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【短編小説】夏、いつもと違う始まりを

以前書いた「夏、いつもの始まりを」から一年後の設定の三人組です。
三人組が海に行く話。でも今年の夏はいつもと同じではなさそうで――?

「夏だー!」

 うだるような熱気が包む八月の昼下がり。天井についた扇風機が無意味に生温い空気をかき回す中、少女のよく通る声が教室を震わせた。
 彼女の隣の椅子に座っていた二人の少年は互いに目配せしあう。この後続く言葉は聞くまでもない。

「お前ら海に行くぞ、海!」

 ヒマワリのような笑顔を浮かべて少女が振り返った。色白の少年があからさまに顔を歪めた。

「こんな気温でか? この前だって最高気温更新したばかりだろ。こんな中外出たら確実に死ぬ。俺はパス」

 彼はうんざりしたように首を振る。窓を全開にしてもそよ風一つ入りこまず、代わりにまとわりつくのは不快な湿気だけ。日影ですら熱中症になりそうな気温だ。
 その上、灼熱の太陽を直に浴びる海にいくだなんて正気の沙汰ではない。たどり着くまでに倒れるのが関の山である。
 少女の眉が跳ね上がり、夏空色の瞳に暗雲が現れた。

「あ? 相変わらず貧弱だな龍。だからお前はいつももやしっ子って呼ばれんだよ」
「んなこと呼ばれたことねえよ」
「でも今呼んだじゃん」

 はっと少女が鼻で笑う。瞬間、龍の目に鋭い光が宿った。

「でも学校一のクレイジーガールには負けるぜさくら。行きたきゃ一人で行って来いよ」
「あ?」
「は?」
「ちょ、ちょっと待てお前ら。ここでケンカすんなよ。な? さくらも龍も一回落ち着けって」

 まさに一触即発のそのとき、二人の間に割りこんだのは、今まで黙って二人のやり取りを見守っていたもう一人の少年だった。小麦色の肌に短く刈りこまれた黒髪は、いかにも昼休みにグラウンドを走り回っていそうな健康優良児である。
 気が立った二人をなだめるように少年は手を広げて、眉をハの字にしている。二人は舌打ちしたもののとりあえず矛を収めた。

「なあさくら、海にいくって言ったけどいつ行く予定?」
「え、明日。補講ないし」

 さくらは碧眼を瞬かせてあっさりと言い放った。それに少年の後ろから顔を出した龍が目ざとく反応した。

「はあ? 明日? 明日なんて今日よりさらに最高気温上がるじゃねえか。マジで無理。無理無理。俺、明日腹痛起こす予定だから行くんなら一人で行ってくださーい」
「あ? 見え透いた嘘つくなやこのもやし」

 龍が挑発するようにせせら笑った。

「言葉の裏の意味察しろよ。それともはっきり言ってやらなきゃ駄目か? 行、き、た、く、あ、り、ま、せ、んってな」
「は?」

 再び教室内に暗雲がたちこめる。さくらが鞄の中から何かを取り出そうとしたところで少年が待ったをかけた。

「おいやめろ。急に不良みたいな感じになるなって。メンチ切るなよ、頼むから」
「お前はこいつに甘すぎるんだよごん。お前だってこんな真夏に出たくないだろ。しかも貴重な夏休みだぞ? こいつのわがままに付き合うよりクーラーの効いた部屋でゲームやっているほうがいいだろ」
「うーん……ま、それはそうなんだけどさあ、せっかくなんだし一日くらいいいんじゃねえの? 毎年行っていたしさ、高校出たら俺たちこうやって会うことも少なくなっちゃうんだろうし、ゲームもいいけど俺は龍とも思い出作っておきたいけどなあ」

 ダメ? と捨てられた子犬のような眼差しを向けられて龍が言葉に詰まる。棘のある雰囲気が消えたのを察したごんこと光太はくるりとさくらに向き直った。

「さくら、そんなに行きたいなら夕方じゃ駄目か? 夕方ならちょっとは暑さ弱くなるだろうしさ」

 だがしかし流れを読み取り、円滑にまとまるよう努める事なかれ主義とは真反対の道を貫くのがこの細波さざなみさくらという幼馴染だった。

「やだ。昼がいい」
「おいお前な……」
「龍、ちょっとストップ。で、なんで昼がいいの?」

 肩をいからせた龍を抑えて光太は問うた。さくらはそっぽを向いて呟いた。

「だって夕方じゃ海真っ赤でしょ。姉さんの色じゃないじゃん」
「ああ、るり家出ちゃったもんな。じゃあ青いほうがいいよな」

 さくらの二つ上の姉、るりは大学進学のためにこの町を出た。今は都会で一人暮らしだ。ずっとひとつ屋根の下にいたのに、今や電車に長い時間揺られなければ会うことができない距離になってしまったのが寂しいと思うのも無理はない。
 さくらの横顔に珍しく影が差したのも気のせいではないだろう。

