「話しているのは誰?〜現代美術に潜む文学〜」"わからないこと"への意思
美術と文学の共通点は何ですか?
アートはどの様な特徴を持つでしょうか?
この展覧会に行った感想「なんかすごいけど何言ってるかあんま、わかんない」
今回、「話しているのは誰?現代美術に潜む文学」を通して私が述べさせていただくのは世間にとっての自分が理解できないものへの価値あり方だ。ただ、美術の知識がない学生なので、美術学と異なるようだったり先生やアーティストの方々にとって失礼な内容になってしまう可能性があることをお詫びします。(形上謝っているだけで、本当に申し訳ないという気持ちはこもっていないのかもしれません。自由な思想が許されるのがアートだと考えるからです)その中で、文学と美術はどこに根差しているのかを考察しようと思う。
わからないその①
まず、この展覧会を選んだ理由は、夏前頃から行きたいと思っていたのでとても楽しみにしていたからだ。文学と美術がどのように交わり、表現されるのかとても興味を持っていた。しかし、実際展覧会を見終わった正直な感想は、「想像していたよりも何を表しているのかよくわからない」という印象を全体的に感じた。これは私自身の作品への理解のプロセスが乏しく、知識がないからだ考える。また、6人のアーティストによる作品によって、私の想像する「美術」と「文学」像がいかにチープで軽薄だったかを思い知らされた。美術が好きだという割に、ほんの少しか理解ができていなかったことを実感し、自分の無力さを実感した。しかし、こんなにも私の知らない世界があるなんて、「わからない」世界が愛おしかったし、もっと知りたいと思い、胸が踊った。こんな意味不明なものも、これから美術に関する考え方や、知識を身に付ければいつか理解できる日が来るかもしれない。それがとても嬉しかった。しかし、果たしてその「知識」は固定概念を作ってしまうものになってしまわないか?とも疑問に思った。
わからないその②
上記の他にも「感じ方は誰一人として定義することはできない。仮に定義しうる人物がいるのならば、何の権利をもって人の思想に価値をつけるのかがわからない。では、人にとって価値とは何なのか。」という考えを広げるようになった。この展覧会に参加した人は開催側の意図通りに理解できた人もいるだろう。しかし、そもそも作者の創造(想像)を完璧に理解できる人なんていな中で、「わからなくてもいい」ものを理解しようとする意思が在るどうかが、美術によってその人を深めたり広げたりするのかもしれないと考えた。(美術に深いも広いもないのかもしれないが)
わからないその③
次に、印象に残っているアーティストの作品について考察する。ミヤギフトシさんの作品はいい意味で、本当に何を表現したいのかわからなかったが、ミヤギさんの感性の琴線のようなものに触れた気がする。沖縄の風景を切り取った写真が空間に並べてあった。何を表したくてこのような作品を展示しているのだろう?と美しい写真に想いを馳せた。そこにある作品はまるで詩の世界のようだった。性の問題に関しての直接的な表現は避けた、自然や行動の描写が多かった。作品の世界観を(例えば報道番組のように)事実、定義として「伝える」のではなく、閲覧者自身に委ね、その世界を広げてもらい、「伝わる」ような作品だった。この「伝わる」という要素が美術と文学に共通するものなのかもしれない。
他にも美術作品に共通していることは、表現には必ず不自由が伴うということだと考える。「アーティスト」や「小説家」などと呼ばれる人や表現をしようとする人には、どんなに社会的地位が高い人でさえも、創造しようとする現象を表すには、完璧はありえない。なぜなら、美術作品を誰かに向けたものと捉えるならば、受け取る側が(作者もしくは観客)感じるその世界は、そのアーティストたちと異なるからだ。
この展覧会のタイトルに含まれる「話しているのは誰?」の「誰」には、文学とアートの特徴である作者と客の関係を踏まえた、インタラクティブの要素や自問性が深く関係していると考える。「観覧者」なのか「登場人物」なのか「作者」なのか「社会・世間」か、表現をしているのは生きているのは考えているのは誰なのか?という自問性を「わからない」ことから学んだ展覧会であった。これからも、文学以外の分野でも美術を通して世界を見て、広げて行きたいと思う。
PS.こんなに脈絡の無い文章を読んでくださって、ありがとうございました。
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