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2011年大学受験合格体験記 怒りの無限列車編〜大分上野丘高校への恨み晴らさでおくべきか〜

大学受験が終わると母校では合格体験記みたいなものを希望者に書かせ、3月に1,2年生向けの冊子か何かに抜粋して合格実績と一緒に掲載していたように思う。またそれなりに主要な大学(うちでいうと東京一工ほか医学部ぐらいか)に合格した人は在校生の前に立って講演をする機会もあった。俺は非常にそれに憧れており、まず人前に立って自分を誇大に表現することが好きなので文化祭でバンド組んでライブやるのとかは本当に楽しかったし、そのうえで大きな評価軸に"成績がいいか否か"というのが存在するうちの高校で、その実績を以てかますのが大変気持ちいいだろうと考えていたからである。しかしさすがに東大や京大を目指してはいなかったので講演は無理、ならばライブドアブログで培った文章力で圧倒できる合格体験記の掲載を目指すぞと思っていた。みていろ、という気持ちで高校3年の後半は勉強をしていた。

そもそも俺は大分上野丘高校に大分県2008年高校入試の最高点-3点という成績で合格しており(多分合ってる)、当初の教師からの期待はちょっと厚かったようである。この時も当たり前のように社会は満点だった。しかし大分市よりもさらに教育水準の低い別府市の公立中学を出ている俺は温泉宜しくそのぬるま湯につかりきってしまっており、高校の授業のスピードには全くついていけなかった。さらにうちの高校は学年360人いた中で大分大学付属中学出身が80人、金持ち地区の大分西中出身が40人強、ほかいいとこの公立中学何校かからは15人前後と、ほぼ大分市の仲良しグループで構成されており、さらに能開という九州で幅を利かせている塾出身が130人、中には違う中学だけどそこで付き合ってたやつとかもいたりして、そんな環境で塾にも行かず別府でベース弾き始めて女子に嫌われてたような俺なので高校生活のスタートは完全に終わっていた。普通田舎の公立中のやつは高校で偏差値が上がると高校デビューみたいなことをして1軍とかなれると思うが、明確に5軍だった。「塾で有名なナントカ君」みたいな存在もいて、いやそんなん言われたら自分何もできませんやんと思った。そのナントカ君と同じ数学の点数を高校最初の勉強合宿の試験でとったのだが。結局怠惰に怠惰を重ね、放課後にみんなが部活や塾で親交を深める中、終礼後最速の電車に乗って家に帰りラジオを聴いたりバンド練習に出かける生活へシフト。そして数学と物理と化学を諦め文系の道へ。

このころ、人生で初めて自分が「勉強ができない」と悟った。今までの人生、解けない問題に出くわすこともあったがしょせん公立中学のカリキュラムなので大きく影響を及ぼすことはなく、授業の内容も100%理解できていたし、自分は「勉強をする」し「勉強ができる」側だと思っていた。しかし、問題は解けないしそもそも机には向かえないし、小中でさぼっていたのは工作とか自由研究とか毎日の積み重ね系勉強ノートぐらいだったのだが、高校からは普通に課題もしなくなっていた。高1の記憶は雨や曇りの景色が多い。その分、学校の外で別府のやつらとやるバンドやライブがすごく楽しかった。

記憶力と言語感覚しか持っていなかった俺は幸いなことに2年から履修した日本史B世界史B生物と相性がよく、高校2年の終わりまでは定期テストもほぼ何もせず、何もできず、なすすべもなかったが文系で20位ぐらいをキープしていた。希望者が受験する東大模試みたいなやつはC判定だった。しかしそれは高校入試最高点-3点で入学した俺に期待していた数字とは程遠かったようで、毎年の家庭訪問で「もっとできますけどね絶対」とか言われていた。冬休みぐらいに興味本位で行った駅前のフォーラスのジュンク堂の参考書コーナー(うちの生徒がやたらに集まってキモい)でシス単を買い晴れて参考書デビューを果たした。シス単だけをぼんやり眺めていた。また教室の隅っこにチョークまみれで置かれていた受験冊子をこれまたぼんやり眺めていると阪大文学部が二次試験数学のかわりに地歴で受けれると知り、同じく数学が壊滅的だった油布君と熱いハイタッチを交わした。俺の行くところはここだと確信した。また高2の夏休みに東大オープンキャンパスに参加して初めて大都会東京を目の当たりにし、都会住みたいという気持ちが強くなった。体験授業は爆睡をこいた。

高3で国公立コース(うちの高校で最もスタンダード)に進み、私文コースと半々ぐらいのメンバーで構成される4組になった。この頃付き合っていた人と週に2日一緒に下校していた。下校と言ってもその人を塾に送るという行為で、塾の目の前に市の複合施設があったのでそこの図書館で勉強するようになった。ここからわりと自制心が働くようになり、勉強するときは閉館の21時までとりあえずいて課題などをこなしていた。そうやって俺の高3が始まった。

高3は今までの高校生活の集大成的に1年2年で培った交友関係が花開き、同級生や後輩とたくさん遊び、17歳特有のパワーもあって学校生活がクソ楽しかった。部活生が引退した6月からは毎日放課後閉校するまで喋り倒した。夏休みの中頃に外でやってたバンドに一応の区切りをつけ、学校の夏期講習をこなした。9月に文化祭で学校のバンドでライブをやってからはスタジオに入ることもなく、10月から土日も自習向けに学校が開放されたので毎日同じ電車に乗って閉校までいて、夕方からは図書館で勉強するサイクルに入った。このころ図書館に毎日通い始めた。今思えば本当によくやれたと思う。図書館勉強の息抜きに外のベンチでその日居合わせた同級生と話して仲良くなったり、気晴らしにコンビニにおでん買いに行って母親の作ってくれたおにぎりと一緒に食べたり、先述のジュンク堂で参考書を選んだりたまに地下の島村楽器やタワレコで別府の友達と会って嬉しくなる、などしていた。このころ阪大の青本、生物の黄色い参考書、英語の竹岡式英作文、だれも知らないであろう396古文単語帳を買った。これが俺の受験までともにする学校外の参考書セットである。すべて2chの受験板の評判で買っていた。だから東進などの塾でレコメンドされたであろうゴロゴ単語帳みたいなのを盲目的にいいと言っていた同級生のことをめちゃくちゃ軽蔑していた。2chこそ真実。