「けどるりだって帰省くらいするだろ。シスコンだし」

 片肘をついて龍が横やりを入れる。
 面倒見の良い母親のような彼女は、妹への愛が深いことでも有名だった。もっとも甘やかすだけでなく注意すべきときは注意する、さくらの手綱を握れる数少ない人物のうちの一人であったため、教師や生徒たちは二重の意味で彼女の卒業を惜しんだものだった。

「そりゃ姉さんは帰ってくるけどほんのちょっとじゃん。やじゃん。足りないもん姉さんが」
「そんなこと言うなら毎日電話でもかけてろアホ」

 小馬鹿にしたように龍が吐き捨てる。さくらが呆れた顔つきで深いため息を吐いた。

「はぁーわかってないわあ。アンタ妹心っていうのがわかってないわあ。兄貴いるくせに下の子の気持ちがわかってないわあ」
「そりゃこっちはお前んとこと違って仲良しこよししているわけじゃないんでね」

 今度は龍のほうがそっぽを向いてしまった。彼の家族関係は中々複雑なのだ。
 険悪な空気に逆戻りすることを避けるため、光太は口を挟んだ。

「じゃあさ、朝早い時間は? 朝早いなら涼しいだろ」
「さぁ? そんな時間に電車出てんのか? つかめんどくさいだろ、海行くために朝早く起きんの。帰るときはどうせ一番暑いときになるし」
「でもあっちよりこっちのほうが日影あるし、駅から自転車飛ばせばすぐ家に着くだろ。あっつい中砂浜で遊ぶのとさ、自転車こいでさっさと家の中入っちゃうのとどっちがいいんだよ」

 心底嫌そうに顔をしかめた龍に光太はさらに提案を重ねる。龍はしばらく眉間に皺をよせて光太を見つめていたが、やがて大きな嘆息をついた。

「わかったよ。付き合えばいいんだろ、付き合えば」

 先ほどまでの不機嫌さが嘘のようにさくらの表情がぱっと明るくなった。

「じゃ、明日は去年より一時間早く集合な! 忘れんなよ!」

 言い終わるや否やライトブラウンの髪をはためかせ、さくらは教室を出ていった。

「お前があんなこと言うなんて珍しいじゃん。去年は乗り気じゃなかっただろ」

 たしか去年同じようにさくらが宣言したときは、宿題やらアイスを食べる予定あるやらと口ごたえしていたはずだ。それが一体どういう心変わりなのか。
 光太は微笑んで、窓の外に目を向けた。笑っているのにどこか苦みを帯びたそれは、光太には似つかない大人びた表情だった。小学生からの付き合いだが、一度も見たことのないそれに、龍は思わずかける言葉を失った。

「だってさくらは言い出したら聞かないし、俺も気持ちわかるからな」

 こいつには上の兄弟はいなかったはずだが。首をひねった龍は一拍おいてひらめいた。

「……ああ、ひびきのことか?」

 光太の家の向かいには年上の従兄がいた。思えば従兄弟とはいえ、家が向かいなだけあって実の兄弟のように育ってきたのだ。彼もるりと同じく進学と同時に町を出ていってしまったのだから思うところがあっても不思議ではない。

「意外といなくなると寂しくなるもんだよなー」

 へらりと笑って光太も教室を出ていく。龍はかぶりを振って自身の鞄を背負い、光太の後を追いかけた。


「暑い。誰だよ朝なら涼しいって言った奴。一発殴らせろや」

 潮風で肌はベタベタするし、既に太陽は殺人級の光線を浴びせてくる。涼しいと言っても気休め程度だ。
 龍は目の前に広がる紺碧を睨みつけた。隣を歩いていた光太が申し訳なさそうに眉を下げる。

