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アニメ感想 アーケイン

 日本のアニメが世界一だって? ハハッ……そんなこといまだに言ってるのか。
 完全敗北だよ。この作品に。今の日本に『アーケイン』を超える作品は生み出せない。

アーケインを制作したフランスのアニメ会社


 『リーグ・オブ・レジェンド』はプレイ人口1億8000千万人を誇る世界最大のオンラインゲームである。そのアニメーション版がこの作品『アーケイン』だ。
 フランスのアニメーション会社「Fortiche Production(フォルティッシュ・プロダクション)」が制作。監督はクリスチャン・リンケとアレックス・イーの2人。
 フォルティッシュ・プロダクションの歴史は浅く、2009年にパリにて設立。主にビデオクリップやコマーシャルアニメーションを中心に作品を手がけていた。ゲーム会社であるライオットとのコラボレーションは2013年から始まり、以来『リーグ・オブ・レジェンド』に関連する様々なアニメシーンを制作した。従業員数は300人。今回の作品では500人にもなるアーティストと協力して制作した。実質大作アニメ映画並みのスケールで、フランスアニメの総力戦のような作品が本作である。
(フランスは日本のようにアニメーターの数も多くないはずだから、500人ものアニメーターを動員したということは、本当に総力戦だったのかも知れない)
 フォルティッシュ・プロダクションの実績は、CMなどを除くと、2015年のマーベル映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を題材にした短編アニメーションシリーズ『ロケット&グルート』と、本作『アーケイン』しかない。それくらいに業界的には新興のアニメーション会社である。だがそれだけに、アニメ業界の常識やしきたりに縛られない自由な発想で新しいアニメスタイルを築き上げられたともいえる。

 そんな新興アニメ会社から生み出された作品が『アーケイン』だ。2021年11月にNetflixで公開され、Netflixが配信する52カ国ほぼ全てで初週視聴数1位を獲得(米国のみ2位)。米国大手映画批評サイトRotten Tomatoesでは批評家100%、観客98%という異例ともいえる高得点を獲得。『スパイダーマン:スパイダーバース』が批評家97%、観客93%であるから、この異常ともいえる高得点の凄さがわかるだろう。
 原作である『リーグ・オブ・レジェンド』を知らなければこのアニメシリーズは楽しめないのか……というとそんなことはまったくない。まず私が『リーグ・オブ・レジェンド』を知らない。どんなゲームかすら知れないが、充分に楽しめた。一応、今回の感想文のためにオリジナル版の設定も読んでみたけれど、部分的な設定は共有しているが本作を見るために知らなくてはならない特殊な設定はなさそうだった。主人公であるヴァイ&パウダーはゲーム版でもプレイヤーキャラクターとして登場しているが、そちらの設定を読んでも特に重要そうなものは何も書かれてなかった。というのもゲーム版ではヴァイ&パウダーはどうやら知人らしい……くらいの設定しかなく、本作『アーケイン』で初めて実は幼い時を一緒に過ごした者同士……というストーリーが明かされたというくらいだから、オリジナルのゲーム版を知っていても知らなくても印象が変わることはなさそうだ。

作品のルック イラストレーションのようなスタイルと、アニメーションの良さ。

 まず作品のルックだが、基本的には3DCGモデルが中心になっている。こういったスタイルは、日本ではポリゴン・ピクチャアズやサンジゲン、神風動画、オレンジといった制作会社が浮かぶが、これらが目指している作品は一貫して「セルルック」、すなわち「セルアニメふう」の画面である。いかにして手書きの線の書き味を再現できるか……その試みに終始している。
 一方、本作『アーケイン』は厚塗りのペイント画ふうの絵をテクスチャーとして貼り込んでいる。画面を止めると、キャラクターが背景と一体となって、全体が完全な「イラスト」に見えてしまう。「アニメを見ている」という感じはなく、イラストを見ている印象だ。
 日本のアニメでは「背景/キャラクター」は次元の違うもの……と割り切った上で楽しまなければならない。「そういうものだ」と頭のチャンネルをそこに合わせた上で楽しまなければならない。

