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モネ・ゴッホ・ピカソ—名画を未来に残すために。 「絵画保存修復家」という仕事


香川県・直島にある地中美術館。5年ほど前にそこを訪れ、私が目にしたのはクロード・モネの「睡蓮の池」だった。モネ室と呼ばれる広い展示スペースの白い壁に飾られたその名画は、想像していたよりも大きく色調の美しさとパワーに圧倒されたことを覚えている。

モネが描く世界観を現在まで守ってきた職人が、絵画保存修復家の岩井希久子さんだ。モネ、ゴッホ、ピカソといった、名だたる芸術家たちの作品を蘇らせてきた。

岩井さんのアトリエを訪れ、絵画保存修復家の仕事について聞いた。

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1955年熊本生まれ。74年、絵画保存研究所で修復の仕事と出合う。80年に渡英しナショナル・マリタイム・ミュージアムで修復技術を学び、84年に帰国。以後、フリーランスとして海外の数々の名画や現代アートの修復を手がけている。著書に『モネ、ゴッホ、ピカソも治療した絵のお医者さん』(美術出版社)、『岩井希久子の生きる力』(六耀社)

—絵画の保存修復家はどんな仕事ですか

岩井:分かりやすく言うと「絵のお医者さん」です。作品の状態を見て「どこか必要な処置はないか?」「病気になってないか?」と診察することから始まって、症状に応じた適切な処置をしていきます。

まずは状態を記録するコンディションレポートを書く。そして、表面と裏面に長年積もった汚れを落としていきます。それから、剥落止めといって、絵の具が浮いているのを貼り付けていく作業があります。

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ちょっと手元が狂うと絵の具がこわれるようなデリケートなものなので、顕微鏡やルーペを使いながら、慎重に作業します。プレッシャーとの戦いです。

また、作品とその風合いを未来に残すために、絵画の劣化を防ぐ脱酸素密閉の保存方法にも力を入れています。

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岩井さんが長年の研究を重ねて開発したオリジナルのパネル。スギの骨組に和紙を両面に9枚重ねたこのパネルで作品をサポートし、脱酸素密閉の額の中に入れることで絵の劣化が防げる。和紙や木枠など、日本で1000年続く伝統的な技法を取り入れたもの。特許を取得している。

修復家は「色を加えてはいけない」

—修復って、褪色した絵に色を塗り重ねるのではないですか

実は、絵画の修復においては「オリジナルの上に絶対に色をのせてはいけない」という鉄則があるんです。メンテナンスする、という表現が近い。

でも、修復家の中には色を重ねてしまう人もいるんです。知識や技術が追いついていない状況だからです。

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バブルの頃、日本では絵画を買う人たちがたくさんいて、世界中の名画が日本に集まってきました。ところが保存修復家の数が足りないうえに、知識や技術も未熟なままでした。

その結果、適切な修復が施されず、上からニスを塗ってオリジナルの風合いを失ってしまった作品も多いのです。

天然樹脂を使ったニスの場合、経年変化で色味が変わります。近年は合成樹脂のニスを使うので黄変はしませんが、光沢が出て光が反射するため、本物の色の重なりが見えなくなってしまうんです。

—色を加えてはいけないとはいえ、人の手によるものなので仕上がりに違いが出るような気がします

たしかに、その鉄則をちゃんと守るか守らないかは人によると思います。驕ってしまうと、保存修復家によっては補彩を過多にしてしまったり、加筆したりということもあると思います。

—作品に思い入れがあると、つい、そこに「自分らしさ」を込めたくなることはないですか?

私の場合は絶対にないですね。それはもう恐れ多くて(笑)

常に謙虚に1点1点と向き合わなければと自分を戒めて、黒子に徹しています。


最新のテクノロジーで「絵に隠された真実」がわかる

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—誤った修復によってオリジナルの「風合い」を失ってしまった作品の中には、誰もが知っているような作品もあるのでしょうか?

有名な作品でいえば、フェルメール(Johannes Vermeer)や、ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)も、下層に本物があります。

近赤外線やX線を用いることで浅い層が見えるようになり、下に描かれた絵がわかるようになってきました。使われている絵具の成分なども、科学的に分析できます。

—私たちが知っている名画は、実は、まったく違うものである可能性がある

そうです。テクノロジーの進歩によってそうした真実が明らかになる。

やっぱり国宝級の絵ですから、保存修復家が「これはおかしいな」、「下にいいのがある」と思ったとしてもひとりの判断で手を加えることはできません。

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しかし、分析したデータを用いることで「ここに重ねられた色やニスの下にちゃんとオリジナルがあるので、取りましょう」と専門家を納得させる材料を提示できるようになりました。

