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【短編小説】負け戦のその後

かなうはずのない想いがかなうかもしれない、とある片想いの行く末の話。
三人組シリーズと同世界線ですが、三人組は全くでてこないのでこれだけで読めます。


「やっぱりね、ごめ、だめだった」

ひっく、ひっくとしゃくり上げる音ががらんどうの教室を満たしていた。まだ窓の外にゆれる桜の蕾の固く閉じられたその先から、ほんの僅かに淡い赤が覗いている。そんな日のことだった。

「ごめん、ね。りんも、おう、っ、えん、してくれたのに、ね」

青春の抜け殻のような空間にいるのは少女と少年二人のみ。少女が座る席の傍らに立つ少年は形の良い眉を小さく眉間に寄せ、静かに寄り添っている。

窓から差し込む西日が、整然とした箱庭から二人の影を浮かび上がらせていた。

嗚咽が漏れていなければ、恋愛映画に出てくるようなロマンチックなワンシーンに見えたかもしれない。傍で彼女の勝負の結末に耳を傾けている少年、林太郎は思った。

校庭で威勢よい野球部の掛け声が膜一枚隔てたようにぼんやり響いている。セミロングの真っ直ぐな栗色が彼女の白いかんばせを覆い隠し、こちら側からは小刻みに震える肩しか見えない。丸めた背中は一層華奢だった。

「……お前はよく頑張ったほうだよ、鳴美」
「そう、かな。けっきょく、っ、だめだ、った、けど」

顔を上げた彼女の目からまた一つ涙がこぼれ落ちる。真珠みたいな大粒の珠が。

自嘲するように無理やり口角を上げる彼女は傍目から見ても痛々しい。まるで既に傷だらけの身体に、何度もナイフを突き立てているようだった。

もういい。そんなに自分を傷つけなくていい。

無意識のうちにか細い彼女の身体を抱きしめようとして腕が伸び、しかしその寸前で手は止まった。宙をしばらくさまよった末に、結局指一つ触れずに力なく落ちる。

代わりに出てきたのは当たり障りのない慰めの言葉だけだった。

「結果はどうであれ、自分の想いをぶつけたんだろ。だめなんかじゃない。勇気ある行動だ。そんなに自分を卑下するな」

中身のない空虚な言葉でも彼女の表情を僅かに和らげる程度には役に立ったらしい。ぎこちなく彼女の口の端が上がる。

「そう、かな」

白磁の肌に新たな水跡が伝った。透明なそれは夕陽に反射して眩いきらめきを放っている。息を吞むほど美しく、儚いきらめきだった。

諦めの悪い手が再び伸びようとするので爪をたてて封じた。それは自分には許可されていない。林太郎は緩まった拳を再び強く握りしめ、目を伏せて呟いた。

「……そうだよ」

そう彼女は勇敢で、とても気高い。――彼女の想いが結ばれなかったとき密かに安堵してしまった自分なんかよりずっと。

たとえ散ろうとも正々堂々と自分の想いを口にした彼女は、想いに蓋をして、必死に目を逸らすことで安定した幼馴染の座に留まろうとした卑怯者よりもずっと清純だった。

「でもね、っ、やっぱ、叶えた、っ、かったなあ」
「っ、」

ぽろりとこぼれ落ちた本心は容易くこちらの息の根を止める。不意打ちで放たれた刃は身構えもしなかった自分の心に鋭く突き刺さった。

彼女の想い人は自分もよく知る人物だった。彼女ほどではないにしろ、彼も小学生時代からの付き合いであったのだから。毒を吐くつり目の彼の顔が浮かんで林太郎は唇を引き結んだ。

苛烈な一面をもつ彼は一見とっつきにくそうにみえて、内にいれた者には優しく、何より自分の信念を貫き通す人だった。惚れ惚れするくらい格好いい人だった。間違っていると思うことにはどんなに形勢が不利であれ、曲げることなどなかった。

だから小学生の頃、地毛が黒ではないからといじめられていた鳴美に手を差し伸べた。今でも昨日のことのように思い出せる。彼にとっては見ず知らずの少女をその背にかばい、取り囲むいじめっ子たちを口だけで完膚なきまでに叩きのめしたあの光景。その瞬間、彼女の瞳に星屑が散ったのも。

