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【短編小説】ガジュマルの木陰

それは化け物の巣。
三人組シリーズに出てくる少年、龍がある末っ子の地雷を踏みぬく話。
とは言っても今回の話は龍が母の見舞いに行くところまで。
来週の話で完結します。
下記の話と関連がありますが、読まなくても読めます。

 しくじった。と、悔んでも既に時遅し。後悔先立たずとはよく言ったものだ。
 龍は瞳孔をかっぴらいてこちらを見つめる怪物に冷や汗をかいた。
 いったいどうしてこんなことになってしまったのか。時は少々前にさかのぼる。


「そういえば」

 龍は目の前に座っている兄に目を向けた。コツ、と皿にスプーンの当たる音が響く。
 兄が「普通の兄弟になりたい宣言」をのたまってからというもの、手の空いた時間には軽い雑談を振ってくるようになった。特に夕飯時は顕著で、始めこそ即座に会話が途切れたものの、今では気まずくならない程度に会話のキャッチボールを交わしている。
 これが兄の言う「普通の兄弟への第一歩」で「歩み寄り」なのだろうか。手を止めて龍はぼんやりと思った。
 まあそれも諸悪の根源である奴がいない日だけではあるが。上座の空席を一瞥して龍は兄に目を戻した。カレーをつつきながら兄は何の気もなしに言い放った。

「母さんのところに顔を出しにいかないか」
「……は?」

 全身が凍りついた。顔をこわばらせて固まる弟が目に入っていないのか、兄はさらなる爆弾を落とす。

「この前見舞いに行ったとき、母さんがお前に会いたがっていたから」
「っ、冗談でもそんなこと言うなよ!」

 ガシャンと皿がぶつかる嫌な音がした。心臓が早鐘を打っている。肩で息をして睨みつける龍とは対照的に兄の瞳は凪いでいた。

「冗談でもなければ嘘でもない。そもそも俺に冗談を言うセンスはない」
「だろうな」

 堅物が服を着て歩いているような兄では、たとえ天地がひっくり返ったとしてもジョークを口にすることなんてないだろう。

「詳しいことは知らないが、お前に思うことがあるのはわかる。ただな、母さんがお前に会いたがっていたのは事実だ。それだけは心に留めておいてくれ」
「……考えとく」

 半分残ったカレーもそのままに龍は踵を返した。冷蔵庫にいれておくからな、と兄の声が投げかけられたが、返事は返さず階段を駆け上った。
 部屋の扉を荒々しく閉め、ベッドに飛びこむ。毛布を頭から被ると、きつく体に巻きつけた。
 母とは中学生のときにあったのが最後だ。ほとんど育児を省みない奴の代わりにワンオペで育児をしながら働き続けた末に倒れ、現在も入院している。
 当時は一週間に一度は顔を出し、見舞いの品もあれこれ考えてどうにか母の笑顔を取り戻そうと奮闘したものだった。――彼女に拒絶される前までは。
 母親似の兄とは違い、自分の顔は母にモラハラめいた言動を繰り返していた奴の血を色濃くひいてしまっていた。きっとそれが母にとって苦痛となってしまったのだろう。

『もう来ないで。あの人と同じ顔で私を慰めないで。顔も見たくない』

 はたかれた手の痛みは乾いた音とともに今でも頭に刻みついている。最後に見た、追い詰められたような歪んだ顔がよみがえり、龍は強く唇をかんだ。
 できることなら自分だってあんな奴より母のような優しい面立ちがよかった。兄は常の態度が相まって生真面目すぎる印象を与えるが、笑えば目元が緩んで母のように雰囲気がやわらかくなる。喉から手が出るほど望んでも、自分には一生手に入らないものだ。
 嘆息が落ちる。
 頑張りすぎて限界を迎えてしまった母に不用意に接触して、彼女の傷を広げたくはない。それにもう一度手酷く拒絶されるのも嫌だった。あの悪夢の再演となった日には多分一生立ち上がれないだろう。
 急に部屋の温度が下がった気がして、毛布をさらに体に巻きつける。それでも指先は冷え切ったままだ。
 本音を言えば足を運びたくない。だが兄の話が本当ならば、ここで先ほど落とされた提案を聞き流すのはすなわち、母の意志を無碍にするのと同義。
 大昔、頭を撫でてくれた小柄な手の温度がよみがえる。陽だまりの笑顔もうららかな日差しのような愛情も。
 ギリギリと毛布に爪をたてる。編みこまれた繊維が毛羽立って、ほころんだ糸に指先が引っかかったが、お構いなしに力をこめた。
 兄の言葉が真だと仮定しても、それは母の単なる思いつきで、明日には考えが変わってしまっているかもしれない。たとえ親としての愛が残っていたとしても、実際に会ったらあの男への嫌悪感のほうが勝るかもしれない。
 なんたってあの頃よりも背も顔立ちもあの男へと近づいてきているのだから。忌々しいことに。
 カチ、と奥歯が鳴る。
 怖い。心のもっとも柔い部分に再び刃を突きつけられるのかと思うと、勝手に身体が震えるほど怖い。
 だが、母もあの日のことを忘れたわけではないはずだ。その上で面会を望むのならば、どれほどの勇気がいることだろう。それに何の反応も返さないという形で拒否するのは、あの日の母と同じではないのか。顔は似ても中身は似ないと誓ったはずの父親と同じ行動ではないのか。
 再び手の甲が疼く。何の傷跡もない白い肌に、赤い痕の幻が見えて、龍はきつく目を閉じた。


