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10.7

 女子高生の頃、詩の全国コンクールで入賞したことがある。秘かに夢中になっていた国語教師に告白の気持ちをこめて書いた詩を、コンクールに出すよう勧められたのだ。
 放課後の教室に残され、わたしの机を挟んで座る。教師の背後から西日が指し、その顔は逆光になって表情が読めない。二人きり。それだけで、ときめいた。
―添田(そえだ)、表現したいのは、怖れだよ、な?
―はい。
―たとえば……ここだけど……「畏怖」より「震え」のほうが伝わるんじゃないか?
―……そうですか。
―ほら、この翼の比喩にも合う。どうかな?
―……。
―……それでこの行は要らない。
―……はい?
 教師はわたしの詩に自分の言葉をすべりこませようとしている。そう気がついたとき小さな興奮の火が心の奥に灯った。眉間に皺をよせ、できの悪い生徒には冷たい視線を投げるあのベテラン教師が、教壇を降りて、わたしにみみっちい悪事を吹き込もうとしている。さっきまで緊張と恥ずかしさで上げられなかった視線を教師の顔にちらっと走らせると、優しく上がった口角につりあわない真剣なまなざしが返ってきた。教師としての野心だろうか?授業では見せない彼の俗っぽさが可笑しくて浮かんでくる笑いをかみ殺す。彼にそうさせたのは、わたしの言葉、わたしの詩だ。原稿用紙に目を落としたまま、動こうとしないわたしに教師はさらに言う。
―まだ間に合うよ。提出は明日だからな。
 まだ間に合うが、よく考えるほどの時間はないということだ。わたしはペンを机から持ち上げ、わざと逡巡するふりをする。教師が好きだという気持ちは変わらないが、もう今は彼が怖くはなかった。廊下の外の遠くからたどたどしいトルコ行進曲が流れてくる。音楽室でだれがピアノを弾いているのだろう。その明るく拙い(つたない)旋律に耳を貸せるくらいに落ち着いてきていた。今、主導権を握っているのは、わたしだからだ。
―先生。
―ん?
―……そうします。直します。
 幼い頭は妄想する。全国最優秀賞受賞の知らせを聞くのも、きっとこんな放課後の教室だ。もっと遅い時間、生徒たちがほとんど帰った時間まで、わたしは教室のこの机の前で待たされる。ようやくやってきた教師は笑顔で受賞の知らせをわたしに告げる。わたしは思わず目の前の温かい腕の中へと飛び込む。抱擁の中で教師へ、好きです、と、告白するのはどうだろう。いやもしかしたら、もうすでにわたしの詩にこめた想いに気がついているのかもしれない。彼はわたしの気持ちを受け入れるだろうか?妻子を捨てて?もうすぐ副校長といわれているキャリアを捨てて?白いワイシャツはいつも肘まで乱暴にくしゃくしゃとまくられ、痩せた腕がむき出しになっている。薄い筋肉。焼けていない肌。短い爪に青いインクがにじんでいる。その青い爪で白いチョークを強く掴み、角ばった魅力的な字で黒板の端から左半分に板書する。どこか緩んだ皮膚が彼の年齢を感じさせ、上背があり姿勢の良い立ち姿は白樺の幹を思わせた。思慮深い声の抑揚。―ここは、添田、お前が読んでみろ。そういうときの語尾の響き。妄想の中でチョークのついた指がわたしのあごをつかむ。そのまま、くいっとあご先を持ち上げられると背筋が伸びて、それでもまだ遠い教師の顔に近づくためにわたしはせいいっぱいの背伸びをする。ようやく唇がゆっくりと降りてきてわたしの唇に触れる。ふたりの唇は乾いている。かさかさとこすれて痛いほどだ。性的に求めながら彼には性的な興奮から遠ざかっていて欲しいとわたしはどこかで思っている。だから舌で唾液を教師の唇にこすり付け濡らすのはわたしの役目だ。わたしは目を閉じない。授業中、蛍光灯が反射して見えないめがねの奥の瞳の光彩が、どんな風に変わるのか、しっかりと見届けたいからだ。ごく薄い褪せた茶色の瞳は教師の年齢にふさわしく落ち着いている。同級生の男子のように血走らせた目で盗み見るようにわたしを追いかけたりしない。わたしは教師の体に更にしがみつき体重を預ける。そっと下腹部を密着させて彼の硬直をたしかめる。折り目のついたスカートの薄い生地の下には、白いソックスだけの裸の下半身がある。もう長いこと制服の下に下着をつけていないことを知ったら教師はわたしを叱るだろうか。それとも褪せた茶色の瞳の奥に喜びが走るだろうか。
