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日本鉄道旅行地図帳を使って、馬鉄系でもとみにマイナーな「軽石軌道(軽石馬鉄)」に関して記述を拾い上げていく。

まあどちらも市内を走っていて記録されていることも
多い「札幌温泉軌道」や「札北馬鉄」に比べるとマイナー
かつ記述が薄いことでも有名ですが(それでもまあ北海道
であり得たインターアーバンではある)、手稲がかつて
軽川(がるかわ)と呼ばれていた頃に走っていた、とされる
「軽石軌道(軽石馬鉄)」に関して今回はちくちく掘って
行こうかと。

まあ軽川(がるかわ)と石狩を結んでいたインター
アーバンでもある「軽石軌道(軽石馬鉄)」。例によって
今回も引き続きテクストのメインはこちらです。

9784107900197
日本鉄道旅行地図帳 1号 北海道
2008.05 54p

で、当時の路線図は道南・道央の地図と旧路線図が組み
合わさっているp15に詳しく、記載時の名称は「軽石軌道」。
ニブロクと呼ばれる762mmを走る馬鉄で1922(大正11)年10月
28日に軽川(ここでは「かるかわ」の誤表記)-花畔(難読
地名で知られる「ばんなぐろ」)間が開業、未着工区間として
石狩川畔までの免許はあったが1935.7失効、1937.9休止の後
1940.10.23廃止、とはp35に記載されている。

牛鍋蝸牛氏が書いていた「市電前史 馬鉄物語」だと
「軽石軌道」はどう書かれているか、といえばこうなる。

 実は石狩関連として、もう一つの馬車鉄道が存在した。
「軽石軌道株式会社」である。(軽石は「がるいし」とも
「けいせき」とも呼んだようだ)

 大正11年、軽川(がるかわ。現・手稲)と石狩間を結んだ
軌道なのだが、この軽石軌道の客車は、電車に切り替え後の
札石(札幌石材馬車鉄道会社。大正5年の電化後は札幌電気
軌道株式会社と称したので→)(その時点では札幌電気軌道)
から譲り受けたものだった。したがって、当然軌間(鉄路の
幅)は、2フィート6インチ(762mm)であった。
 
 この馬鉄は特に石狩側の住民にとってなくてはならない
生活路線であったが、昭和10年までの営業で黒字になったのは
開業2年目だけ。それでも営業を続けられたのは道庁の補助金が
あったおかげとのことである。

牛鍋蝸牛「市電前史 馬鉄物語」季刊札幌人2004年秋号p21
(サッポログラフコミュニケーションズ)

で、ここに至るまでにマイナーな地名スレではどんな
話がなされていたか、「軽石軌道」を軸にするとこのくらいの
話は拾えるかなと。

211 名前: 新川番地 投稿日: 2004/06/18(金) 09:16:35
ID:UQcKJFL6 [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
いやぁ、間違えて他所に書き込んじゃいました。
気を取り直して・・コホン

「石狩百話~風が鳴る河は流れる」 石狩市発行です。
第23話に「軽石馬車鉄道~花嫁は馬鉄に乗ってやってきた」
という一節があります。樽川地区在住の古老からの聞き取り
が主体ですが、まずは軽石馬鉄の概要から・・・

「軽石軌道は手稲村の有志によって計画され、第一期は
軽川~花畔間、第二期として花畔~石狩間の貨物とお客を
運ぶことでスタートした。」
第二期の計画は結果的に頓挫した様です。主たる貨物は、
石狩側からは雑穀類・鮮魚・塩魚など(他に昭和二年までは
五の沢産原油や、昭和三年まであった町村牧場を含む
樽川沿線の牧場産の牛乳なども)、軽川からは生活物資や
農場・漁場への資材を運んだとあります。

「軌道車が走る距離は軽川~花畔間の8.21km。単線で
軌道間は2.6フィート(76.2cm)。退避所が三カ所あり、
そのポイント操作は馭者自身がした。」

ルートは現在の道道石狩手稲線
停留所は、
軽川   三楽焼酎付近。木造平家で待合室・事務所・倉庫・
     駅長宿舎兼ねる
新川   駅舎なし
南四線  駅舎なし
南七線  宮野雑貨店 現在花川南3条1丁目
南九線  駅舎なし
花畔   花川小学校教師宅 花畔北11線・花川自工付近

切符を販売していたのは軽川・花畔両駅のみで
他は馭者が社内で販売していた。面白いのは、停留所
以外の場所でも手を挙げれば何処からでも乗れた。
つまり、事実上フリー乗降区間だったということです。
また、開通当初は花畔北7線まで運行していたが、乗客が
少ないので花畔で折り返すようになったということです。
運行は、午前/午後各3便(その他に貨車のみの運行もあり)で、
始発~終点の所要時間は約1時間。開通期間は4~11月で、
冬季間は運休(代替の馬橇はなかった模様)。大正11年開業
から昭和10年の廃止まで赤字体質ながらも道の補助により
15年間営業を続ける事が出来たとあります。乗客数は
大正15年の年間6374人をピークに昭和に入っての中央バスの
運行や自家用車の普及が原因で徐々に減少したようです。

