可変的なことを乗せて、メトロノームとゆりかご(日記4)
村田沙耶香『コンビニ人間』を読んだのだけど、特に印象に残ったのが人・事物がその中で循環したり置き換わっていっても1歩外から見れば「変わらない」ものに見える可能性があるという(解釈)こと。
高校国語でも身体を形作る物質は常に流動しているから、昨日の自分と今日の自分は同じといえるのかという話が出たりしたけど、そういったことを考え出したらなんだかどんどん身体の同一性が取れなくなって意識が飛びそうになって不思議な気分になる。
1人の中学生の頃の友達(親友、と表した方が分かりやすいんだろうけど、この表現は昔から違和感がある)とは、今も仲がいい。……と思う度にそこそこ心が揺らぐのもきっと上記のような可変的なものに対する疑問の一種なんだろう。私たちはあの頃、たしかに仲が良くて私はその子が大好きだった。
でも、今こうやってほんの数ヶ月や数年に何回かしか実際に会わずに、文通だけを頼りに繋いでいる先にいるその子は一体誰なんだろうと手紙を書きながら思う。今だって好きという気持ちは変わらないし、面倒くさいだなんて思ったこともないし、繋いでいたいから互いの誕生日が来る度に手紙とプレゼントを発送している。……と、思っている。あの頃の思い出とあの頃の面影を頼りに、でも今を見ていることはたしかで……よく分からない。けど、繋いでいたいと思う限りは続けていたいと強く思う。それはもう、1つの偶像崇拝に近いのではないかと2年前くらいにも思った。離れているからこそ、ゆりかごに乗って夢を見ているような感覚であの頃を思ってその子のことを思い出して、勝手に優しい気持ちになる。あの子は今一体誰なんだろう?