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一つのことを続けるということ:創造の力を持つ人へ

僕は人工世界というものを作っています。

残念ながらこのことばは一般的に使われる語ではないので、僕を知らない多くの人はすぐにはよくわからないものだろうと思います。人工世界というのは架空世界の一種で、地理、文化、歴史、言語などについて、細かく作り込まれた設定をもつものです。

人工世界がなんたるかはこちらをご覧ください。この記事では、僕がこれを小学5年生の時から今までの11年間続けてきたことと、続けてこられた理由を自分なりに考えてみたいと思います。

ネタバレですが、どうして続けることができたのかについてはっきりした答えは出なくて、この文章で何か伝えたいメッセージがあるとすれば、今自分の内面からくるものではない理由(創作という趣味を周りに受け入れてもらえない、創作をしているせいでばかにされるなど、外側からの圧力)によって創作をやめかけている、中学生・高校生くらいの創作者の人に向けたものになると思います(やたらピンポイントですが理由は後でわかります)。

先日放送されたNHKの「新日本風土記:東京大学」では、人工言語を作る東大生として取り上げていただきました。おそらく時間の関係でそこまで入りきらなかったのだと思うのですが、僕が作っているのは言語だけではなく、その言語が話されている架空世界まるごとです。また、東大や他大の仲間たちとSFファンタジー映画を制作しています。ヘッダー画像はその1作目のメインキャストたちと撮った写真です。

僕はテレビを持っておらず、放送されてからしばらくして友人の助けを得てようやく視聴できたのですが、それを観る中で、創作をしていることが中高時代に周りに受け入れられず、それでも続けてきた結果東大に入ってからいろんな人と一緒に創作のプロジェクト(映画制作)を進められているという話が取り上げられていて、今までいくつかのメディアから取材を受けるたびに聞かれてきた「どうして小学生の時から今までそれを続けてきたんですか?」という質問が思い返されました。どちらかというと、「どうしてそれを続けてこられたんですか?」というニュアンスを帯びて。

取材のたびにそれっぽい答えをしてきたと思うのですが、正直こちらも答えをひねり出している状況で、全ての取材で一貫して答えてこられた自身が全くありません。でもこれは多分別にそんなに問題ではなくて、今まで取材で答えてきたそれぞれの理由は、全てちゃんとした理由だったのだと思います。だから、その理由を模索しつつ、今前に述べたような理由で創作を続けられないかもしれないと思っている人の力になれればと思っています。

中高時代

まず状況を軽く説明します。
僕は横浜にある中高一貫の某進学校に入学し、6年間をそこで過ごしました。

学校生活はそれなりに楽しんでいました。部活は弦楽オーケストラ部と工作部を兼部し(工作部が途中で部員がいなくなって廃部になり、美術部に転部しました)、高2のときにさらに歴史部に入部し、美術部は高3の夏まで続けていました。

ただ、今のように創作をして、それを発信してこれたかというと全くそうではありませんでした。中高時代は、今振り返ればどちらかというと人工世界を創るための知識のインプット期間だったと思います。中学の修学旅行(正確には古都研修旅行という名前でしたが)で薬師寺に行ったときに、サンスクリット語のカナ転写で書かれた真言が目にとまり、そこからサンスクリット語を知りました。学校の図書館でサンスクリット語の文法書を探していると、司書の先生に「よくそんなの読むね」と言われたのを覚えています。探し当てたその本は真新しく、明らかに図書館に入ってからほとんど触れられていない様子でした。余談ですが、この学校はカトリック校でした(僕自身は信者ではありません)。

この時期に、僕はトールキンの『指輪物語』を初めてちゃんと通読しました。それまで小学生の時にピーター・ジャクソンの『ロード・オヴ・ザ・リング』の方は観ていたのですが、小学生という年齢の限界で、トールキンが創作したアルダ(含中つ国)の膨大な設定の存在には十分に気づいていませんでした。『ハリー・ポッター』『ゲド戦記』『はてしない物語』『ナルニア国ものがたり』などを経て、映画原作の『指輪物語』にたどり着いた僕は、他にない壮大なアルダの設定、とりわけトールキンの創作したエルダール語(エルフ語)を見て、ファンタジーの世界がこれほどまでリアルに感じられるのは、このものすごい分量の設定のおかげに違いないと思いました。ここまでの数年間でも、「フィラクスナル」という世界の物語を書いてきていたのですが、僕はトールキンに負けない架空世界を創るべく、持っている全ての知識を応用して(とはいえ高校生の知識なので、現在のフィラクスナーレのレベルにはまだ達していなかったのですが)世界の作り込みにかかったのです。この後、いずれかの時点で人工言語の設定ができ、「フィラクスナル」は「フィラクスナーレ」と改称しました。また、この人工世界制作における強い意志が、大学に入って言語学を学ぶモチヴェーションにもなりました。