「え、ごめん。殴るなら殴ってくれていいよ」
「お前貧弱だから殴ってもあとすら残らないんじゃないの?」

 光太の横からさくらが茶々をいれた。

「うるせえよ。ほらご所望の海だろ。行きたきゃ好きなだけ行ってこい」

 地元民しか来ないような小さな海水浴場はまだ時間が早いせいか、いつもなら見かける小学生の姿もない。
 薄く黄色味を帯びた砂浜に点々と跡がついていく。寄せては返る波に足先を遊ばせてさくらは海と陸の境界線を行ったり来たりしていた。
 少年二人はさくらのように波打ち際にいかず、僅かにできた松の木陰で彼女を見ていた。

「そういえば昔は水をかけあったり砂浜でおいかけっこしたりしたよな」
「お前らは馬鹿みたいに元気だったよな。そんなエネルギーどこからでるんだよ」
「龍はあの頃からぜんぜん体力なくて、いつも一番にるりのところで休憩してたよなあ」
「……悪かったな、貧弱で」

 小学生の頃はまだ危ないからと、さくらか光太の両親、あるいはるりか響が引率者であった。
 体力有り余るわんぱく怪獣の二人とは違い、クーラーの効いた部屋でゴロゴロしているほうが好きだった龍は、当然へばるのも一番早かったのだ。
 体力のない少年が二人に引きずられ炎天下に連れ出される様はあまりに不憫だったのか、るりに気遣われたのも一度や二度ではない。
 るりが持ってきてくれたスポーツドリンクを飲みながら、よく二人で炎天下を駆け回るさくらたちを眺めていたものだった。
 小さな日影がさらに狭まって肌を焼き始める。眉をひそめた龍をちらりと見やり、光太はふいに大きな声を上げた。

「さくらー! もう満足しただろー! あんまり長居するとさ、帰るときしんどくなるからそろそろ駄菓子屋のばあちゃんところ行こうぜ」

 明るい茶髪が陽にきらめいて黄金のようにひるがえる。

「えーもう? まだぜんぜんじゃん」
「また電車で海はみれるだろ」

 さくらは柳眉をしかめたが、やがてふんぞり返って鼻をならした。

「ったくしょうがないな。付き合ってやろう。私の優しさに感謝したまえ」
「いや付き合っているのは俺らのほうだけどな。なんでお前はそう上から目線なんだよ」
「あ? なんか言ったか龍」
「はいはい、もうケンカすんなって。早くばあちゃんとこまで行こうぜ。今日は何にする? やっぱアイス?」

 二人の間に火花が散ったが、それが本格的に燃え広がる前に光太が二人の間に立った。龍が口を開くより先に腕をとって歩き出す。

「ごーん、ラムネも買おうぜ」

 光太の背中に飛びついたさくらが背を思い切り叩く。盛大な音が鳴ったが、光太は顔もしかめず、にっと口角を上げた。

「お、今日はごうかじゃん」
「だってラムネも姉さんの色でしょ。それにこんな日にはラムネが最高に似合うじゃん」

 にかっと笑う顔は晴れわたった青空によく似合った。


「あーうっま。やっぱ海みながらのラムネは最高だわ」

 防波堤の上に腰かけたさくらは笑ってラムネの瓶をあおった。アイスはさすがに防波堤につくまでに溶けてしまうからと駄菓子屋の前で食べてしまったので、特徴的なくびれのある瓶をもって三人は人気のない防波堤にやってきたのだった。
 コンクリートは熱を入れた鉄板のように熱かったが、二人は熱い、熱いと騒ぎながらコンクリートの上に腰を下ろす。龍としては真夏の太陽に照らされたコンクリートなんて御免だったが、文句を口にするより前にさくらによって強制的に隣に座らされた。
 色素の薄い肌が暴力的な日差しに焼かれるのも気にせず、さくらはけらけらと笑っている。傾けるたびに陽光が差しこんだビー玉が内部で反射し、宝石のように輝いていた。
 海の輝きもビー玉の輝きもこいつの目の輝きもどうしてこんなに眩いのだろう。思わず触りたくなる。

「どうした? そんなにぼーっとして。熱中症か?」

 目の前でひらひらと手を振られてはっと意識が戻ってきた。首をかしげてさくらが覗きこんでいる。が、龍はそれどころではなかった。
 今いったい何を考えた? こいつが何だって? 湯だったように思考がぐらぐらと煮える。正常な考えが出てこない。
 押し黙ったままの龍を見て、光太が顔色を変えた。

