社会と物語、存在と寂しさ

2023年4月30日 改訂

物語序論

 人間は、特定の物語を信仰することで、この空っぽの世界に価値体系を構築して生きている。例えば、イスラム教という物語を信仰すれば、一日五回メッカの方角に向かって祈るという行為に価値が付与されるし、現代の日本社会において家族という物語を信仰すれば、特定の人間と愛し合って子供を産んで育てるという行為に価値が付与される。そしてコミュニケーションとは、互いが共通する物語のなかのキャラクターであることを相互に認め合い、それを定期的に確認し合う行為全般のことを指す。

 さて、物語という概念を主体に据えて、その構造について考えていくと、物語にはキャラクターがいて、キャラクターが何らかの行為をし、行為に基いて責任を取らされたり報奨を受けたりする といった具合に世界が見えてくるのではないだろうか。これはある意味では正しいのだが、倒錯したものの見方でもある。
 そもそも、この世界には本来現象しかなく、その中で帰属先を定められるよう恣意的・操作的に選ばれた現象の集合から行為が構成され、行為の帰属先として主体が構成されるというのが正確な順序である。すなわち物語は、行為の帰属先を作り出し、決定するシステムだと言って差し支えない。そしてこの、行為の帰属先として物語によって作られた主体のことを、私たちはキャラクターと呼ぶのである。

 これまで、キャラクターは行為の帰属先として作られるということを主張してきたが、これは、社会の中に存在する無数の行為のうち、どのような行為を所有するかによってキャラクターが特徴・定義付けられていることを意味する。一般的に、アイデンティティというのはそのキャラクターが所有する性質(例えば、その人の人種、その人の性別、その人の性格……等)によって構成されると考えられている。だが、根源的に考えていくと、キャラクターの性質というのは(ものによるが)、キャラクターがそれまでに行ってきた(あるいは行わなかった)無数の行為から帰納的にあぶり出される概念でもある。したがって、究極的には、アイデンティティはそのキャラクターの所有する行為(例えば、その人種らしさを構成する行為、その性別らしさを構成する行為、その性格らしさを構成する行為……等)によって構成され、そのキャラクターがそのキャラクターたらしめられていると言えるだろう。(もちろん、行為に依らない性質が存在しないというわけではない。)

 物語が、行為に価値を付与するということは、最初に主張した通りである。そして、物語の中で価値を付与された行為を充分に得ることの出来たキャラクターは、それらの行為の組と対応した何らかの地位を手にする。すなわち、物語はキャラクターに地位を付与するシステムでもあるのだ。キャラクターは、物語のなかで望んだ地位を得るために(例えば、自己実現という物語が跋扈するこの現代社会なら、”なりたい自分”になるためなどと言えるだろう)、単純に行為を成そうとする。身近な具体例を挙げるなら、お金を多く稼ぐとか、結婚するとか、良い作品を残す等である。あるいは、もっと事態が複雑な場合、他のキャラクターから行為を争奪しようとすることもある。そのような行為の争奪は、一般的に”政治”と呼ばれている。そしてこれらの、キャラクターが行為を得るための戦いは、文字通り雄弁に物語られるのである。

なぜ社会に属することは苦しいのか?

 社会には、その社会の中で正しい(あるいはその裏返しとして間違っている)と信仰される命題が大量にある。この命題に対する「正しい/間違っている」の紐付けは、それら命題の元となる行為に対する価値付けと対応する。
 例えば、ある宗教社会において「毎朝太陽が登る方向に祈る」という行為に価値が付与されることと、「毎朝太陽が登る方向に祈ることは良いことだ」という命題が正しいとされるメカニズムは同一のものである。そして、これらの命題はそれぞれ独立にただ真/偽とされているわけではなく、これらを大きく体系的に説明する理論が社会の背景にあり、それが物語と呼ばれるものの正体だ。
 例えば、「毎朝太陽が登る方向に祈ることは良いことだ」という命題が真であるとして、なぜそうなのかを説明する神話や聖典などが、その宗教社会における物語にあたる。こういった具合に、物語がたくさんの命題を体系的に説明し、また命題が物語の根拠として再参照されるという構造がある。

 社会に属する人間は、その社会に対応する物語に属するキャラクターとして行為する。人間がキャラクターとして行為するとき、その行為は命題を参照する形で他者に説明され、また物語を構成する根拠として再参照される。
 例えば、先の例で言うと、ある人が朝、太陽が登る方向に手を合わせてモゴモゴ呟くという行為を、その宗教社会の人は、「毎朝太陽が登る方向に祈ることは良いことだ」という命題に基づいて説明する。そして例えば、「あの人は毎朝きちんと太陽に向かって祈っていたから、良い伴侶を見つけられたんだ」といった具合に、行為が物語の根拠として再参照される。そして、このような行為の説明と再参照の連続の、最も長く連なった状態を、私たちは一本の線としての人生(自分史)として認識する。

