを出してしまったあとにそのことに気づいたときの絶望感ときたら、何回繰り返しても慣れることがなかった。
 それは思いのほかよくあることだった。用を足す前にチェックすればいいと思っても後の祭り。駆け込むときにはそんな余裕さえないのだ。
 トイレットペーパーは芯ごとなくなっていた。誰かが盗っていったか、あるいはもともと芯のないタイプのロールを使っているのかもしれない。とにかく、芯を切り開いてケツを拭くのに使うという手も使えなかった。ここには備品が置いてあるような用具室もなく、紙の代わりになるものは何一つなかった。
 ポケットティッシュがまだ残っていたはずだとズボンのポケットを探った。あった。ティッシュが一枚だけ残っていた。街でティッシュ配りを見かけるたびに受け取るようにしているのに、いざというときにこの様だ。
 ジェット噴射みたいな下痢をしたケツの後始末をポケットティッシュ一枚ですることなど、どんな有能な人間にもできない。くそについて経験豊富なおれならうまい方法を知っていると言いたいところだが、あいにくそうではなかった。くそを手品みたいに消してしまうことなんてできっこないのだ。
 くそをしたあとにできることといえば、ただもうケツをきれいに拭いて水で流す、それしかなかった。そうしない限り、くそとくそをしたという事実はいつまでも残るのだ。
 六五〇〇万年も前に絶滅した恐竜のくそだって、化石になって現代に残っているくらいだ。連中はそれを始末する必要なんて少しも感じなかったに違いないが、もし自分のくそがそんな何千万年も長く残ることになると知っていたらやつらだって何かしたかもしれない。
 おれのくそも放っておけばやがてそうなる運命なのだ。ケツや便器にこびりついたまま化石になる。
 くそが残っているということは、そいつがくそをしたという紛れもない証拠だった。くそから何を食べたかを割り出し、そこからさらに生活ぶりや健康状態を割り出し、おれの詳細なプロフィールを作ることも可能だろう。くそプロファイルだ。
 おれは一枚しかないティッシュをいったん広げ、それから注意深く四つ折りに畳み直した。二つ折りでは水分を吸ってすぐに破れ、指にくそがついてしまうからだ。四つ折りにしたところでまったく心許なかったが、それでもまだ可能性が感じられた。
 いずれにしろ、一拭きしただけでくそがたっぷり染み込むから、畳んでもう一度使うことなどできない相談だった。かと言って、一発ですべて拭い去ることもまた不可能。それでも与えられた道具を使ってやるしかなかった。
 結果から言うと、四つ折りにしてもティッシュは破れた。それだけ水っぽかったのだ。おれの指は紙を突き破ってケツの穴をつつき、危うく先っぽが中に入ってしまうところだった。本当を言うと、ほんのちょっと入った。
 下痢便のぬるついた感触のおぞましさといったらなかった。ケツはまだ汚れていたが、ティッシュはもう何の役にも立たなかった。おれはじっと手を見た。ケツ拭けどケツ拭けど一向にくそのあとの処理が上達しないのはなぜなんだ。
 この手。この指。もはや自分自身の手と指とを使うしかなかった。どうせもう汚れちまってるんだ。これまでにも何度かやったことがあったが、最後にやったのはもうずいぶん前のことだった。二年か三年は経っているはずだ。もう二度とこんな風にしてやることはないだろうと思っていたが、またしても読みが甘かったというわけだ。
 最小限の犠牲で済ませたかったが、おれのケツ回りの状態がそれを許しそうになかった。不快な思いをするかもしれないが、すぐに済む。あとでしっかり洗えばいいのだ。気が済むまで徹底的に。
 それでも記憶まで洗い流すことはできない。おれの心には一生消えない傷が刻まれるだろう。三十にもなって素手でうんこを拭く羽目になるとは。だが、少なくとも誰かに見られる心配はなかった。たいした慰めにはならないが、それだけは確かだ。
 おれはすでにくそがついてしまった右手の人差し指をぴんと伸ばし、大きめの残りかすを取り除くことからはじめた。肛門のところで破裂するようなくそは、かすが辺りに飛び散るのだ。中には、こんなところまで、なんてこともあるからよくよく注意が必要だった。
 おれは、指の腹をケツのカーブに沿わせるようにして軽く一回りした。大雨の日の車のフロントガラスみたいにびしゃびしゃだった。人差し指だけでは足りなくなって、途中から中指も添えてツーフィンガーにした。かすも思った以上に引っかかった。股の合間から目で確めると、くそがたっぷり取れていた。いったん手を引き出してそっと臭いを嗅いでみた。間違いなくくそだった。
 次に、薬指を使って肛門回りをきれいにした。ここは丹念にやらなければならなかった。肛門に引っかかったくそをかき出すのに、指の先っちょを何度か穴に突っ込まなければならなかった。普段は紙越しにやっていることだ。シワの間に挟まったかすがなかなか取れず、結局小指も使わなければならなかった。
 仕上げに、親指と親指の付け根全体を使ってもう一度ケツをきれいに拭った。とりあえずごまかせそうだったが、おれの右手はくそまみれになって全滅だった。このままアイドルの握手会に行って48人と48通りの握手を決めたいくらい、悲しい有り様になっていた。
 おれはきれいな方の手を使ってうまいことパンツとズボンをあげ、よろけるようにして個室を出た。かしゅっ、かしゅっ。洗面台に備えつけの液体石鹸も空だった。
