義理チョコが40年かけて完全に死語と化したのは、他の世代や新たに成長して物心のついた人達に「伝える努力を怠った」言葉がなるものである以上に、ギブミーチョコレートの時代から、かつての飢えが作り出した最高傑作「日本の板チョコ」の御執心も喉元が過ぎたことで何らかの末梢神経が消滅しているからなのかも。
まあでも「使い捨て」がメインになってる言葉を
いち早くパッケージして世に出した岩波新書の
名作小林信彦『現代<死語>ノート』に義理チョコ
は掲載されているのですが。
(収録されているのは2冊目の方)
まあなので投げやりに今宵のテーマソングはコレに
なるわけですが。
それに対置して私の基本的な死語に相対する姿勢は
かつてこんなコメントをしたことに起因する。
それに基づいて書いた記事はこれ。
「何もいかれちゃいない 君が知らなかった
だけだ」はオタを貫く為の行動に相通ずる
基礎知識であり、原動力だ。『まにぃロード』
レビューと、むしろ数多のコトバを殺す
「人でなし」の知性のなさと習性の醜さと
品性の低さを徹底的に疑え。|torov|note
でもやはり義理チョコはこの御時世も絡んで、
名実ともに「命数を費い果たした」印象がとみに
強い。
なんかすごく何らかの何らかの末梢神経が消滅
しているようにも思えるのだ。
まあ一応一昔前の伝承から行くと、ギブミー
チョコレートの時代の飢えを経験した世代が
その技術力と執念で作り上げたが故に長らく
日本では安いのに品質の高い「板チョコ」が
君臨していた時代が長かった、って話。
まあそれがチョコ業界主導のもとで
バテレンダイン時代から女性の興味が
(主に)サロン・デュ・ショコラに向かうまで
君臨していたのは、確かにイメージ戦略としては
正しかったのでしょうが。
最もここ数年の情勢で日本のチョコだけ縮んでる、
とは昨今言われるあたり。
足元としてはオスキニー的策略で、板チョコを含んだ
チョコを悪しざまにするだけの無謀な信仰の押し付け
も問題視すべきなのでしょうけれど。
まあ肥大化してた時代の北海道的儀礼の一つとしては
ロイズで焼いてるパン屋にある名物グテ、なんてのも
あるわけですが。
まだ250円くらいの頃、東苗穂に自転車走らせては
買ってた記憶もあるけれど。
まあそれでもここのところのバテレンダインに
聴く耳を持たずに避けていたのは、ああ、最早
既にアイツを通り過ぎていたからだ、と合点が
いった。猫組を通り過ぎてたからだ。
ってことで通称猫組とも呼ばれるWEB版のWORKINGに
関してのまあまくら代わり、ってことで。
(纏めた筈のメモ書きがちょっと散逸してるので
これは後日か。)
でもやはりあの感情が摩滅する味見されてない
チョコを経験すると、ねえ。
ですっかりそのテの末梢神経や感情が消え失せた
と考えればなるほど合点は行くかなと。
(一作目よりも中毒性は高いし、西28丁目駅や
北海道神宮が聖地にもなるので、個人的にはこっちに
親しみがある)
でラストに少しだけ画定ネタを。
『久保さんは僕を許さない』
時間帯変わらずで結局推移するのか。
なら扱いはセカンドポジション変わらずになるか。
ひとまずここは決まったけれど基本的には節制収縮期間が
終了してから春(第2クール)のアニメは考えることになる
かと。
まあとりとめがあるようでないけど、義理チョコは
「命数を費い果たして、死にました」に違いはなさそう
なの、で今宵はこのあたりで。