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「大豆田とわ子と三人の元夫」【第7話の感想/分析】 好きな人に“時間も空間も越えて”会いにいけるという考え方。

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「大豆田とわ子と三人の元夫」ってどういうドラマなの?と聞かれると、たしかにこのドラマはサスペンスとかコメディとか特定のなにかのジャンルにくくるのは難しいドラマだなと考えさせられるが、第7話を観ていてふと思ったのは、このドラマは“ある女性の一代記なのかもしれない”とあらためて感じたのだった。つまりいわゆる“朝ドラ”みたいなもの。朝ドラのような初々しさや爽やかさには欠けるものの、ある女性の人生における困難や喜びを、幼少期から晩年までかけて丁寧に追いかけていくような趣きがあるドラマなのである。

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たとえばそれは“主人公に元夫が三人もいる”ことによって、視聴者は、主人公の今日現在までにいたる人生について、比較的長いスパンを頭の中にイメージしながら、とわ子の歩む道を伴走する構造になっている。たとえば、1人目の夫と出会ったのは20代の頃でその頃どんな風にふたりは出会ったのかとか、2人目の夫と出会ったころにはひとりめとの失恋にはもう吹っ切れていたのかなとか、3人目の夫と出会ったころは娘の唄はいくつくらいでどんな子だったのかなとか、いろいろとその時代その時代のとわ子について想像が膨らませられるようなドラマのつくりになっている。

このブログでも第3話の感想記事の時にぼくはこう評している。

多くのテレビドラマは物語の“先”を見せる。
好きな人と繋がれるのかどうか、怪しい容疑者が真犯人なのかどうか、先へ先へと時間を進める。
でもこのドラマは“うしろ”を見せる。“歩んできた行程”を見せる。

現在進行形だけでもテレビドラマは描けるしそういうドラマが世の中の大半ではある。でもこのドラマは女性の一代記として、過去・現在・未来が描かれる必然性がある。“2020年代を生きる等身大の40代女性”を描くためにはこの“時間の奥行き”みたいなものを丁寧に描くようにしているんだと思う。いろいろな経験を経て、それぞれの出来事から学びを得て、いま現在の“魅力的な大豆田とわ子像”ができあがってきたのだと説得力をもって伝えたいがために。

時は不可逆である。
だからこそ、ひとつひとつの人生の分岐点で、後悔がないように納得して自ら判断を重ねてきたという誇りがあり、そして今がある。未来がある。

◇◆

しかし、謎の男、オダギリジョー演じる小鳥遊大史(たかなしひろし)は、突然あらわれて「時間とは過ぎていくものではない」と語るのである。

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人間にはやり残したことなんてないと思います。
その人はあなたの幼馴染だったんですよね?
じゃあ10歳のときのかごめさんも、20歳のときのかごめさんも、30歳のときのかごめさんも、知ってる。
過去とか未来とか現在とかそういうのって、
どっかの誰かが勝手に決めたことだと思うんです。
時間ってべつに過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか、別のところにあるもんだと思うんです。

人間は、現在だけを生きているんじゃない。
5歳、10歳、20歳、30、40、
その時その時を人は懸命に生きてて、
それは別に過ぎ去ってしまったものなんかじゃなくて。

だから、あなたが、笑っている彼女を見たことがあるなら、
彼女は今も笑っているし。
5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて。
今からだって、いつだって、
気持ちを伝えることができる。

人生って小説や映画じゃないもん。
幸せな結末も悲しい結末も
やり残したこともない。
あるのはその人が
どういう人だったかということだけです。

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時間とは、過ぎていくものではなく、“別の場所にあるもの”だと小鳥遊は言う。

絵で描くとこんな感じだ。

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つまりこれは、やや難しく考えると、古典物理学的な“線形的時間”に対して、たとえば哲学者ベルクソンのいうところの“純粋持続による真の実在”論に近い考え方を指しているように思えるが、難解なのでここでは深入りしないようにする。

とにかく“時間は過ぎ去っていくものではない”という主張がなされたのである。
この主張は実は「大豆田とわ子と三人の元夫」を書くにあたって、もともと脚本家にとって根本的な動機(初期衝動)となるようなテーマ設定だったのではないか?と今話を観ていて気づく。

なぜなら、“三人の元夫”は、現在進行形において“フラットに実在”している。
離婚した夫たちが一堂にかいして暮らしているなんて、こんなことは現実的には難しく、ありえないことだけれど、概念として三人は並行に均等に並んでいる。
20代30代40代の時に順に出会った元夫たちが均等に目の前にあり、大中小の重みづけがない。古い思い出のほうが感慨深いとか、新しい出会いのほうが愛着が大きいとか、そういう強弱もない。シーズン1シーズン2シーズン3というだけのフラットな存在。ソファに並んで座っている。
この“三人の元夫の置き方(ポジショニング)”がすでに、“時間は一概に線形的なものではないんだよ”という象徴だったと言えるのではなかろうか。
それらはいずれも“過去に置き去りにしてきたものではない”から、「今からだって、いつだって、気持ちを伝えることができる」。
それは、死においても。
目に見えるか見えないかだけの違いであって。

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◇◆

“謎の男”との再会はバスの中でだった。そのとき小鳥遊は、熱心にノートに計算をしている。
乗客のなかに、“何度もあくびをしている人”と“足をぷらぷらしている人”と“ときどき背中を掻いている人”がいて、不規則に行われているこの3つの動作が“重なる瞬間”がいつ訪れるのかの解を求めようとしているのだという。「これは中国剰余定理という計算法なんです」と小鳥遊が熱っぽく説明をしてくれる。

“重なりそうにはみえない3つの動作”にも、“重なり合う瞬間”がくる。

この3つという数字は、“三人の元夫たち”を隠喩しているのだろう。

性格も環境もバラバラで共通項のない三人。
とわ子と出会った時期はバラバラで、通常であれば出会うはずがない三人。
そんな三人でも“重なり合う瞬間”がある。

とわ子のことを心配する。
その瞬間だけは、いつだって、どこだって、重なり合うのである。
時間や空間に、制約されることもなく。

(おわり)
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