【小説】苦悩の人
目が覚めると、目の前には女が一人。
「おはようございます。あなたは選ばれたのです」
俺はてんで意味が分からず、「選ばれた?」と間の抜けた声で繰り返す。
「そうでございます。あなたは選ばれたのです」
「選ばれたとは何にですか。そもそもここはどこなのですか。俺は確かに昨日、自分の部屋で自分のベットの上で瞼を閉じたはずなのですが」
「あなたは選ばれたのです。あなたはただ、それを受けいれるだけでよいのです」
女は頑強に繰り返す。その頑強さは岩のようだった。
「受けいれてください」
岩は、鈴の音色のような美しい声色でそう言った。俺も岩になる。何が何だかわからないので押し黙って時が流れるのを待つ。
どこまでも白が広がる空間に岩が二つ。
永遠のような時間が過ぎた。女はまた口を開く。
「あなたは選ばれたのです。なぜそれがわからぬのですか」
「わからないわけではありません。ただ『何に』選ばれたのか、それだけを教えていただきたいのです」
どうやら根気比べでは俺が勝ったようだった。女は急に口ごもりながらもごもごと声にならない声を舌先で転がしている。
「さあ、教えてください。私は何に選ばれたのですか。教えてください」
「―――――――――ス……」
「ス?」
「――――――――――――レース……」
「レース?」
「『変態女神百柱から逃げきれ! 捕まったら即昇天イキまくり! 二十四時間ハイハイ耐久レース♡』の男優です!」
俺は耳を疑った。『変態女神百柱から逃げきれ! 捕まったら即昇天イキまくり! 二十四時間ハイハイ耐久レース♡』? 単語一つ一つの意味は分かるのに、ひと固まりになるとまったく意味が分からなくなっている。
「まあ、もうこうなった以上すべてをお話いたします。単刀直入に言うと、あなたは死んだのです。死んで、ここ天界へと召されてきたのです」
混乱する俺に向かって、女は淡々とそう告げた。わあ、ものすっごく哀れんだような目をしてるなあ。
「わたしたちどもが住んでいる天界は一昔前は神聖で清純な世界だったのです。しかし、数年前、とあるAV監督が天界の住人となり、そこからタガが外れたかのように、天界は一大AVブームに包まれたのです」
「あのー、天界と天国って何か違いがあるのですか?」
「いい質問ですね。お察しのとおり、天国と天界は別物となっています。あなたは特に毒にも薬にもならない、平坦で平凡で無味乾燥な人生を送ってはいましたが、罪を犯したわけだはないので通常ならば死後は天国へと召されていくこととなります。しかし我々のような神の使いや神、そして人間界で特別な功徳を積んだものは天国よりも一段高いステージ、すなわち天界に居住することができるのです。普通の一般住宅が天国、高級タワマンが天界というように思ってもらえればおおむね大丈夫です」
「そんなタワマン住人の最大の娯楽がAVで、俺は強制的に人生終わらされてそんなトンチキAVの男優としてタワマン住人たちの見世物になるってことですか」
「飲み込みが早くて助かります。全く、その通りです」
女は悪びれもせずにそういうと、足元の袋からがさがさと小包を取り出した。
「申し訳ありませんが時間がないので早く着替えてください」
「これは?」
「ブリーフです。あと、本番ではこのおしゃぶりも咥えてくださいね」
あまりにも淡々とした女の物言いに、俺はだんだんと腹が立ってきた。俺は小包を受け取ると、女に向かって投げつけた。
「やるわけないだろう! 勝手に人生終わらされて、挙句AV男優になれだあ? 納得できると思うかこんなもん!」
「怒るのもわかります。でも、直々のご指名なもので……」
「ご指名だろうが何だろうが、こっちは承諾もなく殺されてんだよ! 早く戻してくれよ! 戻せやこの野郎!」
「戻せるわけないでしょ、今更!」
さっき投げつけたはずの小包が俺の顔面にクリーンヒットする。視界がぼんやりと戻ってくると、そこには鬼のような形相をした女が立っていた。
「こっちだって、こんな仕事したくないんですよ! せっかく努力に努力を重ねて神の使いになったっていうのに、やっと回ってきた仕事がAV男優のスカウト⁉ 挙句の果てに変態女神役が足らないからってわたしまでAVに出ることになったんですよ! やってられるわけないじゃないですか! これでうまくいかなかったらこっちのボーナス査定に響くんですよ! お願いだからおとなしくおしゃぶり咥えてハイハイしながら変態女神から逃げまどってください!」
「だからってそんなすぐには決められるわけないだろ!」
「じゃあ、わかりましたよ! 何とかしてあなただけは逃がします! 生き返らせることはできませんが、天国でなんとか暮らしていけるようにはできるはずです。本当にこんなことに巻き込んで……、ごめんなさい」
女は泣いていた。これまでに淡々とした態度はどこかへすっ飛んでいったようで、顔をくしゃくしゃにしながらぼろぼろと涙を流している。
俺は一つ深呼吸をすると、シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ――。
泣きはらした目を丸くしている女を横目に、俺はブリーフを履きおしゃぶりを咥える。
「さふぁ、ふぁんないひぃへふれ。ほほはへひふぁらひゃっへひゃるほ」
「ほ、ほんとにいいんですか?」
「ふぃふぃんふぁふぉれふぁ、ふぉんふぁほふぁみふぁふぁふぃふぁくふぁいんふぁ」
「わかりました。じゃあ、わたしについてきてください。あ、ハイハイはまだしなくて結構です」
◇
あれから十年が経った。
「はーい! オッケー! これで今日の撮影は終了です! お疲れさまでしたあ!」
現場内の監督の声が響き渡る。俺は渡されたバスローブを羽織り、水を口へ運ぶ。
「いやー、今日も良かったよお! さすが、天界一の男優だな!」
「そんなことないですよ。俺なんてまだまだですから」
あの日から俺は第二の人生を歩み始めた。平凡で平坦で無味乾燥だった人間界のころとは真逆の道で俺は苦悩と苦労を重ねていった。そして周りの天界の住人はそんな俺のことを心の底から見下していた。それもそうだ。死んで天国に来れたはずなのに、見ようによっては地獄のような苦しみを自分の選択で己に課していたのだから。
しかし俺は自らの身体に鞭打ち、折れそうになる心を鼓舞し続けた。己のため、そして「あの子」のために。
「おおそうだ、これから打ち上げがあるんだ。お前さんも参加したらいいじゃあねえか」
「ああ、すみません、今日も遠慮させてください。妻が家で帰りを待っているんです」
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