白い人
白い人・黄色い人 (新潮文庫) 文庫 – 1960/3/17
遠藤周作著
遠藤周作の『白い人』を読み、情熱に打たれ、そうして打つ打たれることによって発生するシンプルな情熱というものがあると知った。
シンプルとは、生理的であるということだ。
自身の経験によらず信じられるものは色々とあるが、生理的なものというのはそのうちにあるだろう。
同じ人の身体を持つものは誰でも、打つもしくは打たれることによってある種の情熱が起こるのだ。
体罰を肯定する人々のあの自信はおそらく、シンプルな情熱に裏打ちされている。
打つものが打つことによってその身に沸き上がる情熱を愛だと信ずると同時に、打たれるものは打たれることによって身に起こる情熱を愛と信ずる。
それが繰り返されて、支配・被支配という共依存の関係が出来上がる。
情熱を愛と呼ぶ人は困難を好む。
困難の最中(さなか)でなければ生きているという心地がしないために、普通の人が幸せだと思うような状態に置かれると、「このままではだめだ」と自ら困難の道を選び、進む。
困難がなければ殴ってでもそれを作り出す。
野島伸二の『一つ屋根の下』の世界である。
あんちゃん、そこでマラソンする必要はあるのかい?
さて。
母性のおおよそは物語と、シンプルな情熱とでできていると思う。
産んだ女の気が違ったような情熱は、いずれ冷める―冷めたと感じるようなら、たがが外れて馬鹿になっていたということだ。
産んだ女の情熱が消えかかった頃と、子どもの自我が芽生えるのが重なるならば、まさに殴る潮時といえようか。
思い通りにならないという混乱で泣き喚く子どもを強く打つ。
ちょっと叩いたくらいではますます泣くだけでも、息が止まるくらい強く打てば、痛みによって子どもは正気に戻り、恐怖で泣くのを止める。
打った女は打つことによって起こるシンプルな情熱と恍惚と罪悪感がごちゃまぜになって、子どもに対する感情が高まり、かつての情熱が蘇ったように感じる。
女はごめんねといいながら子どもを抱きしめる。
子どももごめんねといいながら女に抱きつく。
という想像に吐き気がした。