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【短編小説】不意を食って及び腰

だってそんなの聞いていない。
思わぬところから新たな始まりを迎える話。

以前書いた「負け戦のその後」の後日譚です。先にそれを読んだほうがわかりやすいかと思います。

「負け戦のその後」の前日譚はこちら


 はあとため息が漏れる。

「なあに? まだ悩んでいるの?」
「だって……」
「いいじゃない。林太郎君イケメンだし、告られたんでしょ? 振られたーって泣いていたんだから、ちょうどいいじゃん。お試しで付き合ってみれば」
「だからそんなに気楽な問題じゃないんだって」

鳴美はそのまま机に倒れ伏した。木のひんやりした感触が気持ちよい。垂れた髪の隙間からニヤついた友達の顔が見えた。

「えーなんでよ。いいじゃない、幼馴染で一途に想ってくれたなんてかなりぐっとくるし」

私だったら即OKよと笑う彼女をにらみつける。そんな一言で済む関係だったら苦労しない。

「そんなんじゃないもん……」
「ええー鳴美ったらあんなに恋愛ソングを切々と歌えるのに、いざ自分が同じ立場になったら尻ごみしちゃうの? 部内でも褒められていたのに」
「歌と現実は違うでしょ」
「そうかなあ?」

 ま、鳴美が言うならそうかもねと、口先だけは同意しつつも、目を見れば本心ではないことなんて明らかだ。下世話な好奇心にまみれた視線は噓つきと笑っていた。本当は嬉しいくせに。聞こえぬ声が耳元で囁く。鳴美はきつく唇を噛んだ。
 そうじゃない。どうしてわかってくれないのだろう。何が何でも単純な解に結びつけようとする周りに耳をふさぎたくなる。

「ちょ、鳴美!?」

 気づけば椅子を蹴って教室を飛び出していた。目を丸くした彼女の顔が頭をよぎる。だが鳴美はそれを背後に転がる足音ごと置いていった。もし少しでも残してしまえば、この足は止まってしまう。それだけは嫌だった。


ピコン、ピコン、ピコン。

 ひっきりなしにスマホが震える。鳴美は無言でメッセージアプリの通知をオフにした。送り主は明らかだが、今は静寂が欲しい。
 埃の積もったギター、棚に並べられた折り畳み式譜面台、乱雑に突っ込まれた埃のつもった楽譜たち。音楽準備室の総面積は教室の半分より若干小さい程度であったが、物が多すぎて到底そうとは思えない。なにせ吹奏楽部と合唱部が共用しているのだ。今でも手狭だというのにギター部まであった昔はどのように使っていたのだろう。それでもここを選んだのはこの時間帯は誰もいないことを知っていたからだ。

「何も知らないくせに好き勝手言わないでよ……」

 膝を抱えた腕に力がこもった。


 林太郎との付き合いは幼稚園の頃からだ。当時は顔のきれいさも相まってよく女の子と間違えられる状態だったから、他の男子たちに目をつけられ、ガキ大将にどつかれては涙の膜を張っていたものだった。
 泣き出すまいと唇を引き結び、潤んだ瞳を揺らめかせて耐えている様は庇護欲を強くそそられる。たまたまその場面に遭遇することの多かった鳴美は、その都度その小さな手を引っ張って、自らの背に隠し、不届き者と対峙していたものだった。何よりなるみちゃん、なるみちゃんと袖を掴んでついて回る林太郎がいじらしく、仮初めの姉気分を心地よく味わうことができた。今まで鳴美にとって林太郎は守るべきかわいい弟だったのだ。