彼女にとってはヒーローで、そしてその憧憬が恋心に変わっていくのをはたで見ていたからよく知っている。

教室の入口前でうろうろするだけで何もできなかった自分とは雲泥の差だ。

林太郎はナイフを押し当てたような切れ長の目を伏せる。部内で一番整った顔だと先輩たちが囃し立てたこの顔も、好きな少女に振り向いてもらえなければゴミ同然だった。

まあ、それもそうか。臆病者で、口も達者でなく、己の芯も通せない自分は彼みたいに生きられない。真っ直ぐ相手を睨みつける彼の横顔は鮮烈な憧れと敗北感を焼きつけた。

「りんもありがとうね。もういいから」

鳴美は下手くそな笑顔を作った。油断すれば伸びそうになる腕を見咎めるように視線をよこしながら。

それは彼女のプライドもあっただろうが、同時に確実な線引きであった。これ以上踏み込むな、という。

失恋話に付き合うのは百歩譲ってありうるかもしれないが、涙を拭おうとするのはいくら幼馴染だとしてもやりすぎだ。いささか首を突っ込みすぎている。それは自分自身もよく分かっていた。

ここで歩みを止めて、なんてことのない顔で立ち上がって帰りを促せばいつもの日常に元通りだ。自分は彼女の隣で歩くことができ、彼女も自分が好きな、可憐な野花のような笑みをみせてくれるだろう。

そう、いつもであれば。

数日前にかけられた、尊敬する先輩の言葉が耳の奥で再び廻った。


「お前さぁ、いつまでいい子ちゃんやっているつもりなわけ?」

内側にくるりと巻いている髪をいじりながら先輩は尋ねた。常に隣にいる先輩の片割れであるあの人は珍しくおらず、今日のような放課後の教室で二人きりのときにこぼれた問いかけだった。何の前触れもない問いは独り言のようだったが、その目は見透かすようにこちらを見つめている。

林太郎の動きが止まった。

「……それはどういう意味ですか」

空とぼけてみるも鼻で笑われただけであった。

「俺が何を言いたいかなんてわかっているだろ、なあ林太郎?」

一瞬で低くなった声が自分の名を呼ぶ。こちらを見据えた目が獲物を狙う蛇のように細まった。自然と身体が震える。中学のときに叩き込まれた上下関係は部活を違えた今でも絶大な力をもっていた。そうでなくてもこの人には逆立ちしたって敵わないのは身をもって知っているが。

せめてもの抵抗に視線をそらし、無言を貫いていると大きなため息をつかれた。

「お前は鳴美の想いが叶わないからって胡坐かいているかもしれないけどさ」
「っ、そんなことありません!」

思わず声を荒げた自分とは対照的に凪いだ目は揺らがない。真夜中の海のような瞳は自分の汚いところ全て暴いてしまうようで、尊敬する彼に初めて恐怖を覚えた。

「そんなことある。お前は目がいいからな、ましてや好いている相手と憧れをもった友人のことを見逃すはずないだろ。お前が目をそらしているだけで、心のどこかでは成就しないとわかっているから安心して鳴美の恋愛話に付き合えているんだよ」
「……たとえそうだとして、それのどこがいけないんですか。俺はちゃんと距離を保っていますよ」

焦がれる彼女の話を傍らで聞くが、抱きしめることもしなければ、自分の想いの片鱗を覗かせることもない。せいぜい背を撫でて、一般的な慰めをかけるだけだ。それが責任もなく、最も彼女の近くに立てる権利の代わりに課された義務であった。どれほど腕を伸ばしたい衝動に駆られても、爪を立てて押さえつけ、ずっと恋情を持たぬよき幼馴染の仮面をかぶってきた。

当然だ、それがあの日ただ立ち尽くすことしかできなかった自分の罰なのだから。彼みたいにあの日、悪意から彼女を守ってやることもできない臆病な自分にはこれくらいがふさわしい。