 しかし『アーケイン』の場合は背景とキャラクターが完全に質感が合わせられている。どのカットも、背景の隅っこで動いているモブキャラクターですら、背景にしっかり馴染んでいる。どのカットを見ても、1枚のアートとして成立している。頭のチャンネルを調整する必要なく、1カット1カットを純粋なイラストレーションとして映像を楽しめるように作られている。
 アレクサンドル・ペトロフの『老人と海』や『春のめざめ』といったオイルアニメの質感を、デジタル的に再現してみせた作品だ……ともいえる。
 こういったアニメーションのスタイルは、デジタル技術が生まれた……という当初の頃からイラストレーターたちが夢想していた表現で、短編アニメとして試みた人はいたのだけど、シリーズアニメとして挑戦されたのは初。むしろどうして今の今まで誰も挑戦者がいなかったのか……というくらい。日本が「セルルックの再現」に足を取られている間に、フランスでは誰もが夢想していた表現に到達していた。

輪郭線に強い光が当たって、キャラクターが浮かび上がっている。光の当たっているところの色彩感がバッチリなので、イラストを見ている以上の感動を与えてくれる。

 『アーケイン』を見ていると、単にペイントふうのテクスチャーを貼っただけではない、不思議なリアリティを感じる瞬間がたくさんある。この理由は2つ。
 1つ目には光の表現。『アーケイン』には2種類の光源が使われている。全体にふわっと当たる光と、コントラスト高めのくっきりした光。この2つがほどよく組み合わされ、キャラクターに「本当の光」が当たったように見える。
 アニメにおけるキャラクターの光表現は、基本的には「色彩表現」となる。背景などは、アニメ用語でいうところの「透過光」や「スーパー」という表現があり、これで本当に発光させているのだが、そういった表現は背景に当てられるものであって、キャラクターに当てられるものではない。キャラクターの光表現は基本的には色彩表現。例えば髪や瞳に入るハイライトなどは、色の変化で見せることが一般的だ。
 『アーケイン』の光表現も実は色の変化でしかないのだけど、キャラクターが厚塗りペイントふうのテクスチャーが貼られ、さらに色表現がバッチリ決まっているので、ある瞬間、絵がただの「厚塗りふうの絵」を越えて写真を見ているような気分にすらさせる。もちろん、よくよく見てみるとデフォルメされたキャラクターに誇張の入った背景なのだけど、背景から差し込む光とキャラクターの色彩がバッチリはまると、それ以上のものに見える効果を発揮している。

扉から強めの光が差し込んでいる。扉の近くにいるキャラクター達は光に溶け込んでいる。しかし扉の手前にいるキャラクターは逆光になっている。さらに手前に座っているヴァイは、像がくっきり浮かび上がっている。複雑な光表現をうまく表現しているワンカット。
暗がりのなか、ランプの明かりだけで、キャラクターたちの姿が浮かび上がっている。これだけでも、一枚絵として成立している。
酒場ラストドロップ。陰湿な地下街の酒場だが、このシーンは背後から柔らかな光が当てられ、穏やかな雰囲気で描かれている。ヴァンダーの人柄を、一枚絵で表現されたカット。この後、酒場内の奥のテーブルへ移動するが、光がすーっと引いていくように描かれている。光で場面を演出しようという意図があることがわかる。
光源は下から。頭部全体にふわっと光が当たっている。頭の上の方が暗がりに沈みかけている。
同じく頭部を描いたカット。傘を差しているので、頭に影か被っている。目に入ったハイライトだけが、薄らと浮かび上がる。日本のアニメでは、顔を見せるカットでもここまで暗さを表現することはあまりない。


ヴァイやパウダーたちが執行官に発見されるシーン。不気味な雰囲気を出すために、光は極端に暗く、しかしアーマーがチラチラと光っていかめしいシルエットで見せようとしている。ヴァイやパウダーから見て、執行官がどのように見えているのか……を表現したシーンだ。
評議会の一同。こちらも不穏な雰囲気を出すために、キャラクターのディテールがあえてほとんど確認できないように、陰気に描いている。ただ、みんな気取ったふうに立ちポーズを決めているので、おかしなシチュエーションでもある。
雨の中、とある貴族屋敷の前にやってくるジェイス。鉄格子門の前の暗く影が落ちた雰囲気と、照明の下の少女の存在がうまい対比になっている。

