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「この恋正解?不正解?」って、その逡巡こそファンタジーなのかも。映画『水を抱く女』感想

第70回ベルリン国際映画祭で銀熊賞・国際映画批評家連盟賞に輝いた、クリスティアン・ペッツォルト監督による映画『水を抱く女(原題:Undine)』。

ギリシャ神話に始まり今日に至るまで、文学・絵画・音楽と様々な芸術作品の主題となってきた”水の精”伝説。それをベースに、ヒロイン・ウンディーネの恋と宿命を描いたファンタジックなロマンス映画だ。

ネタバレをしてしまうと、ウンディーネの恋は実らずに終わる。しかし、彼女がただ哀れなだけかと問われるとそうではないと思う。それどころか、人生の、とりわけ恋の選択を誤らないように石橋を叩きすぎる人にとってはその姿から学ぶ部分もあるんじゃないか―――。

そんな気持ちを抱きつつ記した感想文。

”メロドラマ”をファンタジーの水底へ引き込む台詞

「愛していると言って。じゃないと、殺すはめになる…」

現代に甦る”水の精”の伝説。そのうたい文句に興味を引かれたのは、ちょうどいまあるピアノ公演の準備を手伝っていて、その公演のテーマがまさしくオンディーヌ―水の精だったからだ。

そんなわけで勝手に縁を感じて鑑賞した映画『水を抱く女』。ぼんやりとダークファンタジー的な雰囲気を予想していたのだが、そのイントロシーンは思いのほか生々しく現実的だった。

カフェのテーブルを挟んで座る男女。言葉は発さなくても、双方の表情からふたりの関係が良くないフェーズにあることはわかる。恋愛沙汰でイヤ~な空気の修羅場を経験したことのある人なら、何かしらオーバーラップするものがあるだろう。

印象的なのはこれが朝の風景であること。悲痛な面持ちの女性、ウンディーネ(オンディーヌのドイツ語読み)の彼方で、鐘の音が鳴っている。私がそこに感じたのは爽やかさと諦念だった。どれだけ彼女が泣いてすがったとしても、もうこの恋に寿命は残っていない

そんな、ありがちな別れ話の一幕の中に登場するのが冒頭の台詞。ウンディーネが口にする、「愛していると言って。じゃないと殺すはめになる…」

まさに水面に落とされた小石。この一言から、静かな湖面が波紋を描き揺れるように、物語には仄暗い幻想の世界が顔を覗かせ出していく。

『水を抱く女』は全編を通してシンプルなラブストーリーだ。作中描かれる恋人たちの出会い、蜜月、別れは普遍的で、ちょっとメロドラマ的ですらある。

しかしそれは、この映画のあくまでも上澄みの部分。その奥、暗い水底にはウンディーネが背負う宿命、ファンタジーの世界観が横たわっている。

地雷男な元カレ、ヨハネス。ウンディーネの正体を知っていた?

『水を抱く女』がメロドラマ的、という感想はすでに述べた。中には「わざとか?」ってくらいのあざとさを感じる演出もある。

例えば、ウンディーネが元カレ・ヨハネスを窓から切なそうに見つめる場面で、哀愁漂うテーマ曲(バッハのアダージョ BWV974)が流れたりとか…この後すぐ他人に声をかけられて曲がカットアウトするところまで、作為的に美しい

なぜこんな捻くれた見方をするかと言えば、ウンディーネに対してめちゃくちゃツッコミを入れたくなったからだ。「そいつ、そんな感傷に浸るほどいい男じゃないぞ?」と。

もちろん、好みは人それぞれだ。だけど、個人的にヨハネスの良さは1ミリも分からなかった。
だってなんかナヨナヨしてるし…へたに格好つけた印象というか…なんか自分のプライドはやたら高いくせに相手に対する思いやりとかは見せないってゆーか、なんなら「女を傷つけて泣かせる悪い俺」像に酔ってそう。勝手なイメージだけど。でもって他に女がいるわけだし、まさしく地雷男だ。

しかし、そんなヨハネスのことをウンディーネは愛している。だからこその、あえて言葉を選ばずに言えばこの陳腐な演出。彼女の浸る見ているメランコリックな心情がダイレクトに伝わって、スクリーンのこっちは、ダメダメな不倫男にハマる女友だちを見ているような気持ちになる。

とは言いつつ、この後ウンディーネは新しい男=クリストフと出会った途端秒でヨハネスのことを忘れるんだけど。水底からやって来た彼女が、陸で最初に恋したのがこのヨハネスなのは間違いないだろう。

先に引用した「殺さなくちゃいけない」の台詞のあと、ウンディーネは彼に「あなたも知っているでしょう?」と語り掛けている。

これはつまり、ウンディーネは彼に自分の正体と宿命―水の精は人間と愛し合うことで魂を得るが、相手に裏切られたときにはその男を殺して水へ還らなくてはいけない―を明かしていたということではないか。

じゃあヨハネスは、自分が裏切ることで自分もウンディーネも命を失う(ウンディーネの場合は死ではなく、魂を失くして水へ還る)ことを分かっていたのかというと、どうもそんな覚悟があったようには見えない。

恐らく、ウンディーネに自らの秘密を告げられていたにも関わらず、この男はそれを真剣に信じはしなかったのだろう。

クリストフはやっと見つけた正解の相手!だけど…?

