「ぞくり」は棚に飾って置けない。

電車の中で唐突に「ギニュプァ・グァペ・ジュピのテリーヌソース添え」みたいな語呂の短編小説タイトルを思い出した。
ローソンでバイトをはじめた16歳の時、文庫本棚でうすら埃をかぶったそれを手にとってから20年、今も新刊を待ち続けているホラー短編集「異形コレクション」のどこかに収録されている話。

全く別の方向に向かっていたはずの伏線がカチンとかち合う瞬間がたまらなく好きだ。
私が(読者が)思い込んでいた「向かっている方向が別」という世界観からすり替わっていたりする。最高に美味しい。

この噛み合わせのピースが「何であるか」が読み物のジャンルというカテゴリで表される。

作為的に作られたトリックがピースであるミステリー。
想像の及びが付かない「組織」や「科学」がピースであるサイエンスフィクション。
結果に導かれてしまう絶対の理由があり、それは登場人物や自分(読者)が知らなかっただけの「理(ことわり)」であるファンタジー。
それぞれの単純な関わりが偶発的に生み出すヒューマンドラマ。
不幸が起こり、そのピースが人にあるサイコ。
不幸が起こるがその理由が最後までわからない怪談…

ホラーという括りは、連続する不幸と言い換えてもいいかもしれない。
不幸を起こすものが「モンスター」だった時も、その正体がウィルスなのか変質なのか妄想なのか、どんなピースがはまるのかで感じる音は全く違うし大小も変わる。
なぜそう導かれたのかが最後まで分からない時は「音が鳴らない」という事実を静かにカチン…と感じる。
謎が解ける音。そしてぞくりとする。

割と怪談は不条理であればあるほど怖い。
ただ理由なく襲い来る不幸の塊だ。
謎など解けない。
怪談は怖い。

バディ・仲間・ライバル・友達・師弟・親子・恋人、関わりは様々な他人と他人。
個と個がかち合うときもまた、色んな音を感じている。音はいつしか変化している。

コップのフチを叩いていて、中に水が満たされてくると音が高くなるのに似ている。
その水の正体は良くも悪くも「絆」であり、怨嗟や妄執でもあれば、尊敬や愛情、時そのものでもある。

どうしようもないほどにその人らしい瞬間を連続させたものが「描かれたキャラクター」だと思っている。
その人らしさとはコップの形状であり、材質であり、大きさである。
そしてもし、その人がその人らしさを失う事があるのなら、そこにはストーリー展開上必要な段階(ギミック)を踏んでいる他に理由はない。
理由がないなら怪談になる。
怪談はマジで怖い。

誰かが誰かと共にあって鳴った音を聞くとき、器の材質・形状・大きさ、液体の質・粘度・量、これを無数と仮定した上で、響いた音から「どんな器だ?」「どんな液体だ?」「どれだけ満ちている?」などを考える。

なぜこう言ったのか。
なぜこうするに至ったのか。
どの要素が入るとどんな展開に至るのか。
不幸の過程。
幸福の過程。

なぜか考えざるを得ない。
何故こんなことをするのかというと、恐らくは自分の中で「再現」するためのシュミレートモデルを作りたがっている。
再現が出来るということは、「次に何を言うか」「どんな反応を示すか」この謎が解けるということだ。

多かれ少なかれ共感されないということはないようには思っている。
ただちょっと過剰にすぐにでも謎を解きたがる、そういうフレンズなのだと思う。

全くもってこれは「やろう」として「やって」いることではない。
オートで発動してしまう。パッシブだ。良くも悪くもなく、そのようなフレンズなのだと思う。
だから本を読む時は口は半開きだとしても頭の中はとても忙しい。

こういうことを考えている時、私は最高にボーっとしている。
自分の姿を見たことはないけど、突然読んでいた本のページを捲らなくなって、数分間ボーっとしていたりするはずだ。

どうでもいいのだ。
その先に解は書いてあるんだから。
ジャンルもどうだっていい。むしろネタバレだし、キャラクターとギミックが成したストーリーというものに「名乗り」という残酷なことをさせないでほしいとさえ思う。

ピースのはまる音を求めて私は度々ミステリ文庫を風呂に持ち込んだりX-filesのブルーレイを買ったりする。
音が鳴らないこと自体がピースである怪談集をダウンロードしたり、自分の人生の中で、音がならないままになっている案件のピースを探して急に動かなくなったりする。

謎を解くことが大好きな割に、大事な解は忘れ行ってしまう。
物理的にも、迂闊に置いていってしまう。
「ギニュプァ・グァペ・ジュピのテリーヌソース添え」みたいな語呂の短編小説も、春に引っ越しをした際に本を捨てて埋もれた記憶だった。


『好きなものを目で見られるように飾っておくこと』
これは一白水星たる私が心の安寧を得るためのひとつ手法なのだそうだ。

占い師は聞く。
「あなた、何が好き?」

謎が解けた時に感じる「ぞくり」が好きだ。
だけど幸か不幸か、一度二度三度と観たものでも7割方は忘れてしまう脳を持っている。
なので割と何度でも「ぞくり」とすることが出来るが、「ぞくりとしたもの」という認識はあっても本は本だし、ブルーレイディスクはブルーレイディスクだ。
瞬間に感じた「ぞくり」は棚に飾ることが出来ない。

過去に求めた解も忘れてしまうし、好きだったものの事も忘れてしまう。
迂闊な自分のことは分かっている。今は。

いつまでもハマらないピースである「安心」の解が急にほしくなって、病院の帰り道に迂闊に占い屋の扉を開けた。
「自分を誰よりも好きでいなさい」と占い師は言った。

好きの正体は難しい。
棚に自分を飾ることも出来ない。
どうやって安心を自覚したらいいかと困っていると、占い師は「何よりこれだ」とカードをめくった。


「金だね」


金は何にでも変わる。あなたとも似ている。何者にでも変わる。

なるほど、自分自身が怪談だったのか?

怪談は怖い。
謎など解けない。
それなのにKindleアプリの1/3は常に怪談が席巻している。

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