 それがどうだ。

『俺じゃだめか!?』

 あのときの熱さと容易に抱えこまれた自分の手。己のとは全く違う弓胼胝のある固い掌。こちらを射抜く真剣な瞳。それに映る自分は夕陽ですら誤魔化せないほどの赤さを晒していた。
 鳴美は手で顔を覆う。思い出しただけで火傷しそうなほど頬が熱い。
 知りたくなかった。林太郎の男の部分なんて。いつの間にか二人の関係が変質していたなんて。
 知ってしまえばこのぬるま湯のような関係が変わってしまう。いや本当はもっと前から変化していたのだろう。ただ、鳴美がそれを怖がったから、林太郎が我慢してくれていただけだ。賢治との純粋な友人関係が終わりを迎えたように、林太郎との関係も期限付きであった。なんと滑稽だろう。賢治との変化は覚悟していても、林太郎とは不変であると勝手に思い込んでいたのだ。
 わからない。何もかも。鳴美は無意識のうちに心臓の上あたりを握りしめた。
 恋とはこんなに苦しいものだっただろうか。賢治に抱く想いは星屑のようにキラキラしたものばかりだったのに、林太郎のは何色もの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたようだ。嬉しいのか、嫌なのかそれすらわからない。これを一言で断じるにはあまりに降り積もった時が長すぎた。

 あの後どのような顔を向けていいのかわからず、何度も『ごめん、明日は一緒に登校できない』という文章を打っては消すを繰り返し、迎えた翌朝。

「おはよう。顔色悪そうだが大丈夫か」

 拍子抜けするほど林太郎はいつも通りだった。眉根を寄せて、心配そうにこちらを覗きこんでいる。

「え、それだけ?」
「それだけって……まさか昨日のこと気にしてくれたのか」

 心底驚いた表情をみせるものだから、流石の自分も頭に血がのぼった。

「なによ、私だって昨日あんなこと言われたら意識しないわけにはいかないでしょ、ばか」

 林太郎は二、三度瞬きした後、視線を泳がせて顔を背ける。

「いや、今まで意識すらされてなかったからそこまで意識してくれるとは思っていなくて」

 嬉しいと最後の独り言まで拾ってしまって、熱が治まらない。沈黙が続く。気まずいような、くすぐったいような奇妙な無音の時間だった。

「……おはよう」
「……うん、おはよう」

 さすがに賢治は気まずそうな顔で、いつもより体一個分距離をとった。吹き抜ける風が冷たくて、指先が震える。三人は無言で学校までの道のりを急いだ。


 ぎくしゃくした雰囲気は今も解けていない。いつか自分たちの間にも雪解けの時期は訪れるのだろうか。ほうと吐いた息に白さが混じる。

「どうすればいいんだろう」

 答えなんて自分も、周りも持ち合わせていなかった。


「それで林太郎と距離を置きたいと?」
「違います!」
「じん、その言い方は直接的すぎるだろ」
「悪い、聞き方がよくなかったな。だから一旦椅子に座ろうぜ鳴美」

 思わず椅子を蹴って机を叩いた鳴美に、怒るでもなく二人は穏やかに着席を促した。顔に熱が集まる。中学時代から幼馴染や賢治繋がりで世話になっている先輩たちの前で幼稚なことをしてしまった。

「じゃあまず一つ一つ整理していこうぜ。鳴美が一番引っかかっているのは?」

 椅子の背に顎を乗せて森田先輩が尋ねる。その瞳は無邪気な子どものようだった。彼の瞳に困惑する自分が映っている。呼吸が浅くなり、鳴美は酸欠の魚のように口をぱくぱくと動かした。

「え、えっとその」
「鳴美、ゆっくりで大丈夫だぞ。これでも飲むか?」
「総助、珍しく気が利くじゃねえか」
「うるせえ。珍しくは余計だ」
「本当のことだろ?」

 もう一人の先輩、玉川先輩がどこから取り出したのか未開封のペットボトルをよこした。見慣れた軽口の応酬に身体のこわばりが解けていく。礼を告げて、それを口にふくんだ。生温い茶が逸った心臓を落ち着かせていった。

「あの」

 二人が視線をこちらに向ける。しかしそれは急かすようでも、無遠慮に探るものでもない。鳴美は先ほどより深く息を吐いた。彼らの、自然体でいさせてくれるこの雰囲気が好きだ。だからこそ友達でも部活の先輩でもなく、異性でかつもう直接関わりのない二人に頼ったのだが。