 物語がキャラクターの行為を説明するということは、人間は、他者の属している物語に参加することで、始めて他者から状態や行為を解釈してもらえるということでもある。他者と物語を共有できないと、行為や状態を解釈してもらえず、異物として疎外される。それは社会的に存在が受容されないのと同じことだ。物語は私たちがキャラクターである限りは、社会内での安定した存在の基盤を提供してくれる。だから私たちはキャラクターであることを辞めることができない。
 私たちが社会、すなわち他者の物語に属するとき、私たちの行為は物語を補強する手段として消費されてしまう。これは、私たちが、自分を支配しときに苦しめる物語を、自身の行為で再生産しているということでもある。このようなサイクルは自己強化していく性質があり、物語は私たちとって外的なものになっていく。物語は巨大な壁で、個人は卵である。

なぜ人はネガティブなタームで自分を物語るのか?

 物語から行為の価値体系が生み出されるということは、物語が行為に価値を付与する場合だけでなく、反-価値を付与する場合もあると考えるのが当然である。また、どのような行為を所有するかによってキャラクターが特徴・定義付けられているという主張は、裏を返せば、どのような行為を所有しないか(行為の不在)によってもキャラクターが特徴・定義付けられているということである。このような、反-価値、行為の不在という、価値、行為に対する裏の側面から物語という概念を見ることもできる。
 例えば、非モテ、非リア充、陰キャ、オタク、KKO(キモくて金のないオッサン)、メンヘラ、アスペ、ADHD等といったネガティブなターム(※補足:オタクやアスペやADHDは中立的な語彙であると主張する人もいるかもしれないし、私自身もそうであって欲しいと考えているが、社会ではこれらの語彙は長い間ネガティブかつ差別的に”使われてきた”と私は考えている)が自身を物語るキーワードとして流行るのは、そのタームを使って自分語りをするキャラクターの所有する行為の反-価値性や、行為の所有不可能性(例えば、私は〇〇ができない といったこと)によって、それらのタームが機能しているからに他ならない。そして、それらのタームで他者と物語を共有することで、反-価値的な行為や不能やそれらの帰属者が他者(ひいては社会)から始めて解釈され、地位(それは下層であることがほとんどだが)を与えられ、社会内に存在することを認められる。すなわち、これらのネガティブなタームは、本来的に語りや存在を拒まれやすい反-価値的な行為や不能やそれらの帰属者を、社会に内包する力があるということだ。
 また、このようなタームは、人口に膾炙していくにつれ意味が拡大して定義が緩くなっていく(例えば、非リア充というタームが生まれた、2chの大学生活板での原義は、”友人が一人もいない人”だった)現象がよく見られるが、これは、物語(つまりは社会)に参加したい個人各々が行為の争奪(すなわち政治)をする過程で、タームの意味そのものが争奪された結果起こる現象とも考えられる。

ネガティブなタームで自分を物語ることの苦しみ

 多くの人々は、ポジティブなタームで自分を物語りたくても、それを語るに足るだけの価値ある行為を所有することができない。そうであっても、社会に存在したいという欲求(それは、強迫的とも言える自分語りへの欲求となって現れる)を満たさなければならないため、多くの人々はネガティブなタームで自身を物語ることを選択する。ネガティブなタームで自身を物語るということは、自身を貶めることで自身を社会内に存在させるということでもある。そのように語ることによって、人はその人を貶める社会構造をその人自身で強化する。自身を支配し貶める物語を、自身の行為によって再生産し、自身が語ったはずの物語が、自身とって敵対的なものになっていく。

集団幻覚としての物語

 物語は強固な集団幻覚としての性質を持つ。例えば人が「現実を見なさい」などと他者を諭すとき、多くの場合は、「私たちと同じ集団幻覚を見なさい」と諭しているのである。これが同調圧力と呼ばれるものの正体であり、これは先に上げたコミュニケーションの定義(コミュニケーション:互いが共通する物語のなかのキャラクターであることを相互に認め合うこと)に照らせば、「あなたとコミュニケーションが取りたいです」と言っているのと同じことでなのである。

人類は寂しい

 これまでに考察したことをまとめると、同じ物語を共有する集団(すなわち同じ現実を見る集団)が、社会の構成単位だということが言える。人は社会に参加・存在するために物語り、お互いにそれを認め合うためにコミュニケーションを取る。この存在の相互認証のネットワークに入り、それを拡大させたいという欲求が人類の社会性の正体であり、我々の根源的な存在欲求とコミュニケーションは物語を介して分かちがたく結びついている。すなわち、人類は根源的に寂しがりであると言える。


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