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2008年大分県公立高校受験記~あの頃君は若かった~

大分県別府市の公立中学から大分県大分市の公立高校を受験した記録です。ベタに県下トップを謳っている高校に合格する話ですが、ベタじゃない要素もあります。2008年入学です。言っときますけど俺は昔話しかしません。

親の転勤による引越しを2回経験しているので友達と離れたくないという思いが小4から強かったことから、中学は地元の中学一択で進学。厳しくはないけど真面目な中学で、そこで初めて「勉強する」ということを教わる。小学校の頃は勉強しようと思ってしたことなく、公文式も算盤教室的な意味合いで通っていたため、中学で経験する重いテストを経て初めて試験勉強ということをした。ただ授業で苦労はせず、そもそも教育水準の非常に低い大分県(下から4番目とか)なので授業の進度がめちゃくちゃ遅く、試験前以外に勉強することもなく、ただ放課後は部活のち家でメロンパン食いながらインターネット、休みの日は智哉直樹雄とチャリで遠くに行くか近場のTSUTAYAブックオフブックマーケットを巡って中古CDを漁りとり天を食べる生活をしていた。中2からそこにベース、バンドが加わりますね。ちなみに学内の順位は定期テストで大体1~3番、実力テストで2~5番ぐらい。実力のないガリ勉ですね。実力テストはその直前の長期休暇に課していたワークをそのまま出すことが多く、宿題をまあまあやらなかったのでその結果になったのだと思います。

中3の6月に卓球部を引退、その翌週にひいばあちゃん99歳大往生funeralがあり、7月でそろそろ受験勉強としゃれこむかと思っていたところ、入院することになる。学校健診の検尿でひっかかり、二次健診を重ねて慢性腎炎だったことが発覚。トリガーがトリガーだから心無い同級生にはそこそこいじられ(意外にもようへい)、そのまま夏休み~クリスマスまでの5か月間を入院する。この入院が勉強をするきっかけになった。というのも、21時消灯の小児科病棟だったので「さすがに受験生が21時は」という看護師さん謎の配慮のもと会議室を23時まで使っていいよとなり、同時に入院していた鶴高(つるたかじゃないよ)の2年生の人もいたため、一緒に自習をすることになった。そこから毎日2時間は一応机に向かい合う生活が始まった。夕方までは同じ病棟の小学生たちとトランプとかして遊び、21時になったら2時間新研究などに向かい合う時間は今思えばメリハリがあってよかった。伊集院光深夜の馬鹿力とかを聴いていたので、集中はできた。人生で一番勉強したのは大学受験だと思うけど、向き合っていたのは高校受験である。ちなみに美人の爆乳看護師さんに採尿された時はやばかったです。

入院のほか、学習環境の変化がもう一つあった。2学期になると入院している我々クソガキは病院併設の養護学校に通うことになった。いわゆる知的や身体ではなく病弱養護の児童生徒のみなので、負荷の低い体育(卓球やペタンクなど)が特殊なだけであとは普通の授業をする。その時の美術の変な先生にこの前地元のとんかつ屋で会った。この授業、進度の関係で俺が一人クラスで全教科一人で受けたのだが、そのおかげもあって9月ですべてのカリキュラムを終えるという爆速ぶりを発揮した。はやくおわるので10月以降は試験対策や雑談のみの授業となり、当時新卒だった社会の女性の先生に「お笑い何が好き?」ときかれ、「THE GEESEがオススメですね~」とか言ってしまっていた。まだキングオブコントもない時代です。その先生は麒麟が好きだった。この時音楽の先生が担任だったのだが、その先生が上野丘卒だったので自分もなんとなく上野丘を意識していた。

高校受験は特に苦手教科もなく、ただずっと社会がバリ強かっただけなので成績の推移を書きます。大分県は2008年入試から"全県一区制"をとっており、我々はその第一期生であった。それまでは大分というド田舎にも一応学区が存在しており、例えば隣合っているが俺の住む別府市から隣の大分市の高校に進学するのはかなりのハードルがあった。いけるけど、バイアスかかるよ、みたいな。ただ2008年入試からそれが撤廃され、公立高校は県内ならば場所の制限なく受けれるようになった。その影響で大分市の少し賢い奴らは「別のエリアから猛者が来て上野丘落ちちゃうかも」と上野丘を敬遠し、舞鶴や豊府を選択しそれらの学力の底上げとなり、逆に特攻したやつが上野に全員受かったりしてた。うちの代はたしか全員合格だったと思う。ひどい話です。豊府の賢いやつらには後々対バンで知り合うバンドマンが多く、同じ高校だったら、とか思っていた。全県一区の施策の一つとして全県模試が夏と秋の2回あり、夏の頃はまだ上野丘に行くつもりもなく、家からチャリで5分の鶴高(つるたかじゃないよ)を志望していた。当時は偏差値も61ぐらいあり、うちの中学から40人ぐらいいくし、東大も年1人出てたし。だから志望校に鶴高を書いていたのだが、確か全受験者の中で5位とかだったと思う。だから行くか~と思っていたら秋の模試となり、先述の先生の影響もあって「まあ上野丘も志望しとくか~」と書いたところ、鶴高で1位上野丘で20位となった。1位ならいく意味ね~と思いその後志望校を上野丘にあげた。親から「上野丘にいったら月の小遣い5000円にするわ」と言われていた。

そして無事退院、3学期からもとのクラスに戻ったら男子のほとんどが休み時間ずっとトイレに集まってワックスで髪を立てていて完全に最悪だった。まずは私立入試が始まり、大分の私立で一番マンモスな東明高校を受験。別府の明豊は受けなかった。東明高校に別府から受けに行く人間は限られているので、その特別感がよかった。行きの道中で「俺の父親大学浪人してる?してない?クイズ」を綿屋に出して「"してる"は回答だとしても失礼だわ」と言われた。答えはしてるです。まずは特進の試験で特1に合格して学費全額免除を勝ち取った。合格者説明会で"丘の上の高校"や"川の横の高校"と比較して現役進学率が高いことを言われたが、そもそも8限まで授業をやることや部活ができない(部活はしたくないがその自由時間がないことが決まっている)ことで絶対に行くかと思っていた。特1は大分で最も平均の学力が高いと思います。特1の連中とは通学の電車で仲良くなったりして楽しかった。

そして卒業、大分は県立高校の入試が卒業式の3日後にあるガイキチ日程。入試当日は親が車で高校まで送ってくれて、その車内でラジオからポリリズムが流れていた。楽曲の方。高校入試はおそらく高校順に願書を仕切るからほぼ同じ中学のやつらが受験教室に固まっていたが、俺の中学から受ける奴は俺含めて二人、しかももう一人は塾(能開)の他校の友達と仲良く過ごしていて、マジのガチのぼっちを決め込んでいた。数学が難しかったですね。入試が終わって一人で家に帰り、弟とスマブラをした。次の日に島村楽器に新しいベースを買いに行った。合格発表はまあ受かってるやろと思って見に行ったが、ちゃんと番号があった時は「よかった」と漏れましたね。今思えば人生で初めての試験だった。周りは親と抱き合う人もいた。

点数開示に行った時大分駅ではなく古国府駅で降り、長い坂を登りながら「この駅から通えや」と母親から言われて勘弁してくれと思ったが3年間そこから通った。野球部のマネージャーに元気よく挨拶をされた。

以上です。特に不満はないですが、高校入ったら能開出身者が130人もいたのはきつかったですね。意外と別府の人も塾行ってるんだなーと思いました。

以降は高校編に続きます。
そっちも読んでやってください。
https://note.com/torigoe26/n/nf26e3133738d

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