「あの、私、今までりんのこと弟みたいに思っていて、その、突然そんな目で見るなんてとても……」
「そっか。じゃあ今まで姉弟だと思っていた関係が急に女と男の関係になったのが怖いと」

 こくりと頷く。森田先輩はふむふむと相槌を打った。

「それで林太郎のこと気持ち悪いだとか拒絶したくなった?」
「っ、そんなのありえません!」

 気づけば鳴美は再び立ち上がっていた。乾燥した空気は自分の声をよく通す。荒い息が一定のリズムを刻んでいた。はっと我に返ったときにはもう遅い。

「す、すみま」
「じん」

 咎める声が鳴美の謝罪を遮った。ただし、それは鳴美に向けてのものではない。

「さっきから何やってんだ。苛めてどうする」
「悪かったって。これでも一応考えがあってやったんだぜ?」

 ひょいと森田先輩は肩をすくめた。玉川先輩は未だに胡乱な目つきで睨んでいるが、それよりも後半の発言が気になる。

「考え、ですか?」
「ああ。なあ嫌悪感がないなら、新たな関係になるのが怖いだけで、鳴美自身は結構前向きに捉えているんじゃないか?」
「前向き?」

 目を瞬いた。森田先輩は口元に緩やかな弧を描きながら続ける。

「だってそうだろう。もしそういう目で見られないのなら、たとえ付き合いが長かろうが、少しは嫌な気持ちが浮かぶだろ。でも鳴美の場合、さっきの反応から何にもないんだろう? だったら怖気づいているだけなのかもな。林太郎の変化にも、自分の変化にも」
「そ、そうなんですかね?」

 言われてみればそうなのかもしれない。たしかにあのときから姉目線から異性を見る目に変わった。あれを思い出す度に全身が熱くなるのは、もしかして――?
 しかし自分はこの前まで賢治が好きだったのだ。そんなにコロコロ気持ちは変わるものだろうか。失恋して、それを慰めてくれた相手に告白されて、新たに恋を始めましたなんて尻軽すぎやしないだろうか。三文小説にもならない酷いタイトルだ。しかも主人公は自分。あまりにもいたたまれない。

「じん、誘導尋問はやめろ」

 床の木目を見つめていると、低い声が降ってきた。玉川先輩が先ほどよりも険のある表情で森田先輩をねめつけている。

「俺だけに?」

 おどけて答える森田先輩に玉川先輩はあからさまなため息を吐いた。眼光がいつもより鋭いのはきっと気のせいではない。

「ふざけている場合か。鳴美、そんなに慌てなくてもいい。林太郎だってせかしているわけじゃないんだろ?」
「で、でも早く答えなきゃ……」

 自分の気持ちを相手に伝えるのがどれだけ勇気が必要なことなのかは身をもって知っている。臆病で奥手な彼があの行動に出るのは、きっと自分よりもさらに覚悟を要しただろう。握りしめていた胸元のスカーフに深い皺がよる。
 玉川先輩がすっと目を細めた。

「焦ったところで答えが出るのか? そんなに林太郎のことを軽く扱いたいわけじゃないんだろう?」

 はっと顔を上げる。そうだ。なぜ悩んでいたのか。なぜ友達の言葉に苛立ちを隠せなかったのか。もしもこの気持ちが破れた恋の瘡蓋代わりとして生まれたのならば、私は私を許せない。だって大事な幼馴染なのだから。今までずっと一緒にいたのだから。

「あの、わたしっ」

 突然叫んだ鳴美に二人が目を丸くするが、一度発した音は止まらない。

「私、好きかどうかわからないんです。でも友達でもいてほしくて。どっちつかずで、私、ズルい女ですよね」

 できれば賢治ともこのまま疎遠にはなりたくないが、林太郎の胸中は複雑だろう。それでも望まずにはいられない己の浅はかさには呆れ果てるしかない。

「そうか? 人なんて大体そんなもんだろ。恥じるほどでもないと俺は思うけどな」

 玉川先輩が言い放つ。その口角は吊り上がっていた。

「でも自分の気持ちなのに……」
「自分のことを完璧に理解している奴のほうが珍しいと思うけどな」

 性懲りもなく逃げを打つ鳴美を森田先輩が押し戻す。

「じっくり悩めばいいだろ。時間はたっぷりあるし、ちゃんと考えればどんな答えを出すにしろ、林太郎は嬉しいと思うぞ」
「賢治も今まで通りとはいかないかもしれねえけど、そんなあっさり手を離す奴じゃねえよ。安心しろ」