「え、ほんとにヤバい? なんか買ってくる? スポドリとか自販機に売られてたかな」
「いや大丈夫……じゃないかもしれねえわ。なんか熱にあてられて頭が馬鹿になったかもしれない」
「マジで? ヤバいじゃん。ちょっと行ってくるわ。さくら、龍を日影に避難させといて。俺、ちょっと近くの自販機まで行ってくる」

 そう言うや否や彼は弾丸のように飛び出していった。こちらが止める暇もない。

「何よ、アンタ体調悪いなら言いなさいよね。ほら立てるかもやし」
「だからもやしじゃねえよ」

 ぐいっと腕を引っ張られて、よろめきながら立ち上がる。そのままトタン屋根のついた小さなバス停の中に避難した。
 海辺近くだというのに、蝉の声が雨あられと降り注いでいる。さくらはポケットからハンカチを取り出すと龍の額にあてた。ピンクとブルーのイルカが踊っているハンカチだった。

「ほら湿っているからちったあ涼しくなるでしょ」

 本人の言う通り布地は少しばかり湿っていて触れたところから熱が奪われる。すぐにぬるくなっていくそれを、龍は瞼を閉じて浸った。

「ていうか使用済みのハンカチを人にあてんなよな。普通まだ使ってないハンカチを水道かどっかで濡らしてあてるのが気遣いってもんだろ」
「私にそれを求めるのが筋違いってもんでしょ。ていうかそれくらい憎まれ口たたけるんなら大丈夫だな」
「……それも、そうだな」

 目を開かなくたってふてぶてしい笑みが浮かんでくるようだ。
 伝う汗。うだるような空気と触れる体温。けたたましい蝉ですら一枚膜を隔てたように音が引く。この瞬間、世界にいるのは二人だけだった。
 が、美しい情調を粉々に握りつぶすのが細波さくらという女である。

「やっぱお前体調悪いんじゃないの? 素直に頷くなんて気持ち悪い」
「黙って言わせておけばお前な……」

 龍のこめかみに青筋が浮かぶ。身を乗り出そうとしたそのとき、蝉に負けない大声が飛んできた。

「りゅうー! 大丈夫かー! 死んでないー!?」
「死んでねえから大声出すな馬鹿!」

 息を切らして駆けこんできた光太は勢いを殺さぬまま龍の首筋に冷え切ったペットボトルを押しあてた。
 冷気が直接頭を殴った。龍の口から引きつったような声が漏れる。

「いきなりあてんな! びっくりするだろうが!」
「あ、ごめん。さくら、そのハンカチ貸して。くるんだほうがいいよな」

 布が挟まれると穏やかな涼しさがやってきて、暑さでおかしくなった頭を徐々に冷静にさせていく。
 再びさくらの碧眼を見やったが、今度は何も感じなかった。いつも通り突拍子のないことをしでかす憎たらしい青だ。そこに手を伸ばしたくなるようなきらめきは存在しない。
 やはりあれは夏がみせた錯覚だったのだ。龍は密かに安堵した。

「龍がこんなんだしさ、もう帰ろうぜ。海はいつでも行けるしな」
「私らが卒業するまではな」

 さくらが言った一言に龍も光太も黙りこんだ。いつもの嵐のようなエネルギーはどこへやら。さくらの目はここではない遠いどこかを見つめていた。アスファルトにできた陽炎が揺らぐ。
 光太がふと小さく笑った。

「じゃあまた来年も行こうぜ。卒業式が終わった後もさ、再来年の夏も。ここでこうして海みてアイス食べて電車に乗りながらさ、あー夏だなーって思ってさ。それが俺たちらしいじゃん」

 さくらは緩慢な動作で光太を見上げた。ゆっくりと焦点が定まっていっていつものふてぶてしさが顔を出す。

「ま、それもそうだな。今日は帰るか。体力なしもやしのためにな」
「だからもやしじゃねえよ。いつまで引きずるんだそれ」
「ほらとっとといくぞ。いつまでもここにいると干からびたもやしになるぞ」

 さくらは笑って駆け出していった。

「龍、ほんとに大丈夫か? 無理そうならまだここで休んでいても……」
「いい。歩ける。俺はもやしじゃねえし」

 未だ不安そうにうかがってくる光太に手を振って龍は目のくらむような日向へと一歩踏み出した。


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