 受賞は最優秀賞ではなく入賞だった。授賞式には呼ばれず、受賞の報告も賞状の授与も朝礼時に全校生徒の前で行われた。地元の新聞に講評が載りひとりの審査員は「あなたは頭で考えすぎです。もっと感じて書きなさい」とわたしの詩を評して言った。今でもその言葉が時々頭に浮かぶ。大人の女になり男の首に腕を回し体重を預けるようなとき、感の良い男だけがわたしが考えていることに気付く。どこか冷静な気持ちで男を観察し頭の中で独白を繰り返していることに気付くのだ。あのときから、わたしにとって考えすぎることは、自覚したひとつの悪い癖になった。思考は感覚よりも先にやってくる。考えるより先に感じるなんて無理だ。出会ったばかりの男の唇が何も考えるなと耳元で動くとき濡れるのも、すでにわたしの頭が男の愛撫を先回りして考え始めているからなのだ。

 十二月の未明。高校時代の夢から目覚めた。洋次郎(ようじろう)と昨夜すごしたせいかもしれない。洋次郎はあの教師にどこか似ている。
三十になった年に東京の臨海部と呼ばれる場所に暮らすようになってから十年、今年は収入も減った。銀座の宝石店の販売チーフと言えば華やかなイメージをもたれがちだが、この不景気では店舗の賃貸料を稼ぐだけでも大変だ。これから年末年始にかけていろいろと物入りだというのに、今年はボーナスも全てカットされ完全な歩合制になった。電気代を惜しむうちにエアコンにはすっかり埃がたまりとても動かす気にはならない。
 壁にかけられた電波時計のデジタル表示はもう朝の六時をまわっている。ベッドに起き上がりカーテンをめくると四階の窓から見る空はまだ夜の空だった。見上げれば星がいくつか光っている。目の前の道路を行きかう車もほとんどない。臨海部というのは東京のはずれ、開発途中の埋立て地域のことだ。日中は目の前の道路を行き交うトラックが騒音を立てる。さすがにこんな早朝には車も人もほとんどいないが、波打ち際に接した公園も港も遠く、波音が聞こえるわけではない。
 空き地の間に近代的なマンションがポツリポツリと建っている。そのマンションのところどころの窓にカーテン越しの明かりが見え、どんなに静かでもここが人の住む町だと教えてくれる。あの窓にいる人は、夜通し起きていた人かわたしと同じように早朝に目覚めた人か知らない。それでも早朝の静けさと清潔な空気の中で身勝手な親密感が沸き起こり、窓を開け大きく手を振れば向こうも手を振り返してくれるような気がするから不思議だ。   
 寒さのおかげで頭が少し冴えてくる。思い切って羽毛布団を跳ね除け、冷たい床に裸足で立つ。柔らかな化繊の黒い毛布だけをスポーツタイプの白いブラとショーツの上に巻き、寒さと眠気に逆らってガス台に向かった。部屋の反対端の玄関のすぐ隣にあるのが小さなガス台と流し台だ。十五畳ほどの部屋はPタイル敷きで寝室、リビング、ダイニングを兼ねている。
 体に巻きつけた毛布はぬいぐるみのように柔らかくふかふかしているタイプのものだ。いい年をした女が大きな黒い芋虫のようになって足を小刻みに動かし歩く姿の滑稽さに笑った。ペンギンをまね、ペタペタと裸足の足音をさせる。ガス台にたどり着けば大きなステンレスの薬缶が二つ、満水で用意されている。目覚めたらすぐに湯を沸かし体を温めるのが日課だ。磨かれた薬缶の銀色の側面に女の一人暮らしの気楽なゆるさが映っている。点火する。ガスの臭いがする。部屋へと振り返り流し台に寄りかかってもう一度体に毛布を巻きつけなおす。
