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「本の福袋」その17 『チャイルド44』 2012年11月

 『チャイルド44』の舞台は1953年、共産党が一党独裁するソビエト社会主義共和国連邦である。この年の3月にヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンが死亡し、フルシチョフがその後継者となる。つまりちょうどスターリン体制が終わりを告げる時代のソビエト連邦が小説の中に克明に描かれている。
 
 ただ、この小説の冒頭には、1933年1月のウクライナの小さな村の悲惨なエピソードが置かれている。
 この本を読むまで知らなかったのだが、当時、ウクライナは想像を絶する飢饉に襲われていた。この飢饉は、干ばつ、あるいは大雨、冷夏等の天候不順が主な原因ではなく、政治がもたらした大飢饉だと言われている。政府が外貨獲得のためにウクライナの小麦を過度に徴発したために、ウクライナの農民に残されるべき食糧がほとんどなくなってしまったのである。人々はどんぐりなどの木の実はもちろん、食べられそうな野草、犬や猫、野鳥、昆虫、はては病死した馬や人間まで食べたと伝えられている。この「ホロドモール」と呼ばれる飢饉によって餓死した人の総数は、文献によって異なるのだが、250万人~1450万人と言われている。
 
 このエピソードでは、チェルヴォイ村に住む幼い2人の兄弟、パーヴェルとアンドレイが猫を捕まえるために森に入っていく。もちろんペットとしてではなく、食糧にするためである。なんとか猫は捕まえたのだが、食糧を探しに来た大人に兄のパーヴェルがつかまってしまう。この「ホロドモール」のことを知らないと、リアリティのない設定のように思えるかもしれないが、餓死者の数を考えるとこんなことがあっても不思議ではない。
 このエピソードは、本編とは無関係に見えるのだが、物語の大きな伏線になっている。
 
 さて、この物語の主人公レオ・デミドフは、国家保安省の捜査官である。それも、スターリン体制下の共産党に忠実なヒーロー、つまり政府上層部からの命令を盲目的に実行する有能な公務員である。
 スターリン政権における政治犯とは「ソビエトの権力を覆そうとしたり、打倒そうとしたり、弱めようとしたもの」と定義されている。解釈次第では、些細な発言や行動が政治犯である証拠になってしまう。生き延びるために隣人を告発するケースもあるし、厳しい取調べ、あるいは拷問によって知人を協力者として認めてしまう場合もある。その結果として、当時、数多くの罪のない国民が、危険思想を持っているという理由で、シベリアの強制労働収容所に送られることになった。これは歴史的事実である。
レオはまさに、この無実の国民を政治犯として逮捕する捜査官である。見た目はハンサムでタフなのだが、スターリンの恐怖政治の手先である捜査官レオは、どう好意的に見てもミステリー小説の主人公向けではない。
 
 しかし、レオは、部下の狡猾な罠にはまり、あらゆるものを失っていく。国家保安省の捜査官という地位はもちろん、豊かな暮らし、信頼する部下、自分を愛してくれているはずの妻、両親の平穏な生活、そして国家に対する信頼。この喪失の過程でレオは生まれ変わり、正義のために連続殺人事件の犯人を追うことになる。
 ただ捜査は簡単には進まない。最大の障害は、「理想国家であるソビエト連邦には連続殺人犯は存在しない」という国家的信念である。地方の民警に左遷されたレオは、組織の協力なしに連続殺人犯を追う。その姿を細密な社会描写の中で描いたのが『チャイルド44』である。
 
 連続殺人犯を追うミステリーでありながら、スターリン体制下のソビエト連邦の矛盾を描いた社会小説であり、また夫婦の物語であり、家族の話でもあり、兄弟の絆を描いた小説である。そして何よりも、すべてを失った男が再生していく物語でもある。
 この小説は、2009年の「このミステリーがすごい!」の海外編で第1位を獲得している。プロットの旨さ、人物描写、物語の面白さがすべて備わっている傑作だと思う。
 なお、この小説には同じ主人公が活躍する続編がある。『グラーグ57』と『エージェント6』である。たぶん年内には両方とも読破していると思う。
 
 
 【今回取り上げた本】
トム・ロブ・スミス『チャイルド44』上、下、新潮文庫、2008年9月、上巻705円+税、下巻670円+税
 

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