 昼休みのクラスは騒がしい。ガヤガヤと話し声が飛び交い、ほんの数秒前にも窓際から女子の甲高い歓声が上がったばかりだ。

「なあ」

 絞り出した声は想像した以上に情けなく、今にも喧騒の中に溶けてしまいそうだった。だが先ほどまでテンポよく飛びかっていた会話は止み、二対の視線がこちらに向いた。

「あ? なによ龍」
「どうした? 体調わるい?」

 幼馴染の少女、さくらは訝しげに、もう片方の少年、光太は心配そうにこちらを覗きこんでくる。龍は口から飛び出そうな心臓を押さえつけ、二人を見据えた。

「あのさ、今度の週末」

 声は木枯らしになぶられる小枝のように震えていた。それでも二人は笑いもせず自分の言葉を待っている。

「その、母さんのところに、顔を出してみようかと思って」

 二人が息をのんだ。が、動きを止めたのはほんの一瞬で、すぐさま二人はいつも通りの態度に戻る。

「ふーん、それでアンタどうすんの? 見舞いの品とか考えた?」
「俺たちいっしょに行ったほうがいい?」

 さくらは興味なさそげに片肘をつき、ぶらぶらと足を動かした。光太はそんなさくらの態度を咎めながら眉を下げて問いかける。だが時おりぬけるような夏空と目が合うので、さくらのほうもまるで気にかけていないわけでもないらしい。
 ここで頷けば、きっと二人ともついてきてくれる。長年の経験からそれは容易に想像できた。
 ――でも、
 龍は手を強く握りしめた。
 ここで二人に頼るのは違うはずだ。ぬるま湯、というには主に目の前の台風女のせいで平穏とは程遠いが、居心地は悪くない。
 が、この件に関しては自分自身の問題だ。あらかじめ逃げ場を用意してしまえば、恐らく母と真正面から向き合うことはできないだろう。

「いや、いい。俺一人で行ってくる。俺の問題だしな」
「そっか。うまくいくといいな」

 光太はにっと笑った。晴れやかな笑顔にこわばりが解けていく。

「見舞いっていったら白海はくかいでしょ。アンタ、この前相談してたんだし、白海に聞いたら?」
「ああ、そうするつもりだ」

 白海とは隣のクラスの少年だ。身体の弱い弟がおり、母と同じ病院に入院している。週末のどちらかは見舞いに訪れている弟思いな人間なので、この学校の誰よりも見舞いのマナーは把握しているはずだ。
 以前、兄との距離感について相談していたこともあり、この手の相談役にはうってつけだろう。

「つうわけで行ってくる」
「おーがんば」
「俺たちにできることあったら相談のるからな」

 ひらひらと手を振る二人に軽く手をあげて応え、龍は早速隣のクラスの戸を開いた。
 目的の人物はすぐに見つかった。廊下側の列の一番後ろの席で、机にべたっと上半身をくっつけて友人と喋っている。いったん龍は顔をひっこめ、奥側の扉に向かった。

「今日は迅介と一緒じゃないんだな」
「そりゃ今日は彼女が委員会あるからって、珍しくとわが遊びに来てくれたからな。……って、誰かと思えば龍か。どうした? 誰か用? 呼ぶか?」
「いや用あるのお前だから呼ばなくていい」