 少しずつ夜が明けてきたのだろう。うっすらと外が明るい。大きな無垢の木のテーブルには数日分の新聞が開かれたり畳まれたり、折り目も乱れたまま無造作に重なっている。読み終わった新聞はテーブルクロスの代わりだ。食卓に付随する団欒というものがここにはないから、クロスは要らない。実家にいたころカーテンやカーペットやらに、やたらと暖かい色柄を選んでいたことを懐かしく思う。
 新聞の上の昨夜の名残に目をとめた。飲み残しのジンで濡れた八オンスのタンブラー二つとトニックウォーターの空き瓶。食べ散らかされたチョコレートの箱が蓋も開いたままで放置されている。わたしの知らない国の鮮やかなオレンジ色のパッケージには細い茶色のリボンがかかっていた。甘い匂いに昨夜の記憶がゆすられ、膝を前後に動かし内腿をこすり合わせた。新聞の所々に洋次郎の指跡が残っている。チョコレートで汚れた指を乱暴にぬぐった跡だ。けして年令の話をしてしらけさせなかった洋次郎が、昨夜は初めて、もう年だからな、とつぶやいた。五十八歳だから何だというのだろう。付き合い始めて半年。初めて部屋に呼んだから、彼はわたしに特別なものを求めてきたのだろうか。労り(いたわり)か、慰め(なぐさめ)か。わたしと分け合ってきた性的悦楽と痛み以外のものが欲しいと?いずれにしても一度要求されてしまえば、心よりも頭が意識してしまう。それを与えるためには演じるしかない。
―いつも占いを読むように目に付いた言葉を読むの。
 昨日、部屋に迎え入れた洋次郎にテーブルの上の新聞を指し、乱雑さのいいわけの様にして言った。
―占いのかわりに?
―そう。その日、たまたま目に付いた言葉がわたしへの啓示ってわけ。
 わたしは冷凍庫からジンを取り出してジントニックを用意した。その間、洋次郎は持ってきたチョコレートのパッケージを開きながら、新聞を横目で見ていた。
―どうぞ。
 ライムの香りを添えて冷たいジントニックを渡す。暖房がないので部屋の中でも二人ともコートを着たままだ。わたしはカーキのモッズコート。洋次郎はキャメルのロングコート。洋次郎はタンブラーの縁に少し口をつけると、濃いね、とつぶやき、それから喉を三回ほど鳴らしてアルコールを一気に半分ほど体内に流し込んだ。
―乾杯は、なしなの?
―なし。体を早く温めたいんだ。
 わたしも自分のジントニックを仰ぎ体内に注ぐ。かっといつものように内臓が焼ける。ものめずらしそうにわたしの部屋を見回す洋次郎を、わたしはものめずらしそうに観る。
 タンブラーを右手に持った洋次郎の左手の指が、箱からチョコレートを器用につまみ口に運んだ。ひとつ、ふたつ、みっつ。先が細くまっすぐに伸びた長い指だ。かすかな温度にも反応してチョコレートは溶ける。乾いていた彼の指先をべたべたと汚す。
―読んでごらん。
 口を動かしている間もずっと新聞を眺めていた洋次郎が言った。彼の指先が紙面を動くのに合わせて、わたしは印刷された黒い文字を声で追った。
―心に……さびやひびわれの……ねじれを生じて……大衆迎合の末に……諧謔を弄し……対抗馬の醜聞を暴きたてよ……。何、これ。
―占い。有希子へのアドバイス。
―変なの。
―でも、こういうのが好きだろ?反抗的で強い言葉。ねじれていて、まっすぐ飛ぶ矢みたいな。
 笑った。洋次郎の唇が汚れた自分の指を舐める。その眉が少し寄せられて、わたしはチョコレートと新聞のインクの混じった指先の味を想像する。つばが、わいてきた。部屋の照明を少し暗くする。