 もう一つがアニメーション表現。“動き”が非情に良い!
 「漫画表現」とは何か? たぶん「漫画ふうのキャラクター」と答える人は多いと思うが、私は「省略と象徴」と答える。「漫画ふうのキャラクター」はこの「省略と象徴」によって生み出されるものである。「漫画ふうのキャラクター」のさらに上に、漫画の本質は隠れている……と私は考えている。
 アニメーションも基本的には「省略と象徴」によって動きが作り出されている。アニメーションで表現される歩き方や振り向き方は、リアルな人間の動きを再現したものというより、どこか省略され、象徴化された動きになる。
 対立する表現にロトスコープアニメと呼ばれる表現がある。実際にその場面を実在人物が演じ、その動きをトレースしてアニメーションに落とし込む……という技法だ。アニメ版『指輪物語』がロトスコープアニメの代表作といえるだろう。
 しかし実際の人間の動きをトレースしてアニメに落とし込むと、作品として高品質になるか、優れたものになるか……というと実はそうならなかった。CGがリアルを目指していく過程で「不気味の谷」が生まれるように、アニメ表現も実際人物をトレースして表現しようとすると、同じように「不気味の谷」のようなものが発生する。むしろ逆に違和感だし、それにたいして美しくないという副作用を生み出す。
(こうした事情は最近のアニメーターはよく理解しているから、例えば近作のロトスコープアニメの作例である『かぐや様は告らせたい』では実際人物を全てそのままトレースするのではなく、様々に省略と誇張が施されたうえで制作された。そもそも実在人物とアニメキャラクターは体型がまるっきり違うので、実際の動きをベースにしながら、アニメキャラクターらしい動きが表現されていた)

 アニメーションをよりよく表現しようと思うと、動きも省略と象徴化させたほうがいい。実際のアニメでは目の動き、口の動き、手や足を動かしてのすべての仕草が省略化と象徴化している。絵の表現が省略と象徴で示されているのだから、同じようにアニメーションも同じくらいの表現で示さなければならない。
 この省略と象徴の表現だが、あるラインを越えると、不思議なことになんともいえないリアリティを生み出し始める。例えば希代のアニメーター沖浦啓之(『人狼』『ももへの手紙』の監督)の作品は、あまりにも動きがリアルなので「ロトスコープを使っているのではないか」とよく言われる。しかし沖浦啓之は一度としてロトスコープを使っていない。
 沖浦啓之の描くアニメーションだが、実はよくよく見てみると、そこまで「リアル」というものではない。本当にロトスコープでアニメーションを作り出すと、人間の動きはもっとモタモタして美しくないはずだ。
 そうではなく、アニメの真骨頂とは人間の普段の動きをどのように喚起させるか……にある。何気なく振り向いた瞬間の目線の動き、肩の見え方や、歩き出す時の足の運び、コケる時のバランスの崩し方……。そうした動きが実際に我々がよくしている、あるいは見たことがある……と思わせた時、省略と象徴化されたアニメーションの中からリアリティを感じさせる。

 沖浦啓之の場合、それが異常なほどに精密だから、脳のほうが勘違いして「ロトスコープを使っているのではないか」と思わせるくらいの領域まで来ている……というだけの話だ。実際には普通に原画が描かれ、詰め指示が描かれ、その間を動画マンが描いている。普通のアニメの制作法で作られている。特別なことは何もしていない。
 宮崎駿アニメの良さは、そこからいかにして跳躍するか。以前にも取り上げた『ルパン三世 カリオストロの城』の名シーンである、ルパンが屋根をダーッと駆け下りていき、鮮やかに三段ジャンプしてクラリスが幽閉されている塔に到着するあのシーン。あのアニメーションだが、3流2流アニメーターが描いたらどうなるか? ただただ嘘くさいだけのシーンができあがる。あり得ない動きだけど、その瞬間「本当」と感じさせること。リアルではないはずなのにリアルだと感じさせること。宮崎駿アニメーションはそれをやすやすと描いてみせるところに凄みがある。それができるのは、宮崎駿がとことん人間を観察し、それをあの柔らかな絵の世界に落とし込むことに天才的なほどに長けているからだ(描こうと思ったら誰でも描けるけど、説得力を伴った描写にできるか……というと無理)。