ギリギリと奥歯を嚙みしめる音が聞こえる。先輩の目に映る自分は今まで見たこともないほど険しい表情だった。

「いやそれが悪いとは言わねえよ。ただな」

先輩は怒り一つ見せずに淡々と告げる。

「今回は叶わなくても次がそうとは限らないぜ?」

茜色から徐々に明度が落ちて藍色に変わっていく。影との境界が不明瞭になっていく。

「はっきり言って行動に移さなきゃお前はいつまでたってもただの幼馴染で、決して恋愛対象にはみられない。今まではそれでいいかもしれなかったが、ずっとこの関係が続くはずねえだろ。他の男にとられて幸せそうに微笑むのをただよかったねと祝福できるのかよ、お前は」
「……そう、してみせます」

驚くほど掠れた声がでた。眉間に今までにないほど皺がよるのがわかる。何か言い返しそうとして、だが結局何も出ずに口を閉ざした。
先輩はしばらく黙ったままの自分を見つめていたが、やがてつまらなさそうに一瞥して立ち上がった。

「ふうん、そうかよ。じゃ、俺がいうことは何もないな。どこの馬の骨ともわからない男に鳴美の笑顔をとられるまで指をくわえて待っていればいいさ」

ひらひらと手を振って先輩は出ていった。残ったのは吐き気に似た腹のむかつきを抱えた自分一人だけだった。


それでも納得したはずだった。何度も吐き戻しそうになるのを、こらえて、無理やり嚥下して飲みこんだはずだった。この決意は決して壊れないはずだと思っていた。

それを一瞬で粉々にしたのは鳴美の涙に濡れた顔だった。

――もうたくさんだ。

彼が彼女の想いを受け入れたのならば話は違っていただろう。二人が付き合うのならば、自分は二人の友人として二人の新たな関係を祝福したはずだ。

だが現実は違う。彼は彼女の想いを受け入れなかったし、幼馴染の自分は涙を拭うことさえ許されていない。どんなに揺るがない立場だろうが、彼女の涙一つ拭えないで、何がよいのだろうか。彼女の悲しみ一つ払拭できないのならば、なくてもさして変わらない。唐突に自分が必死に守ろうとした立場がガラクタ同然に思えてきた。

林太郎は大きく息を吸う。

「あのさっ!」
「な、なに?」

突然大声を出した林太郎に鳴美は反射的に顔を上げる。丸くなった瞳は小動物のような愛らしさだ。その無垢な顔を見た瞬間、迷いが生まれた。

本当に自分の気持ちを伝えてもいいのだろうか。もしかしたら二度と話してくれないかもしれない。そうでなくても今までと同じ関係には戻らないだろう。なぜなら今から自分が行うことはこれまで積み上げてきた全てを破壊するものだからだ。

いいじゃないか、今まで通りの関係でも。たしかに越えられない一線はあれど、彼女の隣に立つことができるんだぞ。伝えてしまえば口もきいてくれないかもしれない。今ならまだ誤魔化しがきくぞ。

悪魔が囁く。喉が詰まり、唇がわなないた。

「どうしたの?」

鳴美は不思議そうに見上げている。自分が行おうとしている裏切りなど一切気づいていないようだ。

やはり適当に誤魔化してしまおうか。取り繕う言葉はごまんと思いつく。その中から適当なものを選べばいいのだ。何度もしてきた行動は林太郎にとって最も易しい行為の一つだった。

喉から無難な言葉が飛び出そうとしたその瞬間だった。

『他の男にとられて幸せそうに微笑むのをただよかったねと祝福できるのかよ、お前は』

先輩の言葉が再生ボタンを押されたかのように頭の中で弾けた。同時に見知らぬ男に笑いかける彼女の笑顔も。

いいわけがないだろ。いいわけがあるはずがない。

俺が許したのは他ならぬ彼だったからだ。曲がったことを厭う高潔さをもつ彼だったからだ。分かりづらいが深い優しさを時折見せる彼だったからだ。彼以外の男に彼女の笑顔をもらう権利を許したわけではない。