わたしはジントニックをもう一度あおってタンブラーをテーブルに置くと彼の方を見ずに大きなソファにただ座った。無難なタータンチェックのカバーのかかったソファだ。コートもぬがず窓からの月光が落ちている場所を選んで、その光の中心に沈み込む。カバーの下は真っ赤なビロードのボディだ。もの欲しげな手触りが隠されている。このソファはここにひとりで越してきたときに男をこの部屋に呼ぶために選んだ。そして小さなベッドは男を拒むふりをするために選んだものだ。
 洋次郎はソファを回りこんでわたしの前に立つ。男を下から見上げるのが好きだ。男は頭を撫でることもある。しゃがんでわたしの腕を首に回させることもある。わたしを抱きかかえ部屋中踊ることもある。今度、父がインドネシアから帰るのは四月……。そんなことをわたしは突然思い出す。こんなに寒くても外よりはずいぶん暖かい。窓の結露がきらりと光る。軽い酔いも手伝って、わたしは薄い外壁に囲まれた体の内側と外側を意識する。思考によって暖められた内側が結露し、わたしに不釣合いなほど透明な液体が外壁の内側を濡らす。その雫は重力で滑り伝わり落ちて下腹部を濡らしはじめる。まだ洋次郎はわたしに触れてさえいないのに。彼の顔を見上げながらストッキングとショーツを一緒に脱ぎ、脚を少し開いた。洋次郎がひざまずいてその膝が床にこすれ、その指先にわたしの雫はすくわれる。濡れる洋次郎の指先。彼のわたしへの恭しい態度のせいで聖女が救いの水をさしだす光景を思い浮かべた。自分を聖女と思うなんてずうずうしい。そんな身勝手なイメージがわたしに与える愉悦を彼は知らない。

 カタカタと音がする。ステンレスの薬缶が震え、注ぎ口から蒸気が上がり始めた。湿度計はない。測ったわけでもないのに冬の乾いた部屋がみるみるうるおっていくのを感じるのは頭がそれを信じているからだ。わたしはコンロの火を二つとも止める。ペットボトルに水を入れて左手で持ち、右手で薬缶のひとつの持ち手をしっかりと掴み、かじかんだ指が熱湯をこぼしてしまわないように注意して歩いた。冬の朝は外の音がしない。一度明るくなり始めるとどんどん夜が明けてくる。床が時々ミシリと鳴る。
 薬缶と水をテーブルに置くと窓辺のベッドの下から足湯用のステンレスの盥(たらい)を片手で引き出した。熱湯と水を注ぐ。細く長い温度計を使い四十二度にする。冷え切った朝の肌では感覚だけで温度を測ることができないからだ。部屋の中を往復し薬缶をコンロに戻しに行く。もう一度盥に戻ってくるまでに更に足は冷えている。
 ダイニングの椅子をひとつ窓の外が見える場所に置きその前に盥を置いた。カーテンを開く。腰掛けて膝が出るまで毛布をめくる。儀式のように神妙に左足から盥に足を漬けた。思わず、ううっ、と、うなる。思い切って両足を揃えて入れると踝(くるぶし)のだいぶ上までが湯に漬かる。潮の香りが立ち上ってくる。沸かすのは真水ではなく海水だからだ。遊覧船の泊まる小さな桟橋からロープをつけたペットボトルを降ろし汲んできた海水だ。冷え切った足の内側で凍えていた血が血管を押し広げ、しびれて痛いほどだ。自分の足が自分の足でないような感覚を味わう。体の一部が充血し自分から離れてあるような感覚は、器用な男たちが時々わたしにもたらすものだ。昨日、洋次郎がチョコレート色の指でさぐり甘い舌で舐めコートを着たまま不自然な格好で入ってきたわたしの内側が、こすれ充血し特別熱を持ち、冷えたうなじや額から遠くあった。性的な快感と同じように、温かさが体の一部からゆっくりと全身に伝わっていく。木々が雨上がりの土から水を吸うとき、こんな快感がその身に走るのかもしれない。第一指から第五指まで大きく開いてはまた閉じる。冷えているとき薬指と中指はなかなか離れない。気がつくと静かな水面は踝の上三センチにある。偶然にもそこは洋次郎がわたしを開くためにいつも掴む場所だ。

 隣の部屋に向かい、ドアの外で匡(ただし)を呼んだ。
―匡、起きてる?
