amemiya
いつ、どこで、なにをもって大人になったのだろう。という物語を考える。例えば、靴が濡れるのを気にするようになったときかもしれないと。
子どもの頃、雨を見てとれば傘をさして出かけたが、まだ滴り落ちるまえ、空気や空がはらむ雨の匂いを察しても傘は持たなかった。かえり道、雨の真ただ中に出ることを厭わなかった。むしろ好んだ。小雨はもちろん、大粒のあたたかい雨にも打たれた。 ぐちゅぐちゅと靴を踏み楽しんだ。見知らぬ女性に心配された。女の子なのだからと、注意を受けた。びしょ濡れの女の子は、平気だったり、ましてや気持ちよかったりしてはいけないと覚えた。
地元の中学校に通った三年間は、運動靴の着用がきまりになっていた。肉厚にすっぽりと覆われた足は、隠すこと、抑えることを強いられているようで息苦しかった。きゅうくつなのに、ぼってりとふくらんで見えて、みっともなかった。高校生になり、ローファーに履き替えた足は軽かった。薄い靴に薄い甲がすっと入り、馴染んだ。気に入った足元を、しかし、濡れるのを恐れた記憶はない。
濡らしたくないと思い始めたのは、ヒールのある靴を履くようになってからだろう。足を拘束され、痛めつけられることはいやではなかった。ヒールを好む多くの女性がそうであるように、緊張と苦痛に陶酔した。靴が濡れて型崩れをおこすと、ヒールのその機能も崩れることは容易にうかがえた。
「でも、ヒールの、しかも白っぽい靴で、小雨の中めっちゃ走ってたことあるよね?」
「あ…。うん」
少し疲れていて、早く帰りたくて、電車を逃したくなかった。日はすっかり暮れていた。スエード調の素材で色はサンドベージュの靴はおろしたてだったが、だめにするのを覚悟して雨の中を走りだした。途中、速度を落としてこの人に声をかけ、追い抜かしてまた走った。
「覚えてる?」
「うん」
「そっか。うれしいな。走るイメージなんかなかったのに、いきなり雨の中ダッシュしてて、あんな靴だし、けっこう速いし、転ぶのも濡れるのも、汚れるのも、心配で。…ちょっと惚れたな。ちょっとじゃねぇか」
「…」
窓の外の雨足は、あの日よりもずっと強く激しく、家や地面を叩き土砂降りの音を立てていた。昼間であるが薄暗い。
「おれ、雨苦手で、なんとなく気分が暗くなるんだけど、あれだけはいい思い出だな」
「…そう」
「あや香は、雨嫌いじゃないんだ?」
「そうだね。今日みたいに家の中に籠れるなら、けっこう好きかな。感傷的というか、少しえっちな気分にもなるかも」
「ほんとに?じゃあ、おれも雨が好きになったよ」
「ふふ」
「あ、笑った」
「…」
雨音がうるさいほど、感じる静寂がある。世界から切り離されたようで安心する。胸がゆるまる。息をつく。
別れきれない恋人と電話する。ベッドに寝そべり、ピロートークのようなささやき声で、ピロートークのような話をする。できるのは、雨のせい。
(了)