現役生の"伸び"なのか、この頃高校の文系の中で160人中2位とかとるようになり、また10月はC判定だった阪大文学部も、11月にわざわざ福岡の駿台まで始発電車で受けに行った阪大模試で無事A判定を取った。結局この時でも優秀者に名前載らなかったけど。その模試と同日、俺のやってたバンドが大分ロックンロールハイスクールという高校生バンドコンテストで3位入賞した。めっちゃうれしかった。ヘルプで入ってくれたシュン君マジでありがとう。また日曜は図書館が休みなので、学校が閉まったらそのまま別府に帰り、いわゆる地元の友達と温泉に行ったり海で遊んだりした。家では平日も一切勉強をせず、21:06の電車に乗って21:44に家に帰り晩御飯を食べてyoutubeをみてベースを弾いていた。今思えばメリハリがえぐかったのも奏功した遠因なのだろうね。

日本史の授業でのみ輝く俺の特性は引き続きあり、ある授業で住吉先生が全員の前で俺への一問一答みたいなのをばんばんしてきて、俺もそれにこたえていたが三井と三菱の所有する鉱山かなにかを間違えたときに「ほら、こいつでも間違えるんですよ」と言われたことが印象深い。高3の授業の想い出はそれだけです。

大晦日も正月も学校にきて勉強し、1月4日のマーク模試で初めて8割を超え、これはいけるかと思って受けたセンター試験で9割近い点をとった。相当易化してたと思う。ちなみに易化のことをエキカって読むやつめっちゃ嫌いです。日本史は高校入試と同じく満点をとり、生物97点、現代社会94点、国語と英語は9割で苦手数学も8割と、上々の出来。職員室で国語の萱嶋先生に「いいやねえか~本番強い奴はいいぞ~」とほめられた。萱嶋先生は毎年3年を担当する受験スペシャリストなのに、卒業後も俺と話してくれたりしてとてもいい先生である。この結果をみてわかるように、ずっと生物と社会科しか得意じゃない人生なのでそれっぽい結果が出せてよかった。あと阪大文学部はなぜかセンター生物の配点がめちゃくちゃ高かったので生物頑張ってよかったと思った。主要3教科はほどほどに、余計な勉強をした方が得なこともある。

こんなにセンターで(自分としては)いい点をとれると思っていなかったので、今まで視野に入れていなかった私立のセンター利用を検討し、早稲田の社学と同志社の文に出してみたらこれが通った。私立は2月5日にこれまた始発で福岡の天神で同志社の法を受け、日本史で聞いたことない単語が出てきたがなんとか受かった。私大のただマニアックなだけの問題は本当に悪質です。早稲田の法のセンターと二次試験併用型をチャレンジとして、あと東京に遊びに行ける手段として受けてみて、バレンタインデーで、学校にいる人たちと夕方電話したりして楽しくて、あとちゃんと受かってよかった。これが結構自信になり、そのまま阪大文学部を受験。初めて本番で全問解けるという快挙を達成。試験終了時にバンドメンバーが「お疲れ!」というメールをくれて嬉しかった。学校の引率で30人ぐらいで受けに行ったのがめっちゃ修学旅行っぽくて最高に楽しかった。受験後のサイゼ合流のパーティー、ホテルの大富豪、18歳なんだしみんなで1000円出してペイチャンネルを観ようとしたら学校の引率だからロックがかかってて、恥を忍んで「解除してください......」と願い出たら快く解除してくれたフロントの人には感謝しつくせないが、初めてテレビでみんなでみるAVはPCの画面で見たのよりデカくてなんかキツく、「うわあ」と思いながら解散して寝た。

次の日大分に帰り、バンドメンバーと昼飯を食べた。そしたら急に奢ってくれた。11月3日に入賞した大会の景品のQUOカードで奢ってやるよとのこと。最高やんこいつらと思った。

3月8日、無事阪大文学部に受かった。のちに開示したら20位だった。日本史は83/100で、初めて100点を逃した。まあ記述だから。

こういうのを含め、最初に書いた合格体験記的なやつに
■センター甘く見ず受けて結果出したら思いがけない上のレベルの大学が視野に入り、そこに受かることでまた安心感につながって本命に集中できるよ
■その思いがけない点数を手に入れるためにも理科や社会も大事にしようね
■塾に行かず、高3文化祭後のギア上げでも受かるよ
■とはいえ大分は田舎なので、与えられるものを盲目的に信仰せず、都会の高校生がどのように受験を戦ってくるか、いい参考書はないのか等の情報収集をやったほうがいいよ今はネットとかあるんだから
■受験は仲間があって乗り越えられる団体戦だよ、本当に。
と、いかにも公立高校の好きそうな文言を並べて寄稿したら載ってなかったんですが!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!なぜですか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!そんなんだからしょうもない高校なんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!逆にどういう内容、書き方だったら載るのか、載った人教えてください!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!文系2位だぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!文学部前期20位だぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!阪大を知らないのだろうな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1バカ高校が!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!田舎のド腐れゴミ高校が!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!九大行って教師なったやつだけ囲っとけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ボケナス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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