僕は休み時間中に『サンスクリット文法入門 般若心経、観音経、真言を梵字で読む』を読み、原語版般若心経('प्रज्ञापारमिताहृदय')を暗唱しようと試みました。その次にどういうことが起こるかというと、「なんかヤバいことをやってる奴」という扱いを自動的に受けるようになるわけです。

僕はそもそも入学当初ものすごく背が小さく、(今の僕を知る人には想像し難いかもしれませんが)比較的はしゃぎがちな中学生で、同学年の生徒から軽い扱いを受けがちでした(少なくとも体感的に)。僕のような生徒が軽んじられないようにするためには、勉強で良い成績をおさめるしかないと考えて、僕はけっこう必死に勉強していました。

しかしどんなに努力して良い成績を取ろうと、美術部で『ハリー・ポッター』シリーズをリスペクトした魔法の杖を制作し、休み時間には「般若心経」や「仏頂尊勝陀羅尼」を読解し、友人にはエルフ語で挨拶し(「Mae govannen, mellon!」「Suilad!」)、その上自分の人工世界と人工言語を創っている人間は、普通だと見なされるわけもありませんでした。

そこで、僕は似たような理由でメインストリーム(?)から外れたと思われる友人たちと休み時間などを一緒に過ごすようになりました。しかし、彼らとも分かり合えた訳ではないと感じています。

その友人グループは程度の差はあれ創作をする人が多かったのですが、そのうちの1人は「学年で一番文章が上手い」とある国語教諭が評したことから(僕の記憶が正しければですが……)、学年中でそのような人として知られるようになった人でした。ジャンルも比較的近いので話が通じるだろうと思ったものの、「言語とか歴史とか、そんなに使わない設定を詰めてもどうしようもない、時間の無駄だ。そんなことよりストーリーを書け」と、人工世界そのものの存在意義に疑問を呈されてしまいました。彼は友人でしたし、彼の評判は耳にしていたので、はじめのうちは「そうかなぁ」と思って話を聞いていましたが、トールキンの作品を通じ、ワールドビルディング(世界の設定)が持つ力を自分の目でなんども確認するうちに、彼の言うことは聞かなくてもいいだろうという結論に達しました。

というようなわけで、色々あって、僕は孤独でした。今でも友達と呼べるような中高時代友達はいますが、僕の創造しているものの中身に興味がある人はおそらく少なく、ほとんど誰からも肯定的な反応が得られないまま6年間が過ぎました。

東大に入って

状況が変わったのは東大に入ってからでした。僕は人が何を言おうと好きなことをやるという中高のスタンスを貫くつもりだったので、自己紹介でも臆せずラテン語やサンスクリット語を学んでいることを言っていったのですが、驚いたのは、誰もそれを変なこととしてバカにしたりせずに、「マジか! すげぇ!」とか、あるいは「ラテン語は僕もやってるよ」とかいう返答が返ってきたところです。

東大は、「知っている」「考える」ことが重んじられ、かつ人と違うことが認められる空間でした。サンスクリット語の授業もあり、僕は2年のAセメスターに駒場で僕しか受講者のいないサンスクリット語の講義に出席して、「パンチャタントラ」の一部を講読する課題を黙々と解きました。教科書が全てラテン語で書かれている講義もありました(Hans Ørberg著のLingua Latina Per Se Illustrataという教科書で、フランス語かイタリア語かスペイン語あたりを勉強したことのある人向けには、ラテン語の教科書として、今まで自分が使った中で一番のおすすめです)。中高時代に入れた多少の知識がここで役に立ち、さらに2年の後期から教養学部で言語学の専門課程に入ってからは、人工言語創作のために学んできたことも大学の方で役に立つということになりました。中高時代にやってきたことが、直に創作という形ではないにせよ、初めて肯定されたわけです。

問いへの答えと外部からの圧力に悩む人へのメッセージ

以上では若干面白おかしく(のつもりなのですが……)僕がどういう過程を踏んできたかを書いてきましたが、本当に言いたいのはここからです。メディアにちょっと取材されただけでまだ作品もメジャーにできていない僕が創作のことについて偉そうなことは言えませんが、これは僕が中高時代の自分に伝えたいことだと思ってください。

頭で問いを立てていたのに最後で回収しきらないという議論の立て方の失敗のお手本のような文章になりますが、僕がこれまで創作をめげずに続けてこられた理由は、結局のところ創造したいという気持ちがあまりにも強過ぎて、「この世界のこの物語を書かずには死ねない」くらいの気概があったことです。プロになりたいとかいうことが目的ではなくて、単純に「書かずに死ねない」という使命感とでもいうべき気持ちがあったのです。でも、じゃあそれがなぜかと言われると、うーん、となってしまうのです。一つ確実に言えるのは、他の人の作品に色々触れたことだった思います。先述の通り、トールキンの作品に触れたことで人工世界なるものの価値を知りましたし、今でも行き詰まったら彼の作品を読み返すようにしています。「インスピレーション」というと何か掴み難い、本当にそんなものあるのかないのか分からないような印象を受ける人もいると思いますが、彼の作品を読むと、どんなにくたびれて創作をする気が起きないときでも、「人間には……人間にはこんなものを創ることが可能なのか……」となって、(畏れ多くも)自分も負けていられない気持ちになるのです。

