見出し画像

今ようやく語れる、ロイター通信フォトグラファーとして見たTsunami 2011(東日本大震災)〜あの時どうしたか。(Part4終話)📷🌸

 どうも、晴れ男☀️フリーランスフォトグラファーの花井亨(@toruhanai)です。東スポ-ロイター通信と報道業界の対角線をあゆんで25年。2019年フリーランス独立1年目でナショジオ表紙撮りました
 コロナ禍の中、家族とずっと過ごしている時間の中で、ふと2011年の東日本大震災時の話になり、あの時何をしたかを家族に全然話していなかった事に気付きました。経験は共有しないと経験した意味がないので、家族にも皆さんにもしっかり伝え、共有したいと思っての不定期連載(その4最終回)です。

Part1

Part2

Part3

自分がそこにいる葛藤

 私が東日本大震災を現場で取材していて、常に疑問に感じていた事は

📷私が写真を撮影して配信しているこの行為は被災地のためになっているのだろうか?

 という事でした。被災地の現場では、行方不明者の捜索、気の遠くなるほどの量の瓦礫除去作業、そして、不自由極まりない被災者の方々の生活が目の前にあり、私はそれを世界に伝え続ける、ロイター通信によって世界中に配信された写真は、各国の人々に伝わり、それを見た人の反応も帰ってきます。仕事としてはそれで良いのでしょう。しかし、目の前に山のようにそびえ立っているこの困難の打開に直接役立っているのか?という葛藤に苛まれていました。
 私の仕事は直接手を差し出すと事はなく、間接的に世界中からもっと多くの救いの手を集める、キッカケを作る事です。それは頭では分かっていましたが、実際は困難を目前にしながら、写真を撮るだけ(そう見える)なのです。

  ある時、仲良くなった被災者の方に私のジレンマの話をしました。その方は「あなた方の仕事があって、私たちはこうして、支援を受けられる。ありがたい事だし、ありがとうね。」と言っていただきました。
 なんとも東北の方らしい、心づかいに本当に私の心が救われました。自国の大災害のど真ん中に毎日身を置いて、正直、自身の心の疲弊をとても感じていたので、本当にそのココロ救われる言葉にまた、気持ちのリセットをすることが出来ました。

35kgのテレビが吹っ飛んできた!

 震災発生直後は10名ほどのフォトグラファーが東北各地にいましたが、4月に入るとその数も減り、東北には私ともう一人の2名がいました。2011年4月7日の23時32分に東日本大震災の最大余震となるM7.1の地震が発生しました。私はその時、岩手県奥州市のホテルで就寝中でしたが、揺れ始めタ後に、緊急地震速報が響いたので、これはデカい!と直感しました。私が居たホテルの5階は鉄筋建とは思えないほど、ウソみたいに揺れました。ベットで横になって、うつらとテレビを見ていましたが、ベットの上で自分の体の制御が出来ないほどの揺れでした。見ていた25型のブラウン管テレビが、まさに飛んできて、私の足の先、数センチ先に落ちました。ブラウン管テレビを知る人も少なくなってきたかもしれませんが、25インチのテレビは35kg以上の重さでした。もし、自分の体に直撃したらと思うと、冷や汗がドッと出ました。揺れの収まりと同時に停電となり、次の瞬間ホテルの非常電源から非常灯がつきました。カメラを持って、1階に降りると、宿泊客とホテル従業員がロビーで呆然としていました。私は慌てて、物が散乱したホテルのオフィスとロビーを撮影して、配信しました。

家族写真の洗浄・救済の写真で賞をいただきました。

 私は4月12日に大船渡で撮影した写真で、運良く、翌年に2つの国際的な報道写真の賞をいただきました。

スクリーンショット 2020-05-09 22.05.23

 津波に流され、瓦礫の中から見つかった、家族写真を洗浄して持ち主の元に返そうという活動を取材させていただいたものです。始まったばかりのこの取り組みを、ほとんど飛び込み取材で撮影させていただきました。
 実はこの写真に関して、一目で気付いた人もいるかもしれませんが、この赤ちゃんの写真、実は一人の赤ちゃんなんです。私も恥ずかしながら、撮影の後で気が付いて、慌ててその情報を更新しました。幸いにも2011年当時4歳になっていた写真の赤ちゃんはご両親とともにご無事で、この一連の写真と取材を雑誌「Time」が取り上げてくれました。

https://time.com/3776412/photographs-of-a-4-year-old-survivor-of-japans-tsunami/

 写真には「写真を洗浄している様子」しか写っていませんが、その向こうに毎日毎日我が子の成長を写真に収め続けた、ご両親の深い愛情、津波で流されたこの写真アルバムを拾い上げてくれた捜索隊、そして思い出を持ち主の元へ戻すために、洗浄作業を続けるボランティアの方々、全ての方々の気持ちが写っていると、ある写真賞の審査員に言っていただきました。
 偶然とはいえ、こう言った形で、多くの方の想いに届く写真が撮れ、賞をいただくことができた事は本当に嬉しく、何かご褒美をいただいたような気持ちになりました。

しかも、私が取材したこの写真救済の活動はその後「思い出をレスキューせよ!: “記憶をつなぐ”被災地の紙本・書籍保存修復士 」堀米 薫 (著) という本になって、より広く知られることなりました。主人公は大船渡在住の紙本・書籍保存修復士 金野聡子さん、(上の)私の写真の中の黄色い手袋の人です。

レンタカーの料金は「車が買えるほど」

 私はそのおよそ半月後、4月末に東京に戻りました。当時「高速道路休日上限1000円」という施策が実施さていたので、岩手県から高速料金1,000円で帰ってこれたのはよかったのですが、震災発生直後、私が三沢空港で無理を言って借りて、そのまま使用し続けた、レンタカーの料金は「車が買えるほど」でした。

私がロイター通信のフォトグラファーとして見たTsunami 2011(東日本大震災)は発生直後のお話は以上ですが、この震災、本当の問題はこれまであまり出てこなかった、「FUKUSHIMA」の原発の取材にシフトして行きます。次回からはシリーズを改め、私が「FUKUSHIMA」で何を見たか、そして福島に何を想うかをお伝えできればと思います。 (了)

画像2


ご覧いただきありがとうございます❗️ 「スキ」「フォロー」「コメント」「サポート」がココロのヨリドコロです。どうぞよろしくお願い致します❗️