―……うん。起きてる。
―もう良いよ。
 わたしは自分の部屋へ戻る。鍵はかけない。十五分程度の足湯で全身がほかほかとしてる。盥の湯の温度をもう一度測り、お湯を足す。十分もしないうちにドアが開き、電動車椅子の音をさせて匡が部屋に入ってきた。
―有希子、おはよう。
―おはよう。お湯の用意できてるよ。
匡は笑う。髪に寝癖がついている。もう三十五歳なのに、いつまでたっても幼く見える。お気に入りの青いパジャマだ。わたしとおそろいの黒い毛布を膝にかけ車椅子の上で白い歯を見せる。ジョイスティックを操作し慣れた様子で窓際の盥のところまでやってくる。わたしは膝の毛布ごと匡を抱きかかえ、車椅子からさっきまでわたしが座っていたダイニングの椅子に移す。電動車椅子を濡らさないためだ。
―寒いね。
―ほんとね。さあ、匡、足を出して。
 匡が毛布をめくると痩せた細い足が並んでいる。パジャマがぶかぶかだ。下着と一緒にパジャマのズボンを脱がしてしまう。匡の足を持つと、後はそっと湯の中に脚を浸すだけだ。
 わたしと同じように、匡も、うっ、と声を出す。気持ちよさそうだ。わたしはしゃがんだまま体に巻いていた毛布を取り肩からはおる。こうしないと匡の脚をさすりにくい。
 匡の足の指の一本一本をさする。病気で萎縮した脚は立つことはできなくても感じることはできるのだ。ふくらはぎから膝裏、太ももと両手で匡の脚をなで上げていく。そんなことをしなくとも脚は温まるけれども、わたしはそうせずにはいられない。匡の顔を見ると目を閉じて、ただ気持ちよさに身をゆだねているようだ。ごめん、と言って射精してしまうことも多い。そんなときわたしは精液を手のひらか口で受け止める。ありがとう、お姉(ねえ)さん、と、彼は言う。そのときだけ匡はなぜかわたしを有希子と呼ばず、お姉さん、と呼ぶのだ。
―じゃ、車、借りるね。
―しょうがないな。壊さないでね。
 わたしはスポーツウェアに着替え、ダウンジャケットをはおって匡の電動車椅子に座る。ジョイスティックを操作しエレベーターで外に出た。四階の部屋の窓から匡が足湯に漬かりわたしを見ているはずだ。海に向かい徐々にスピードを上げていく。犬を連れた男が通り過ぎるわたしを目を見張って追った。
―おはようございます。
―おはようございます。
 顔見知りの人もいる。彼らはわたしが歩けないと思っている。危ないわよ、気をつけて、と毎朝声を掛けてくれる老人もいる。スリルと背徳感がわたしの思考力を奪い、単純に楽しい。
 わたしは体の力を抜く。道の凹凸に身を任せる。視覚情報をめいっぱい使いながらジョイスティックをさらに倒す。最高速度は六キロ。せいぜい早足程度だ。そんなわたしに海からの風が吹きつける。かなりの強風だ。船首につけられた女神のように髪が後ろになびいていく。飛んできた落ち葉が顔に当たり、つぶりかけた目を細く開くと、ようやく水平線が見えてくる。潮の匂いが強くなると同時に、道はゆるい下り坂にさしかかる。車いすごと体が持ちあげられるような感覚だ。
―匡、誕生日に何が欲しい?
―浮力
―右翼?右の翼?
―違うよ、浮力、だよ。
 あの時、聞き違えた浮力を得て、わたしの気持ちが声になる。
―正しい彼の望み
 欲しいのは右翼の浮力
 わたし、空を夢見、愛しい明日は左翼で助力

 へたくそだな、と匡なら言うだろう。
 スピードは増す。目の前のシーンひとつひとつを突き破り、世界に受け入れられ世界を受け入れるしかない。歯が乾き唇がうまく閉じなくなって、わたしは気付く。
わたしは、笑っている。           了。


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