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【短編小説】温室育ちのガジュマル

ずっと僕だけを見ていてくれればいいのに。
とある病弱な少年と弟思いな兄たちの話。


「すみません、あの三〇二号室の見舞いをしたいのですが」

 ふと声をかけられて顔を上げる。受付に現れたのは見知った少年だった。いやもう高校生なので少年というには大きすぎるかもしれないが。それでも幼い時分から知っている身としてはどうしてもあの頃と同じ扱いをしてしまいたくなってしまう。

「あら白海くん、こんにちは。今日は調子よさそうよ」

 にこりと微笑むと、彼も輝く笑顔を返してくれた。

「こんにちは三瀬さん。そうですか。よかったです」
「ここ最近は容体も安定しているから一回家に帰れるかもしれないわねえ。ところで、今日はあまりみないものをもってきたのね」

 白海の手には小ぶりな黒い箱。黄色のリボンでまとめられているが、全体的に大人っぽい印象を与えるそれは、いい意味で年ごろらしい白海にも、見舞いの品としても意外な気がした。

「いや自分でも似合わないもの選んじゃったなーとは思うんですけどね。この見た目からだとわからないかもしれないんですけど、プリザーブドフラワーなんですこれ」

 白海は照れ隠しをするかのように頭をかく。ああ、と三瀬は声をもらした。
 この病院では一年ほど前から見舞いとしての生け花は遠慮してもらっている。衛生面や水替えなどの手間、匂いによる他の患者への迷惑を考慮したためだ。その点、匂いもなければ手入れの必要もないプリザーブドフラワーは見舞いの品としてもってこいだろう。

「でもこれってけっこういい値段するんじゃないかしら」

 一度花屋でみたことがあるが、高校生が手を出すにはなかなか厳しい値段であったはずだ。

「そうですね。なのでバイト頑張りましたし、お見舞い品も最近はあんまりもってこられなくて」

 言われてみればいつも何かしら持参していた彼はここ三か月ほど何ももってきてはいなかった。てっきりネタ切れでもしたのかと思っていたが、このためだったのか。

「花持ちこむ禁止になっちゃってから地永が落ちこんでいるようにみえたんで……あっ、べつに責めているわけじゃないんですよ! 理由もわかりますし、最近そういうところ増えてますから。むしろぜんぜんそっちのほうがすごいっていうか」

 わたわたと慌ててフォローをいれてくるのが微笑ましい。この子の素直な感情表現は好ましいところの一つだ。三瀬はふふっと笑みをもらした。

「わかっているから大丈夫よ。ほら、あんまり長居しちゃうと地永くんが待ちくたびれちゃうわ」
「はい。お忙しいところ長話しちゃってすみません」

 ぺこりと頭を下げ、白海は軽い足取りでナースステーションを後にした。

「あら、また来たんですかあの子」

 最近入ってきたばかりの新米看護師が目を瞬いた。白海以上に見舞いに来る人はいるが、そういう人々はたいてい時間に余裕がある人に限られる。青春を謳歌する高校生が何度も見舞いに訪れるというのは物珍しく映るのだろう。

「ああ、渡川さんは知らなかったのね。白海くんはね、毎週末弟くんの顔を見に来るのよ。昔からそうだったの。さすがにテスト期間は来ないけどそれ以外は本当に欠かさないから」

 彼女の目が丸くなり、その後柔らかく目尻が緩んだ。

「それは弟思いなお兄ちゃんですね」

 たしか彼女も弟がいたとか言っていたはずだ。重ねてしまうところがあるのだろう。

「そうでしょう。地永くんもよくなるといいのだけどねえ」

 三瀬はため息をつく。彼の弟はもともと身体が弱い。入退院を繰り返し、その度に肩を落とす白海のことを思い出す。いつか他の子たちと一緒に運動会に出られたらいいんですけど、とこぼしていた彼の願いは今のところ叶えられそうになかった。

「渡川さん、ちょっと来てほしいんだけど」

 小走りで近づいてきたのは看護師所長だ。顔色からして急用でもできたのだろうか。新米看護師はぺこりと頭を下げて所長の後を追う。三瀬は見送ろうと思ったが、新たな来客が現れたためすぐさま正面に向き直り、愛想のよい笑みを浮かべた。


「地永くん、調子はどう?」
「とてもいいです。今日は白海兄さんも来てくれましたし」

 ベッドの上の少年はにこりと微笑んだ。肉付きの良くない身体は寒空の下で震える小枝のように繊細な印象を与える。窓際から差しこむ太陽の光は薄雲に遮られているためか弱々しく、それが一層彼の儚さを浮かび上がらせているようだった。
 窓際には先ほど見かけた箱がちょこんと座っていた。蓋はあけられており、その全貌が明らかになっている。オレンジ、薄ピンクを基調としたバラは見るだけで励まされそうだ。それでいて外の箱のデザインがシックなものだから落ち着いた雰囲気もあり、不思議と彼に似合う花束であった。さすが彼の兄なだけあって弟にもっとも合うものを選ぶのが上手い。
 渡川は密かに感心しながら手際よく点滴交換の準備を進めていく。