「思いきって上層を取ってみましょう」……そうしたら、下層からキレイなオリジナルの絵が出てくるといったケースが、今後はどんどん増えてくると思います。

絵画の分析に使われているテクノロジーは、もともとそのために開発されたものはほとんどないんです。工業製品などを調べるために開発された技術を応用して、絵画の修復に役立てています。

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—スペインの教会で修復された壁画が「失敗作」と話題になっていました。岩井さんが修復の仕事をするなかで、「過去の失敗」に遭遇することはありますか

修復によってオリジナルの風合いが失われた作品を、またオリジナルに近づけてほしいという依頼はこれまでもありました。

色を加えてしまったり、目の色が変わっていた、なんてことも。

私は担当していないのですが、フェルメールのある作品で、背景の空に使われているブルーの色を分析したら、その時代には実在しない色だったという例もあります。これも名画に隠された真実ですよね。

オークションで高く売るためにサイズを大きくしたり、額に合わせるために小さくしたりすることもあるそうなんです。それによって、最悪なのはサインが取れてしまうこと。

また別の人のサインが出てきたり、明らかにサインが加筆されていたりといったものに遭遇することもあります。

—画家のサインを真似して、加筆するということでしょうか

その画家や作品によっては、サインを入れていないけど本物、ということがあるんです。ですが、本物をより本物らしくするために、サインを真似して加筆しているものもあったりします。

—なるほど。でも元々のサインの有無は、記録がどこにも残っていなければわからないですよね。

当時の絵の写真があればわかるんですけど、なかなか残っていないですね。

だからこそ、修復の記録を残すことはすごく重要なんです。ヨーロッパの美術館では、ドキュメントもしっかりアーカイブしてあります。

日本の美術館は専任の保存修復家がいないところが多いのですが、修復の記録は引き継がれていくべきだと思います。そうしたノウハウや技術を継承していくために、日本に修復センターを作りたいと思っています。

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—修復しているとき、どんなことを考えますか?

画家が表現したかったことにより近づけたいと思います。ですから、まず絵と対峙して考えるんです。手を入れるまで何カ月も悩み続けることもあります。

画家のセンスって本当にすごいといつも圧倒されますね。筆致、線のキレイさ、色使いの攻め方……。修復をしていると、いろいろわかることがあります。

画家って変わった人が多いですよね(笑)。だから気持ちを理解することは難しいのですが、できる限り思いに寄り添うように努めます。愛する人のために描いた作品だとか、修復しながら、絵が仕上がるまでの物語を想像することもありますね。

地中美術館に展示しているモネの「睡蓮の池」は、ものすごいパワーを感じる作品です。モネが80代のときに描いた絵ですが、2m×3mの2枚続きでものすごく大きい。あの絵を描いているモネを想像すると、手を動かすだけで大変だろうなと。当時のモネに想いを馳せながら修復しました。

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ここで作業をしているとき、すぐそこに作家が立っていて、私をじっと見ているような感覚になることがあります。プレッシャーで、肩にズッシリと重みがかかる。歯が欠けちゃうこともありました。

キレイに修復できたときは、やっぱり嬉しいし、作家もきっと喜んでくれているんじゃないかなって。恐れ多くも、そんなふうに思います。

ゴッホの「ひまわり」は世界に5点しかないうちの1点が、東京・新宿の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館にあります。

私が修復を手掛けた際、変色してしまったニスを取り除いたところ、本当にキレイな色味が出てきました。

美術館側がメンテナンスの重要性をわかってくださっているので、しっかりと予算をかけてケアしているので、世界のどの「ひまわり」よりもいい状態で見られるようになっています。そういう美術館は稀なんですよ。

—作家は、数百年後まで自分の作品が残るなんて思っていないかもしれないですね。

もちろん作家はそんなこと考えもしないでしょう。そのとき感じたもの、表現したいことをキャンバスに込める。だからこそ、こんなにも素晴らしい作品が描けるんですよね。

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絵は、時代に翻弄されていくんです。保存修復家はオリジナルの絵にとってなにが最適な処置なのかを考える。考え尽くして、その時にできるベストを尽くすしかないんです。

絵はこの先、何百年も生きていく。私たちが生きている間は、絵の一生からしたら本当に一瞬なんです。

(取材・文=川崎絵美 写真=西田香織 編集=錦光山雅子)

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Torus(トーラス)は、AIのスタートアップ、株式会社ABEJAのメディアです。テクノロジーに深くかかわりながら「人らしさとは何か」という問いを立て、さまざまな「物語」を紡いでいきます。
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