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人妻属性

ゲストに平沢たゆ/たゆ・たうひとさんをお迎えしてお送りいたします。

「たゆ・たうひと」さんでは、日常を含め多彩な記事が見られます。
「平沢たゆ」さんではその中から連載小説『オスカルな女たち』のまとめを中心に、短編小説、詩、エッセイなどをピックアップされていらっしゃいます。

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(前略)発表当時、著者に「子宮作家」のレッテルが貼られ、以後、長く文壇的沈黙を余儀なくされた表題作(後略)
瀬戸内寂聴著『花芯』、講談文庫 (2005/2/15)、裏表紙・内容紹介より

Wikipediaによると『花芯』の発表は1958年だそうです。
今もなおヌケるようなものを(個人の感想です)、当時において女性が書いてみせたというだけでも、文壇を含めた世間のざわめきといったら相当なものだったでしょう。
しかし、ヌケるとかそういうのはアリバイみたいなもので、「人々を怖がらせた」ことにこそ「文壇的沈黙を余儀なくされた」理由があるとも、容易に想像されます。

『花芯』から脈々と連なる瀬戸内寂聴の文学のテーマには「プラトニックラブ」があると、私は思っています。
作家として書いても書いても昇華できない業の深さを抱えて得度してもなお尽きることのない情熱で、1991年4月にイラクへ訪問し、源氏物語を現代語訳し、脱原発を求めてハンガーストライキを行い、関係を持った男たちはみんな見送ったわとのたまい、ご長命・・・超人でいらっしゃいます。
その超人的な情熱が一人の男性に注がれた場合、相手は受け容れることもお返しすることもできずに溺れ、潰れてしまいますから、瀬戸内寂聴の愛は、どう頑張っても交換の叶わない、自己完結に成らざるを得ないのです。
という意味で「プラトニックラブ」である。
以上、全くの個人的見解ですが。

そんな瀬戸内寂聴の書いた『花芯』に、「人を怖がらせよう」とする意図は無かったのでしょう。
しかし、意図、ましてや悪意などなかったからこそあけすけに女の腹の一物二物を晒してしまい、人に恐怖を与え、また「見せびらかして嗤っている」と受け取り嫌悪した人もいたと、信じて疑いません。
何故なら、『花芯』により私自身が、女を見せびらかして嗤う快感を得て、かつ、そんな自分に対する強い嫌悪を感じたからです。

瀬戸内寂聴はその天真爛漫も超人でいらっしゃる所以だと思います。

『花芯』を初めて読んだのは二十歳の時だったと記憶しています。
そして三十代に入った頃、『花芯』と同様の快感と嫌悪の印象を松井冬子の日本画『浄相の持続』に見ました。

松井冬子は『浄相の持続』について以下のように語っているそうです。

「季節や生息地を無視して花々が豊かに咲き誇る中、全裸で横たわる女は自ら腹を切り裂き、赤や群青の心臓や胃や内臓各部、赤子のいる子宮がこぼれだしている」
松井冬子の博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」より引用
美術手帖 2008年 01月号、美術出版社、2007年、50p

『浄相の持続』の画像を見ても大丈夫そうな方は以下クリックをどうぞ。

女は、こちらを向いて微笑んで・・・嗤っています。
比喩ではなく、女の腹の一物二物がぱっくりです。

同じく美術手帖より、松井冬子の博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」に触れた松井みどりによるインタビューでは

論文では、芸術における痛覚の表われ方を三つのパターンに分けて論理的に分析されています。(中略)第一の「攻撃性自己顕示実践型」の芸術表現として、《地獄草紙》(平安時代)、河鍋暁斎、チャップマン兄弟、デミアン・ハーストなどを挙げておられます。また、ご自身の作品でも《浄相の持続》を同じタイプの作品とカテゴライズされていますね。
美術手帖 2008年 01月号、美術出版社、2007年、32p

とあります。
松井冬子ご本人が『浄相の持続』を「攻撃性自己顕示実践型」とカテゴライズされているということは、『浄相の持続』においては見る人を攻撃せんという意図を持ち、女は自らの腹の一物二物を見せびらかしていると解釈してよろしいかと存じます。

気持ちいいけれど、そういうのに気持ちよがっている自分ってどうなのよと思う感想については、繰り返しになりますが『花芯』と同様でございます。

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瀬戸内寂聴や松井冬子ほどの業の深さはないにせよ、沢山の女が共感する腹の一物二物があるからこそ、お二人には数多くの女性ファンがいて、私もその一人です。