瞬間、やけつくような苦味が胃からせり上がり、爪はついに皮膚を食い破った。温かい血が流れる感触がまとわりついて鬱陶しい。

「ねえ、本当にどうしたの?」

濡れた栗色が夕陽に反射してきらめく。彼女の痛いほどの純粋さを象徴するような輝きだった。

そうだ。彼女は今すぐ逃げ出したくなるような恐怖を乗り越えて彼に全てぶつけたのだ。自分よりもか細い体でやり遂げたことをやれなくてどうする。

消えかけた炎が燃え上がり、こわばる喉に空気を通す。

「あのさ……俺じゃ駄目か!?」
「えっ、ちょ、ちょっと、どういうこと?」

彼女の目が大きく見開かれる。彼女が席を蹴って立ち上がるが、林太郎は畳みかけるように言葉を重ねた。

「俺はたしかにあの人みたいに勇敢でもないし、先輩みたいに弁が立つわけでもないけど、お前のことが好きなのは誰にも負けない。だからっ」

胸の上で握りしめていた右手を彼女の手に重ねる。びくりと跳ねる彼女の指は自分の骨ばった手と違ってやわらかく細く、おまけに一回りも小さかった。

幼い頃は大して変わりなかったはずなのにどこでこんなに差がついたのだろう。上手く働かない頭の片隅でそんなことを思った。

「俺にしないか? 俺だったら、お前をそんな風に泣かせることもないから、だから、俺を選んでくれ。頼むから……」

何を言ったかなんて覚えていない。勢いだけに身を任せる。そうでなければ臆病な自分がすぐに顔を出そうとするからだ。最後のほうなんてみっともなく声が震え、懇願するように掴む手に力をこめていた。

こんなとき口が回る先輩のように上手い言い回しができたらよかったのに。頭の中にいる世話焼きの先輩は、こんなときにも俺に頼るなよとため息をついていた。

痛いほどの沈黙が場を支配する。あれほど威勢のよかった野球部のかけ声すらいつの間にか鳴りを潜めていた。

――終わった。もうかつての日々のように無邪気に笑いあうことなどできやしない。

すり減った床の木目すら自分を嘲笑っているようだった。

――でも、

いつかは瓦解する関係だった。既に決壊しかけていた想いは遅かれ早かれ溢れ出ていただろう。何かの拍子にうっかり噴き出すくらいなら自分で水門を開けてしまうほうが、幾分か自分の罪が軽くなる気がした。

ジンジンと訴える掌の痛みすら林太郎の頭は感知していなかった。そんなことよりもえぐられていく胸のほうが痛かった。

使い古され、埃がたまった椅子の脚は微動だにしない。さながら処刑宣告を今か、今かと待つ囚人の気分だ。

「あのね、」

か細い声が静寂を破った。びくりと震える手が今すぐ耳をふさぎそうになるが、意地でこらえる。もうこれ以上みっともない姿を見せたくなかった。

せめて最後くらい格好つけたかった。もう情けない姿を散々晒してはいるが。

「ちょ、ちょっとまって。あの、わたしっ、ぜんぜんきがつかなくて……」

予想と違う返しに思わず顔を上げる。夕陽に照らされても真っ赤な頬はごまかしきれていない。瞳は先ほどとは違った意味でうるんでいる。

「え……」

絶句した。その表情はどういう意味なんだ。望みあるのか? いや、そんなまさか。あり得るはずがない。

花は散ったはずだった。それなのに花びらが地に還る前に再び蕾をつけようとしている。しかもその先端は既に緩み始めていた。

やめておけ。また焦がれたところで無残に跡形もなく焼き尽くされるだけだぞ。片隅でブレーキをかけようとする理性も彼女の前では弱弱しい。

「あ、えっと、それって……」
「ご、ごめん。じゃそういうことだから」

壊れたブリキのおもちゃのようにたどたどしく伸ばした手をすり抜けて、彼女は脱兎のごとく教室を後にした。

彼女を追いかけようとした足は、しかし次の瞬間に膝が笑って立てなくなる。林太郎はそのままずるずるとへたり込んだ。今さらになって心臓が早鐘のように打ち出す。

「これ、期待してもいいのか……」

顔を覆う手が熱い。きっと自分も鳴美に負けないくらい赤くなっているはずだ。誰かに見られたら熱があると思われるかもしれない。

「いやある意味熱があるのか……」

まだ冷たい風に揺れる桜の木々の中、一輪の蕾がほころんだ。

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