あなたがもし、少しでも創作に興味があって、周りから肯定が得られないことに苦しんでいるなら、創造をしたいと思う自分にストップをかけずに、創造に向かう気持ちが連れて行ってくれるところまで行ってみてほしいのです。これは創作に限った話ではありません。

僕が言いたいのは、苦しみに耐えろということでは全くなくて、むしろその逆です。僕は、なんというか、世の中の不条理にやたら苦労して最終的に成功をつかむみたいなのを手放し美談にしてしまう風潮があまり好きではありませんし、学校システムの中で押し付けられる「普通」に苦しんでいるあなたは全く悪くありません。

学校は恐ろしい場所になりえます。僕の場合は、友人に渡した小説のファイルが知らぬ間に第3者に渡ってばら撒かれそうになったり、同級生や後輩にツイッターで悪口を書かれたり、ファンタジーの世界を創っていたためか「中二病/厨二病」とあだ名をつけられたりしました。先生にもなかなか認めてもらうのは難しかったです。しかも、「そういう仕打ちは妥当で、自分は『変人』だから仕方ない」という思いこみも形成されがちだと思います。僕の場合は本当にいじめと呼べるレベルではなく、楽しいこともそれなりにあったからこそ中高時代を生き延びることができましたが、息がつまる思いをしている人/してきた人は(割と当たり前ですが)たくさんいると思います。

人間にとって最も大切なものとは「創造的な力」と呼ぶことができるのではないかと今考えています。
これはいろいろな形を取り得ます。僕の場合はかなり文字通りに、音楽なり、小説なり、映画なりを創り出したいという気持ちがそれでしたが、他人の立場になって考えること、世界がどうやったらより良い場所になるのかを考えること、そういうことを諸々含めて「創造的な力」と呼んでいます。

あなたが何かに着手し、何かを表現したいと思ったということは、その時点であなたの中にある創造的な力の大きさを示しています。それを疑ってはあなたの力がもったいないし、創作をやめてしまったら、すでに創られたものも、これから創られるはずだったものも、とてももったいないです。

あなたが書いた物語の荒い下書きや、ノートの隅に描いた架空の文化の武器のイラストや、架空の土地の地図は、どんな完成度であろうとプライスレスです。

こういうことで人に何か言われる辛さは、言われたことのない人には分からないものです。その苦しみがあまりに大きく、それを踏み越えてまで創作をする価値はないというなら、創作をやめてしまっても致し方ないのかもしれません。でも、あなたがこれまで真剣に創作をしてきたのであればこそ、ばかにされるのが自分のせいだとか、自分の作品には価値がないなどと考えて、生まれてくるはずだったものが消えてしまうのは、全く誇張ではなく人類にとっての損失です。

端的に言ってしまえば、ファンタジーがビジネスに取り込まれ、ビジネスの道具としての空虚な作品が量産される中で(ごめんなさい、なんかこうしてまとめるとすごく辛辣に見えてしまうんですけど、これについては本当に色々言いたいことがあるので、別個の記事を書きます)、1人でいるときに生まれる、たわいもない夢想を始点とするような、純粋な創造の力に溢れた作品が本当に必要とされていると思います。

それに、月並みな言い方ですが、例えば一年後にどんな幸運に恵まれるか分かりません。僕も、人工世界関連の映画を作り始める以前は、オーケストラに入ってみたり、室内楽をやってみたり、クラスにコミットしてみたりしていて、数年後にこんな大きなプロジェクトのトップに立って、これまで11年間の創作の成果としてSF映画を3本も撮ることになろうとは、そしてNHKや毎日新聞に取材されることになろうとは、考えてもみませんでした。これは僕個人の経験則でしかありませんが、自分のやりたいことを継続して自分の力を高め、それを小出しにでも発信していれば、どこかでそれを見ている人が必ずいるものだと思います。

だから、もちろん無理にとは言いませんが、やりたいという気持ちが少しでもあるなら、自分の中の創造的な力の存在を認識して、創作を続けてみるのはいかがでしょうか。

少なくとも僕は応援しています。

飛躍や重複ばかりで論理的とは言いがたい文章で、書いている側も「うーん、伝われ!」という感じで書いていますが、創作のことで不安や不満を抱えている人を少しでも勇気付けられれば——というと上から目線に聞こえてしまって嫌なのですが——一緒に頑張りましょうという気持ちが伝われば嬉しいです。

Zarabjy narert.
人に創造の力あれ。

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