岩内からの嫁入りや救急搬送から軽川で一杯やって馬鉄
から酔って落っこちたなどエピソードも多く樽川地区住民
にとって重要かつ思い出深い軌道だったとのことです。
212 名前: 新川番地 投稿日: 2004/06/18(金) 13:58:44
ID:UQcKJFL6 [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
連続ですみません

あと、三楽焼酎って後のメルシャンですが手稲駅の近くの
何処にあったのですか?
213 名前: 前田民 投稿日: 2004/06/18(金) 22:41:50 ID:quKkBKb. [ EATcf-517p177.ppp15.odn.ne.jp ]
>>新川番地さん
メルシャンは現西友の場所です。ガキの頃はまだ木が生い
茂っててちょっと不思議空間でした。ガキのころといっても
西友があの場所に行ったのが高校1年の頃ですから、ここ
10年以内のはなしです。
214 名前: 新川番地 投稿日: 2004/06/19(土) 01:44:54 ID:dx3rPWp2 [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
おお、そこでしたか。
まさに軽川駅と直結の好立地ですね。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】

三楽焼酎→メルシャンの変遷史は確か「竹鶴やる夫」に
あったような。参照できるところがあればリンクを貼ろう
かと。

かなり読んだあたりですが、オーシャン、メルシャン、
三楽の系図が書かれています。

266 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/07/11(日) 07:55:19 ID:qCspi/Oc [ U121091.ppp.dion.ne.jp ]
他の馬鉄のレール幅はと思いまして、調べてみました。
「手稲のはなし 馬鉄が走ったまち」に「軽石軌道」のレール幅が
出ていました。
「単線で線路の幅は約76センチメートル」。

268 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/07/11(日) 12:16:23 ID:qCspi/Oc [ U121091.ppp.dion.ne.jp ]
「札北馬鉄」の軌道幅は1,067mm、「軽石軌道」は760mm…。
かなりの差があります。
「手稲のはなし」には興味深い記述があります。
「車両は札幌の街中を走っていた馬鉄が大正7年(1918)に
電車に替わったので、この中古の客車を払い下げてもらい
1両に12人乗りの客車3両と屋根のない無蓋車(むがいしゃ)の
貨車12両でスタートしています」

270 名前: 真駒内川 投稿日: 2004/07/11(日) 15:25:01 ID:Yg4GmLKc [ p6240a6.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>268
762mm、いわゆる「ニブロク」ですな。
軽便鉄道でよく使われた軌間ですねぇ。
当時の地方鉄道法に定める最小の軌間でしたから、
資本力のない会社が始めた鉄道としては建設費が安く上がる規格として採用したのでしょう。

277 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/07/11(日) 23:08:53 ID:p8l4kviA [ x086136.ppp.dion.ne.jp ]
尚、「札幌石材馬車鉄道合資会社」は「札幌市街鉄道株式会社」、
「札幌市街軌道株式会社」、「札幌電気軌道株式会社」へと
名称を変更していますね。
電化されたのは大正七年の北海道博覧会を期してだそうです。

電話で確認しましたら、「北海道開拓の村」の馬鉄の
ゲージはまさに、「ニブロク」(762mm)でした。
そして、1067mmは現在の札幌市電のゲージです。
「開拓の村」へ行って、それから市電路線を見ると
分かりやすいってことですね。

281 名前: 真駒内川 投稿日: 2004/07/12(月) 09:50:58 ID:52IMTKbA [ pd33864.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>277
さてと、肝心な事を書くのを忘れていました。
軽石が札石の払い下げ中古車両を使っていたならば、札石も
ニブロクだったのかという疑問だと思います。
私は車両を改修して使ったのだと思っています。
元々電車でもなくただの2軸の台車ですから交換くらいは
それほど難しいものではないでしょう。
明治時代にはすでに国鉄苗穂工場で車両の製作が行われるほど
道内の加工技術は高かった様ですから、木造車体で「トロッコ」
規格の改修ならば屁でもなかったと思います。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】

今でもバス路線を中心として石狩市から行く路線は
札幌麻生(地下鉄南北線麻生駅)を経由するルートと
茨戸方面から札幌栄町(地下鉄東豊線栄町駅)を経由
するルートの他に手稲区へと繋がる手稲前田を抜けて
JR手稲駅に向かうルートがあるわけですが、この頃
からも手稲と石狩の結びつきは強く、だからこそ現在の
交通体系になっているのでしょう。
 といふことでようやく日本鉄道旅行地図帳 1号を
使ったこのシリーズも終わりが見えて来ましたかね。

北海道の鉄道概況は鉄道民営化、という名の放置と
北海道開発局の道路偏重から来る道の駅の増加とそれらに
伴う増長が引き金でどうしようもない惨状を呈していますが、
だからこそ廃線跡なりかつての鉄道遺構はそれなりに
残されているので、そのくらいしか楽しめないところに
窮屈さはある程度感じられるのですが。
(沿線や駅に付属していた「駅そば」などに見られる
食文化を「引き剥がし」に来ている悪辣さ、ですしね。
石北本線のトコとか、音威子府とか、いさりび以前の
木古内の食堂とか、予測される「麺鉄」1回目の留萌とか)
 といふことで「軽石軌道(軽石馬鉄)」篇、でした。

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