 白海は片眉を上げて白海自身を指差した。

「俺?」
「ああ。ちょっと相談があって」
「じゃあ俺どこうか?」

 立ち上がったのは白海の真正面に座っていた彼の親友。ややたれ目の柔和な顔つきの少年は己が座っていた椅子の座面を龍に向けた。

「ええーもう行くのかよとわ」
「だって白海に用事あるんだろ? 俺がいたら邪魔になるじゃん。もう昼ごはん食べ終わったしさ、また愚痴なら放課後きいてあげるから」

 口をとがらせる白海に、宥めるような口調で笑みを落とし、とわは龍の背を押した。

「俺はいなくなるから、あとは心置きなく白海と話しあってくれていいよ」
「いや相談って言ってもほんと些細なことだし、別にわざわざ席外さなくても」
「でも相談したいのは俺じゃなくて白海だろ? 俺はいつでも白海と話せるし、龍の相談事のほうが重大だろうし」

 気にしなくていいよ、と有無を言わせぬ微笑みを返して、とわはさっさと出ていった。

「悪い。せっかく喋っていたのに」

 とわの好意に甘えることにして、空いた席に腰を下ろす。服ごしに人の体温特有のぬるい暖かさが伝わってきた。

「まあとわにはクソ兄貴の愚痴を聞いてもらっていただけだし、また放課後にでも話すから別にいいんだけど。で、お前は俺に何を相談しにきたわけ?」

 片肘をついて白海はこちらに視線を投げかけた。龍は膝の上で一度手のひらを開閉し、再び白海と視線を合わせた。

「見舞いの品について相談したくて」
「見舞い? 誰の?」

 白海は訝しげに首をひねる。乾いた唇を湿らせて龍は口を開いた。

「……母さんの」

 白海の目が丸くなった。

「お前の母さんって入院していたのかよ? どこの?」
「お前の弟と同じとこ」
「え、マジで?」

 身を乗り出してきた白海に首肯する。

「へえ、いつ行く予定?」
「来週の土曜」

 白海がぱっと顔を明るくした。

「じゃ、もしかしたら俺と会うかもな! 俺もその日に行く予定だから。何時?」
「十三時ごろのつもりだったけど……」

 ぼそぼそと答えると、白海はさらに笑みを深めた。

「お、ちょうどじゃん。俺もその時間に行くつもり。じゃ、地永ちえいや受付の三瀬さんには伝えておくから、ちょっと遊びに来いよ」

 まだ顔を出すとは一言も言っていないが。しかし心底嬉しそうに顔を輝かせている白海に水を差すこともできず、龍は曖昧な笑みを貼りつけた。

「まず俺はお前の弟の場所も知らねえんだけど」
「そういやそうだった。地永は三〇二号室。ありがとうな。いつも俺しか顔だしてないから、地永喜ぶぜ。あ、たまにクソ兄貴も来てるっぽいけど」

 白海は龍の手を握りしめて力任せにぶんぶんと上下に振る。龍は顔をしかめた。

「で、持参するやつは見当つけてんの?」
「あー花とか? そこらへんの王道のにしようかなって」

 頬をかいて答えると、たちまち白海の顔が曇った。

「花はやめとけ。あそこ生花だめだから」
「マジで?」
「ああ。香りとか世話とかいろいろ問題あるからな。持ってくんだったら菓子とか本とかそっちにしておけ。お前んところは食事制限とかついてないのか?」
「た、ぶん。確認しなきゃわからないけど」

 龍はぎこちなく頷いた。母と連絡を取り合っていたのは兄なので、今の状況はさっぱりわからないが、菓子を差し入れたおぼろげな記憶が残っているので禁止ではないはずだ。

「ならいいけど。あ、事前に連絡いれとけよ。日時と菓子系選ぶんだったら、食事に制限ついていないかその確認も。必ず受付とこ行って手続きしてからだからな」

 龍は眉間に皺をよせた。
 昔はこんなに煩雑だっただろうか。如何せん最後の記憶はあまりにも鮮烈に痛みが焼きつき、母との会話以外吹っ飛んでしまっている。

「ま、わからなきゃ病院の人に聞けばいいから。いい見舞いになるといいな」
「悪い」

 にっと笑いかけられて、龍は小さく頭を下げた。


「ここ、だよな」

 握りしめた紙片と入口の番号を何度も確認する。汚れ一つない純白の扉は無言で龍の前に佇んでいた。左手に下げた紙袋が乾いた音を立てる。
 龍はごくりと唾を飲みこんだ。この先に母がいると意識しただけで一歩足が後ろに下がる。
 やはり幼馴染たちか白海に付き合ってもらえばよかっただろうか。いや、一人で行くと決めたのは自分だ。ここまで来て逃げ帰れるか。
 大きく深呼吸して、龍は取っ手に手をかけた。

「し、つれいします」

 おずおずと中に踏みこむ。瞬間、眩い光が差しこんで、龍は思わず目を細めた。
 部屋はやわらかい光に満たされていた。薄いレースが風に揺れている。薬特有の匂いが鼻をついた。
 ふいにベッドの上の誰かが上体を起こす。