「それにしても白海くんもすごいね。毎週かかさず来るなんて」

 ピピと甲高い音が鳴った。体温計の数値を確認する。正常範囲内だ。
 繋いであるボトルはもうあと残りわずか。手元にあるボトルに異物がないか、ゴム栓のシールがはがれていないか確かめ、アルコール綿を取り出す。

「白海兄さんは優しいので。あっ輝生兄さんだってそうですよ」
「えっ、地永くんもう一人お兄さんいるんだ」

 驚きの声を上げると、彼はこくりと頷いた。

「はい、僕ら三人兄弟なので。でも輝生兄さんは進学のためにここを離れちゃったのでいつもきてくれるわけではないんですけどね」
「そうなの。それじゃあちょっと寂しいわね」
「そうですね。でも暇を作って会いにきてくれるので申し訳ないですけど、嬉しくもあるんです。それに白海兄さんは変わらず来てくれますから」

 穏やかに述べる少年の手元には一冊の本が開かれていた。目に優しい緑がページ全体に散りばめられている。これは渡川も見かけたことがあった。病院に寄付された植物図鑑だ。患っている病気にもよるが、寄贈された本は借りることができる。花といい、図鑑といい、彼は植物が好きなのだろうか。

「本当にいいお兄さんよねえ。仲が良くて羨ましいわ。私の弟なんか今じゃすっかり可愛げもなくなって憎たらしいばかりよ」
「弟さんいらっしゃるんですか?」
「ええ。小憎らしいばかりの弟だけど」

 小さい頃は怖い夢をみたとき布団に潜りこんでくるような臆病者だったというのに、今では髪を染めてピアスをじゃらじゃらつけ、周囲の人間を怖がらせるような風貌に変わり果ててしまった。しかも大事にとっておいたちょっとお高いアイスを勝手に食べるし。つい愚痴めいた言葉をこぼすと少年は苦笑した。

「上ってなかなか大変ですね」
「本当、地永くんみたいに思いやりにあふれた子だといいんだけどね」

 保護しているシールをはがし、ゴム栓をきちんと消毒する。中央部に針を垂直に差し入れ、空気が入っていないか、水滴が落ちる速度に異常がないかも見ておく。学校で習った基本は馬鹿にならないと先輩看護師の言葉を思い出しながら。

「そう、ですかね。僕こそ迷惑かけてばかりだと思いますけど」

 笑っているのに、顔にはどことなく悲哀が滲んでいて、渡川は胸をつかれた。

「そんなことはないわよ。地永くんがいるからお兄さんたち頑張れていると思うわ」
「だといいですけどね」
「でもいいわね。あんなに思ってくれるお兄さんがいて。私、長女だから上がいる感覚はわからないけど、あんなお兄さんならもし子どもとかできても大事にしそう」

 今どき珍しいわねと付け加え、渡川は空になったボトルを片づけていく。だから地永の顔色の変化には気づけなかった。

「あと何か気になることがあれば……」

 顔を上げて渡川は絶句した。穏やかな表情から一変。地永の顔から一切の感情が抜け落ちていたからだ。
 何かやらかしてしまっただろうか。先ほどまでの会話を振り返ってみても不味かったところがわからない。

「えっと、あの地永くん?」
「はい。何もないですよ。ありがとうございます」

 おずおず話しかければ、彼は口元に弧を描いて会釈した。だが、今度は作り物めいた不気味な笑顔に見えてならなかった。渡川は無意識のうちに後ずさっていた。

「渡川さん」

 びくりと肩が跳ねる。振り返ると先輩が戸から怪訝そうにこちらを見つめていた。

「地永くんの終わったかしら……ってどうしたの。そんなに顔を青くして」
「い、いえ何もないです」
「はい。渡川さんすごく手際よくやってくれました。ありがとうございました」

 地永が後ろから和やかに答えてくれたが、どうしても彼の顔を見ることができなかった。

「そう? じゃあ渡川さん、次は鈴木さんお願いしてもいいかしら」
「あ、はい」

 先輩看護師の背を追いかけながらふと最後に見た光景がよみがえる。
 彼の膝の上に開かれていたページ。地上に飛び出した太く、タコの足のような根っこ。青々と茂る葉。そして、その下に書かれていた説明文。
――絞め殺しの木。
 他の木にとりついて、恐ろしい勢いで成長し、やがてとりついた先の木の表面を覆いつくして死に至らしめる植物。
 なぜか生命力にあふれる植物とベッドの上の彼の姿が重なった。渡川は頭を振る。馬鹿馬鹿しい。きっと疲れているのよ。だが何度そう思おうとしても、その考えはいつまでも頭にこびりついて離れなかった。

 今日も彼の兄は三〇二号室を訪れる。傍目から見れば美しい兄弟愛だ。だが渡川には真っ白な病室に張り巡らされた薄暗い根っこが透けて見える。
 しかし渡川にはどうすることもできない。ただできるのは朗らかに挨拶をしてくれる彼の兄に曖昧な笑みを返すことだけである。

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