さて、ウンディーネの相手で、映画の中でそんなぺらぺらヒゲ野郎・ヨハネスよりもメインの存在となるのが潜水士のクリストフ

最初彼の印象はあまりスマートではない。ぼそぼそっとした喋り方で、ウンディーネをナンパするときの様子にはちょっと必死感が出ちゃっているし、カフェの食器棚にぶつかるところなんてもう「鈍くさ!」って感じだ。

だけど、水浸しで見つめ合った瞬間、ウンディーネはあっという間に彼と恋に落ちてしまう。
展開の速さにびっくりするものの、観客もまた、クリストフのユーモラスな性格や逞しさといった魅力に惹かれていく。

もしこんな恋愛イベントが本当に人生で起きるなら心底羨ましい。最低な失恋案件を、素敵な新しい恋がさっさと鮮やかに塗り替えてくれるなんて。

ウンディーネが人間の女の子だったなら、このままクリストフとの未来があったかもしれない。しかし…結局ウンディーネとクリストフは別離の運命をたどる。

そう、水の呪いにとらわれた彼女には宿命がある。最初の男がダメだったからハイ次、めでたしめでたし、となることはできないのだ。失った恋を終わらせたあとは、水の中へ還らなくてはならない。水の精の恋は一発勝負だ。

なんていう賭けなんだろう。せっかく、今度こそ正解の相手を見つけられたと思ったのに…

だが、ここでひとつ疑問が芽生える。恋愛において、「正解」ってなんだろう?

不正解でも、未来がなくても。恋を止めない水の精

人生において私たちはしばしば「正解」を求める。より良い未来や幸福につながる選択肢はないか、情報を集め、検討し、思い悩む。そしてそれは恋愛に関しても同じではないだろうか。

家庭を持ったら家事・育児を分担して行ってくれそうかどうか。実は既婚者なのを隠してはいないかどうか。経済的に自立しているのかどうか。人によって条件や基準は異なるだろう。

あるいは、過去に恋で傷ついた経験があるからこそ、次の出会いには慎重になりたいということもある。

なぜなら、この世には打算をかなぐり捨てて弾丸のように突き進む恋心、というものが確かに存在するからだ。むしろ破滅的であればあるほど燃え上がったりする。

危険で刺激的な恋とそのまま心中する人もいる。だが、ある程度の火傷を負ったところでふと我にかえったり、あるいは振られる・物理的に会えなくなるなど強制終了するケースも多いはずだ。

後に残るのは経験ばかり。痛むのは傷だけじゃなく、恋にはまりこんでいた間の甘い記憶さえ角を尖らせて内側からガリガリと心臓をひっかきまわす。もうこんな思いはしたくない…と臆病になってしまうのも納得だ。

それでも人間の時は進む。そしてその先で、また新しい恋をするのだ。相手は人間かもしれないし、もしくは恋愛と同じだけの熱量を注げる趣味や仕事、勉強かもしれない。その際、対象との関わり方には受けた経験が何かしら活きたりもするだろう。

そう、どうしようもないダメ恋で受けた傷も、未来へ進む土台になる。生きてさえいれば。

だけど、水の精にはそれが叶わない。なぜなら彼女たちの恋はまさに命がけ、一発勝負だから。

ならば、水の精が恋をするときは充分に吟味して相手を選ぶだろうか?答えは否。ウンディーネは一瞬で恋をする。堰き止められていた水がほとばしるように。

一度きりと分かっていても、そして二度目は許されないと知っていても、水の精は恋を止めないのだ。

『水を抱く女』で描かれるファンタジーの正体

昨今、愛はどんどん自由なものになってきていると思う。

愛そのものが変容したわけではなく、ジェンダーやセクシャリティ、家父長制など、これまで歴史の中で積もってきたしがらみが少しずつ解かれ始めている。

が、まだまだそれは充分とは言えない。こうしたしがらみのことを、時に呪いという呼び方をするのを聞くことがある。呪いの居場所はどこだろうか。人の心の中にこそ、呪いは存在する。

映画『水を抱く女』におけるファンタジー(=水の精の宿命)を、私は現実の人の心にかかった呪いを暗示したものだと感じた。

命ある限り、人生は沈んでも再興できるし、脱線しても軌道修正は可能。なんなら、落ちた先で別ルートを新たに開拓したってかまわない。

なのに躊躇し、失敗を恐れる気持ちは私たちの心からなくならない。まるで一度失敗してしまったらそれきりかのように。だから恋をしても走り出せなかったり、愛を伝えるのを見送ってしまったりするのだ。

水の呪いに縛られているのに、心のままに人を愛するウンディーネ。呪いなんて本当は存在しないのに、あれこれルールや基準をつくって自分で自分を縛る人間。

スクリーンの中、ウンディーネの笑顔や涙がきらめくほど、このコントラストは映えてくる。自由になってきているはずの私たちの足は、いつになったら幻想の水の中から抜け出すことができるのだろう。

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