 『アーケイン』に話を戻すと、こういうクリティカルなアニメーションだらけなんだ。ただテクスチャーに厚塗りペイントふうの絵を貼りました……というだけではない。単純にアニメーションの作りが素晴らしい。何気なく脚を組む動きや、髪をかき上げる動き……。そういった何でもない動きに、ハッとさせるようなリアリティを感じさせるように描いている。『アーケイン』のアニメは、全編そういうクリティカルなアニメーションだらけ……というトンデモ作品なのだ。

キャラクターの口パクは、口の中の動きが想定されている。日本のアニメでは、口は表面的に、「開き口・中口・閉じ口」の3パターンしかない。こうした立体的なCGを作った場合、口の中の空間を意識した方が、実在感が表れてくる。
両親の死体を見て、泣き崩れるヴァイ。顔が痙攣し、口から息が漏れ、それから涙が流れる。会心のアニメーションだ。リアルではないが、このアニメを見た瞬間、リアルに感じられる。
気になっているのが遠くのキャラクターの表現。セルルックアニメの場合、遠くにいるキャラクターを表現する際、いったん手前に引っ張り出して、書き込んでから縮小する……というやり方がある。しかしこれをやると、線の密度感に違和感が出る。宮崎駿監督の言葉だが、「遠くにいるキャラクターを表現する場合、空気が線を食っていくところを想像して描け」という。本作の場合は遠くにいるキャラクターの密度感のコントロールはどうやっているのだろうか?

 シリーズの冒頭シーンからその見事さが現れていて、少女のヴァイが両親の死体を見た時、体がピクピク痙攣し、口から呼吸が漏れていき、その後感情が高まって涙が溢れ出す……という動き。リアリティあふれる動きか……というとぜんぜんそうじゃない。人間の顔はあそこまで急速に動かない。しかし私たちの記憶の中にある、「泣き出す瞬間のあの顔の痙攣だ」と喚起させる。記憶を喚起させる動きを達成しているから、その動きに説得力が生まれる。これも単に厚塗りペイントふうのテクスチャーを貼りました……という以上の感慨を生み出す理由である。

 と『アーケイン』は単純に1枚絵としての完成度を目指した……という以上のアニメーション表現を追求している。だからこそ、見ているとどこか「実写を超えている」と感じさせる瞬間がたくさんある。あの絵が動き出すとゾクゾクする。そういった感慨を生み出すのは、光(色彩)表現とアニメーションが常に一体となって一つの画面を構築してくれているから。
 フランスが本気になったら、どこまですごいアニメが生み出せるのか……この時点で、日本がモタモタしている間に完全に「追い抜かれた」と感じさせるところである。

ストーリーは? 格差社会が生み出す対立

 次にストーリーを見てみよう。

 舞台は上流階級が住むピートルヴァーと貧民区ゾウンが中心で、この2つの区画に住む人達の対立が物語の中心になっている。
 主人公ヴァイとパウダー、それにマイロ、クラガーをくわえた4人が、ピートルヴァーのある屋敷に窃盗するために潜入する……というのが冒頭15分ほどのストーリーだ。
 しかし、そこで思わぬ事故が起きてしまい……これが後々の物語に響いてくる。

上流階級の人々が住むピートルヴァーの町並み。

 まず上流階級ピートルヴァーの町並みを見てみよう。直線と斜め45度のラインを組み合わせたシンボルが町中の至る所で反復されている。これがピートルヴァーの街の規律正しさ“理性”を表現し、全体が計画的な区画整備によって作り出された都市であることがわかるし、街全体が一つの美意識で統一されて、その風景が非常に美しい。この辺り、フランス・パリのアニメーションスタジオならではの発想なのかも知れない。
 窃盗に入ったヴァイとパウダーたちだが、しかし“ヘマ”をしたために執行官に追われながら逃亡。この逃亡過程で、ピートルヴァーの高級住宅街を通り抜けて、貧民区“地下都市”ゾウンまでのグラデーションがわかるように描かれている。