さて、自分が書き手となったとき、「女の腹の一物二物を見せびらかして気持ちよがる傾向」は、確かに私にあります。
しかし「相手がギョッとしたのを、しめしめクスリと笑う」くらいでしたら望むところですが(笑うんかいっ!)、読む人をマジで怖がらせたり、攻撃したり、書いた私や作品に嫌悪を持たれて引かれたりは、したくありません。

でもやっぱり見せびらかしたい、そういうヘンタイ。

殿方を敵に回すつもりもとんとありませんが、十数年前に書いていたブログで、そう思われたらしき件もありました。
意図せずして、女性からは支持を受け、男性にはケンカを売ったのでした。

noteでは同じことを繰り返したくないと思いました。
いい年でもありますし、特にわざわざ「女」をネタとしたときに「私は純粋無垢なので、素直に正直に晒しただけで、意図を持ち表現することは致しておりません」なんて言い訳は無しにしたい所存です。

では、いかに致しましょうかと思案していた折に出会ったのが、たゆ様の小説『壊れる時』でした。

『壊れる時』の語り手は、女です。
腹の一物二物が表されているからこそ、まさにむんむんと女だと感じます。
なのに、これはっ…「アリ」っっ!!と思ったのです。

どうしてだろうと考えたとき、まず気付いたのはたゆ様の作品に溢れる「ユーモア」です。
次に、「ユーモア」とかぶりますが、ゆるさ、ゆとり、大らかさ、包容力といったものでした。
コメント欄より、おそらくたゆ様は『壊れる時』をご自身の作品としては攻撃的な方と感じられていると推測しました。
それにも関わらず、いや、だからこそか、たゆ様の作品と切っても切れず、どうあってもそこに在る、女らしさとユーモア、女の強さと矛盾しない可愛げ。
『壊れる時』であってさえも「人妻」っぽいと感じ、理想的なスタンスと思われました。

既婚女性が全員「人妻」っぽいかといえばそうでもなく、また、独身であっても、お若くても、ユーモアと包容力が「人妻っぽい」女性はいます。
「水商売っぽい」と評されることも多いかと思います。
私は結婚して以降リアルでは「水商売っぽい」雰囲気と言われるようになりましたが、思い返すと、その頃「書いたもの」にはユーモアの欠片もありませんでした。
しかしブランクを経て昨年よりnoteで書いていますが、いつの間にか、ユーモアがあるとおっしゃっていただけるようになり、ありがたい限りです。
私にも人妻路線はいけるんじゃないかしら、そうだ、人妻に行こう♪と、属性を高めるべく、昨年12月よりプロフィールで自ら「人妻」を名乗っております。

たゆ様、どうもありがとうございました!
ちょっとパクリました。

お世話になったたゆ様の作品の人妻っぷりが存分に楽しめるマガジン妄想家族より、思春期のお嬢さん vs 娘と仲良くしたい父親 & 見守りつつも妻の座を主張する奥様の三つ巴?が楽しめる三編はこちらです。

お仕事からの帰り途、バス停でJKの娘と同じ列に並ぶことになったお父様はどうされたか、どうするべきだったのか?!

お腹を抱えて笑った後のオチとして、先日、以下のストーリーがアップされ驚きました。
通称月刊『ネムキリスペクト』、正式名称 眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー第23週『駅』 への参加作品です。

お父様、お見それいたしました!
お嬢さまは愛されており、家族は一つです。

そして、たゆ様といえば、連載小説『オスカルな女たち』です。
最初から読むのも良いけれど、差し支えない程度に美味しいところも先取りしたい派の方にオススメしたい、アダルトで愉快でたゆ様なワールドが堪能できる一編はこちらです。

大人って愉しいですねっ。

『オスカルな女たち』の主人公は、四人のアラフォー女性たち。
お嬢様学校と名高い女子高で、かつて『○○のオスカル』とのあだ名を戴きもてはやされた彼女たちが、第二の思春期と呼ばれる世代を迎えた頃の物語です。
みんなの憧れだったオスカルたちが、気が付けば共感の的に。
四人のうち、前出の玲(あきら)は一番幸せそうに見えます。
私が最もハラハラし、続きが気になり仕方がないのは織 瀬(おりせ)です。

やはり差し支えがないというか第一話、織 瀬(おりせ)回はこちらです。

あ〜~切ない。
織 瀬(おりせ)には幸せになってもらいたい。

続きが気になる方は、章ごとのまとめ読みが可能なこちらのマガジンへ。
プロローグ、人物紹介編、『オスカルな女たち』が画として立ち上がった経緯と興奮等も楽しめます♥



読み終わってしまい、もっと早く続きをっ…という方は、以下で小出し連載を追うことができます。



『オスカルな女たち』コメント欄の「女の園感」も愉しんでおりますが、男性のコメントも聞いてみたくあります。
勇者かっ?!勇者かな。


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