 なんてふざけたトイレなんだ。おれは右手を蛇口の下に差し入れ、跳ねないように注意しながら水の勢いでくそを流した。右手の指同士を擦り合わせ、かすがおよそ落ちたところで左手を導入した。右手はまだぬるついていた。おれは神経症のアライグマみたいにしつこく手を擦り合わせた。
 ふと顔をあげると、鏡の中にげっそりした青白い顔の男がいた。おれだった。目の下にくっきりと隈が浮かびあがり、瞳は暗く濁っていた。下痢便のあとはいつもこうだった。高熱を出したあとみたいに体力を根こそぎ奪われ、何もやる気がしなくなってしまうのだ。
 もうここは用なしだった。トイレを出ようとして、おれは下痢便まみれの便器をまだ流してなかったことを思い出した。近寄ってもう一度覗いてみると、そこは地獄の入口のような有り様となっていた。もう放っておくしかなかった。
 次にここを使うやつは、くそまみれのトイレにぶち当たった不運を嘆くとともに、こんなに汚しておいて紙を使った形跡がほとんどないのはなぜだと死ぬほど不思議がるかもしれない。色々な可能性を考えて、やがて真実にぶち当たるかもしれない。このびちぐそを垂れたやつは手を使ったのだということに。ゴッドハンド伝説が生まれるかもしれない。
 考え出すとおかしくて仕方なかった。おれはにやにやしながらネットカフェに戻った。
 さっき店を飛び出したときには無人だったカウンターに、店番のやつが戻っていた。入店したときと同じ、もしゃもしゃ頭だ。おれは黙って前を通り過ぎようとした。
「あ、すいません」
 そいつはいぶかしげな視線でおれを呼び止めた。
 何が言いたいのかは分かっていたので、訊かれるより前に説明してやった。
「ちょっと外出てたんで」
 この店では一時外出する際には店員に一声かけるルールになっていた。そのことは知っていたが、さっきおれが出ようとしたときにはこいつの方がカウンターにいなかったのだ。
「ブース番号を確認させてもらって――」
「16番」
 おれは被せるようにして言った。一時外出から戻ったときの段取りも分かっていた。もしゃもしゃ頭はカウンターの上の空席状況を示すボードに目をやり、16番のところにナイトパックを表す赤色のマグネットが貼ってあるのを確認した。
「外出される場合はこちらに声をかけてください。そうしないと最悪退出扱いに――」
「いなかったから」
 おれはつっけんどんに言った。
 やつは自分の過失に気がつかないどころか、お気に入りの言葉を最後まで言えなかったことに腹を立てたような顔でおれを見た。経緯を説明して責め立ててやりたかったが、そうするには疲れすぎていた。それに、それをすれば急にうんこに行きたくなったというおれの個人的な事情に触れないわけにはいかなくなるのだ。そうしたらどうなる。結局体面を保てなくなるのはおれの方だ。
 昔はよく言わされたものだった。人前で「うんこに行かせてくれ」と。学校みたいな場所にいた頃は、いやでもそうせざるをえなかった。ああいう人を閉じ込める牢屋みたいな場所では、ことわりなく部屋を出ていくことなどできないのだ。
 おれは毎日のようにみんなの前で今すぐくそをしたい、もう我慢できない、と発表させられ、嘲笑を浴びながら廊下を走った。ひどいときには一日に二回や三回だった。来る日も来る日も自分から挙手してそんなことを言わなければならないなんて、まるで自己否定を植えつけるためにあるような教育だった。拷問みたいなものだった。
「言っていただかないと、お互いに面倒になってしまいますので」
 もしゃもしゃ頭はなおも引き下がらなかった。
 ふざけた頭でえらそうにしやがって。さっきの公園のトイレに連れていって、やつのサボテン頭をまるごと地獄の入口に突っ込んでやりたかった。二十秒も沈めてやれば、二度とこんなえらそうな口は利かなくなるだろう。
 だが、今はそんな気力もなかった。下痢便をかましてきたばかりの今は。
 おれはいつならゆっくり付き合ってやれそうか考えながら、やつを無視してブースに戻った。忘れずに待っていれば、きっと都合のいいときが来るだろう。
 椅子に座り込んでしばらくじっと目を閉じていると、ふとここのトイレがどうなったのか気になった。見に行ってみると、鍵のところは青になっていた。
 おれは犯行現場を覗くような気持ちでそっとドアを開けた。床と洗面台のまわりに髪の毛がやたらに落ちていた。一センチかそこらに短くカットされた毛だ。誰かがここでハサミを使ったらしい。
 おれは洗面台の縁についた毛を一本つまみあげてよく見てみた。癖の強い、ねじれた毛だった。束になってもしゃもしゃ集まっていそうな毛。ほんのちょっと前に、どこかすぐ近いところでこんな毛を見た覚えがあった。誰の毛かはっきり言ってやる気はなかったが、間違いないのはそいつが店に一つしかないトイレを長々占領して髪なんぞ切り、ろくに後片付けもしないようなくそ野郎だということだった。こんなやつのせいでおれは地獄の淵を覗き込むような目に遭わなければならなかったのだ。
 おれは視線をあげて洗面台の鏡を見た。瞳の奥深くに激しい怒りと憎しみをたたえた不吉な男が、じっとこちらを睨んでいた。


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