感情が顔に出るのは悪いことなのか?
こんにちは、とりコレクターです。
今回は、「感情が顔に出ちゃう」ってなんだかネガティブに言われがちだけど、本当にそうなのか?というお話をさせていただきたいと思います。
先日、知人が上司であるポメさんに「非難された」と思った話の続き。
知人はポメさんに、「〇〇さん(知人)はムッとするのが顔に出る」と指摘され、「痛いところをつかれた」と思っていた。
(ちなみに「感情が顔に出る」って言うときの「感情」ってどうしてデフォルトで「怒り」や「嫌悪」ばっかりなんでしょうね?)
そこでまた、横になってテレビ観てるくらいのゆるさで、とりコレが思ったこと。
「感情が顔に出るって、ダメなことなんですかね?」
というのも、これまたわたしは過去の自分を知人に投影していました。
上記のセリフは、わたし自身が別の人に言われたことの受け売り。
以前のわたしは、「感情的になってしまう = 大人げない = 恥」という方程式のもと生きていました。
だから、自分のコダワリあることを否定された(と感じた)り、わたしという人間を否定された(と感じた)ら、あからさまにムッとしてしまう自分が情けなかった。そんな自分に自責の嵐。
しかし、上記のセリフを言われて思ったのです。
確かに、別に感情が出てもいいよね、と。
聖人君子にはなれないし、なろうとしないほうがいいし、と。
そして実際、感情の波が激しかった昔の上司(見た目はおじさん、中身は結構コドモ)のことを思い出したりしながら、
「感情が出る = ホンネが見える = 安心」
みたいな図式もあったなぁ、と思ったりしたのです。
逆にわたしは、「いつもニコニコ温厚に見えるけど、なんか何考えてるかわかんなくて怖い」と思う人のほうが苦手だったりします。
笑顔の裏になんかちがうものがある、と感じるときって、あからさまに怒っている人と相対するよりぞっとする。と思うのはわたしだけでしょうか…
わたし自身、結構うっかり者なのに、周りにはしっかり者に見られるし、緊張してても「全然そう見えない!」と言われるタイプ。
また、くるくる表情が変わるというよりは、一定の気分を保っているように見られがち。
そんなわたしの感情が垣間見えたら、むしろ「あ、ちゃんと人間なんだ」と思ってもらえるのではないだろうか。
少なくとも、逆の立場だったらわたしはそう思う。
そしてこれを書きながらつくづく思うのは、個々の感情そのものに固定的な価値がある(たとえば「怒り」=悪、みたいな)わけではなく、感情に名前付けや色付けをするのはあくまで自分の主観なのだな、と。
そう考えたら、「愚の骨頂」だった感情の表出は、「自己開示の手段」に、そしてその先の「相互理解の手段」にすら、生まれ変わるのではないか。
(もちろん、感情を「出し」たのか「ぶつけて攻撃し」たのかは、内容・程度や受け取り手によっても変わるでしょうが、そこも含めて相互理解のチャンスではないでしょうか)
少なくともわたしはこう考え始めてから、感情が表出した自分もそのまま受け入れられるようになってきました。そしてそうなるとすごく楽。
自分が「ダメだ、ダメだ!」と自分自身から減点しまくっていることが、
見方を変えてみればプラスで加点しちゃうようなことだって、あるかもしれない。
というか、感情が出ても出なくても、どっちもありでいいじゃない。(無点主義)
というお話でした!
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました🎵
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