 視界がぼやけてくる。鳴美はきつく唇を噛んで俯いた。

「鳴美」

 玉川先輩が静かに声をかける。静かだが、引きつけられるように自然と視線が絡んだ。

「信じろ。お前らの関係はそんなやわなもんじゃねえだろ。そんなちょっとやそっとお前が待たせたところで変わるわけねえんだから」

 今度こそ溜めこんでいた水の膜が決壊し、鳴美は声を押し殺してしゃくりあげた。その背を撫でてくれる二つの手は暖かかった。


「じん、どう思う」
「さあな。五分五分といったところじゃね?」

 頭の上で腕を組む親友に総助は強い眼差しを送った。

「ったく、自分の望む方向に動かそうとするな。お前の問題じゃなく鳴美たちの問題だろうが」
「酷い言いがかりだな。俺は恋に恋した鳴美に本来の気持ちを気づかせるように、上手く水を向けてやろうと思っただけだぜ」
「まるで鳴美の想いが偽物みたいなことを言うな、じん」

 迅介はそれには答えず、さっさと進んでいく。総助は盛大に舌打ちをした。

「ヤダー総ちゃんガラわるーい」

 わざとふざける迅介に蹴りを入れる。それを躱して、彼はケラケラと笑った。

「そうは言ってねえって。今のは俺の感想」

 電柱に灯る蛍光灯は青白く冷たい。まるで外気のようだ。既に日が沈んだ空は端に太陽の気配を残すだけである。

「なおさらタチ悪い」
「そうかもなー」

 笑いながら親友は駆け出していく。総助は再び舌打ちをして彼の後を追いかけた。


「りん」

 ちらと目がこちらを向く。でもまだ遠い。袖を引っ張って耳打ちを一つ。

「今日、放課後あの公園」

 大きく見開かれた目を目に焼き付けて、鳴美は予鈴が鳴り響く教室に逃げ込んだ。
 指した場所は小さい頃よく二人で遊んだ近所の公園だ。青い象型の滑り台の腹あたりに開いた穴が幼い二人にとっての秘密基地だった。林太郎は恐らくわかるはず。

「鳴美、顔赤いけど大丈夫?」
「大丈夫、気にしないで」

 覗き込む友達にはにかんで、鳴美は手で顔を扇いだ。


 思いがけず部活が長引いてしまった。鳴美はコンクリートの地を蹴りながら祈る。

「お願いだから、あんまり待っていないといいんだけど……」

 珍しく吹奏楽部と終わる時刻が同時だったから、恐らく他の部活はもうとっくに終わっているだろう。だから待たせていることは確実。しかし春の兆しが微かに感じられるようになったとはいえまだ風は冷え切っている。ましてやあそこは風通しが良い。鳴美は喉や足の悲鳴を無視してスピードを上げた。
 息を切らして駆け込んだ公園にはやはり幼馴染が立っていた。あの滑り台に寄りかかるようにして。自分を認め、林太郎はぎょっと駆け寄ってきた。

「鳴美、そんな走ってこなくてもよかったのに。喉痛めたら大変だろ」
「待たせたら嫌だなと思って」
「そんなに待ってないから大丈夫」

 水かなんかあったかなとカバンをひっくり返す彼の手に触れて制する。氷のような温度に思わず噓つきと詰ってしまった。彼は眉を下げただけだ。
 違う。そんな顔をさせるために呼び出したんじゃない。頭を振って、息を吸う。

「あのね」

 今度こそ真っ直ぐ彼を見つめた。それが一週間も待たせてしまった自分のできる唯一の誠意だから。

「この前の返事なんだけど――」

 蛍光灯に照らされる二人の影を、先を微かに色づかせた丸い蕾が見守っていた。

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