「……龍?」

 自分の名を呼ぶ高い声に心臓が飛び上がった。閉じた喉に無理やり空気を通して声を絞り出す。

「ひさしぶり」

 母さん、と錆びた機械よりもたどたどしく、掠れた声が静かな病室に落ちた。
 その名称を本人の前で舌にのせたのはいつぶりだったろうか。正確にいえば一年ほど前なのだが、遥か昔の出来事のように感じられた。
 母は相変わらず瘦せていたが、最後見たときよりも血色がよい気がした。ぼんやりとした瞳に徐々に光が宿っていく。その目に映る自分の顔を認めたときには既に言葉が飛び出ていた。

「母さん、これ一応見舞いの。たしか甘いの嫌いじゃなかったよな? チョコにドライフルーツ入っているやつなんだって。あ、店員さんも太鼓判押していたから味の保証はする。病院にも確認したから禁止されたものじゃないはずだし。あと、ここに弟が入院しているヤツから聞いたんだけど」
「龍」

 たった一言。たった一言、名前を呼ばれただけで舌が動かなくなった。

「おおきく、なったのねえ」

 その言葉だけで視界が滲む。龍は強く奥歯を嚙みしめた。

「ごめんね」
「……べつに」

 鈍く光るリノリウムに水滴が一滴落ちた。

「母さんのせいじゃない。気づかなかった俺が悪いし」

 母は二、三度口を開きかけては閉じを繰り返し、言葉を探しているようだったが、結局口から漏れたのは同じ言葉だった。

「ごめんね」

 しかし先ほどよりも悔いに濡れた言葉だった。少なくとも龍にはそう聞こえた。

「いいよ。またこうして話せるだけで。もうそれだけでいいよ」

 驚くほど自然に赦しを口にしていた。
 もっとも全ての傷が癒えたわけではない。悲嘆に暮れて引きこもった日々がなくなるわけでもない。
 それでも龍にとって母が拒まなかった事実があれば充分だった。ただ、それだけでよかったのだ。

「疲れたならもう帰るけど、どうする?」

 母は首を振って近況を聞きたいと請うた。とは言っても、話題にできることは限られている。
 ぽつぽつと幼馴染たちを中心に、母が聞いても心臓を止めない範囲で龍は話した。母はほとんど表情を動かさず、時おり相づちを打ってくれるだけだったが、龍の心は満たされた。
 あっという間に時間は過ぎ、気づけば時計の長針は予定していた数字の真上にさし迫っていた。

「ごめん。あんまりいすぎると母さん疲れるだろうし、病院も長時間の面会は勧めてないから」

 サイドテーブルに紙袋を置き直し、龍は立ち上がる。部屋を後にしようとしたそのときだった。

「今度は虎徹と一緒にいらっしゃい」

 足が止まる。振り返ると、母はこちらをまっすぐ見つめていた。表情らしい表情を浮かべてはいないが、どこか切実な色があった。
 瞬間、脳内をくるくると映像が回る。こちらを振り返りもせずに前を歩いていく後ろ姿、母と談笑する横顔、ロボットのような仏頂面。――そして最近みせるようになったやわらかな眼差し。それがかつての母と重なった。
 無意識のうちに龍の口から音がこぼれた。

「……うん」
「そう。楽しみにしているわ」
「母さんもからだ大事にな」

 龍はもう後ろを振り返らなかった。


 早足で教えられた病室を目指す。この地域一番大きな病院なだけあって、探すのもひと苦労だ。

「えっと、三〇二号室、三〇二号室。ここか」

 シンプルなアルミのプレートの下には『炎野地永様』と文字が刷ってある。その下にも欄があったが、もう一人見知らぬ名前の他は空欄であった。

「白海もう来てんのかな。さすがに来てるか」

 白海の弟とは面識がないので、白海がいないと困る。弟のほうも顔も知らない兄の友人と二人きりで話すことなどないだろう。コミュ力の高い光太や、わが道を行く唯我独尊のさくらとは訳が違うのだ。初対面で上手く話を盛り上がらせる想像すらわかない。正直気乗りはしなかった。
 だが相談の礼もあるし、ここまで来てしまった以上、不義理を働くわけにもいかない。
 手元の紙袋に目を落とし、龍は嘆息した。ドアをノックしてから取っ手に手をかける。

「白海ーいるか?」

 そうして龍は敷居をまたいだ。そこが毒蛇潜む、恐ろしい巣穴だということも知らずに。

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