高級住宅街と貧民区を切り分ける橋。物語上の重要な拠点として何度も登場する。

 作中「地下都市」という言われ方をしているが、実際には「橋を隔てた向こう側」の街である。橋を境にして、街の文化が切り分けられている……という構造だ。この橋はシンボル的な舞台となり、後々「貴族VS貧民」の主要舞台として何度も登場する。

貧民区の風景。ボロボロの壁、剥き出しのパイプ。とにかくも汚い。

 この橋を越えたところで、住宅のグレードは一気に落ちていく。壁は薄汚れているし、不格好なレンガを積んだものや、無理矢理に土壁を当てただけのような住宅が現れてくる。でも橋を越えてすぐくらいのところは、意外とまだ直線と斜め線の組み合わせのシンボルが見られる。橋の間際まではまだ“中流階級”くらいの住宅で、奥へ奥へ行くごとに住宅のグレードはどんどん落ちていくという構造だ。

下層民の街をずーっと進むと海に突き当たる。船が停まっている様子が見える。ここが街の最果ての部分だ。
エレベーターで降りていったところに、本当の下層民の街ゾウンがある。

 街をそのままずーっと奥まで行くと海に行き着いてしまう。地下都市はその辺りではなく、そこからエレベーターに乗って下へ降りていったところにある。文字通りの地下都市で、縦に真っ直ぐな穴が掘られて、その壁にしがみつくように住宅が作られている街だ。
 「炭鉱」の話題がちらっと出てくるから、もしかしたらかつてそこが石炭が採掘された舞台なのかも知れない。どこかの時点ではピートルヴァーとゾウンは石炭をやり取りする関係性で成り立っていた可能性がある。ゾウンが石炭を採掘し、ピートルヴァーが購入し、ピートルヴァーがさらに外の世界と交易する……。
 炭鉱中心の経済が発展し、その労働者のために人々が集まって街を作り……しかしやがて石炭が掘り尽くされ、住民たちが取り残されていった……。ゾウンは石炭に変わる産業を見いだすことができず、そのうちにもピートルヴァーの高級住宅街と文化観が切り分けられていき、どうしようもない格差社会の現場となっていった……といった感じだろうか。
 ピートルヴァーとゾウンは石炭で交易していた時代では二人三脚で発展していたはずだが、石炭が掘り出されなくなったと同時にゾウンは見捨てられ、社会的な保障からも切り捨てられ、ピートルヴァーの人々はやがて“橋向こうの人々”を差別的な目を向けるようになり……。やがて格差社会が憎悪を生み出す火種となっていった。
 ゾウンの街を見てみると、一貫した様式というものはない。どの家も不揃いだし、形が不格好だ。だが、細かく見ると不格好だが窓のフレームに曲線を作ろうとしていたり、そこにあるもので生活をより良く彩ろうという工夫は様々に見られる。

 ゾウンの最下層は犯罪組織をまとめ上げるシルコのアジトだ。その建築は地下に張り出した構造になっていて、その最下層部分は海と接している。ゾウンの最果て、ゾウンの忌まわしき暗部がそこに集まってくる……というシンボル的な描き方になっている。

 物語中では度々「敬意を払わせる」という台詞が出てくる。ゾウンの人達は、ピートルヴァーの人々から「尊厳」を奪い取られたのだ。ゾウンに生まれた、というだけでまともな生活もできない、教育も受けられない、医療もない……。そういう状況に対して、橋を越えたすぐそこ、という立地でありながら、手を差し伸べようともしない。ピートルヴァーの人々の傲慢とエゴ(日本だとこういう境遇を示して「自己責任」という言葉で断罪したがる。それがピートルヴァー的な傲慢)。作中では描かれないが、もしかしたら何かしらで搾取的な関係にあるのかも知れない。かつての時代ではピートルヴァーとゾウンは経済的な取引があって両立していたはずだが、石炭が出なくなると同時にピートルヴァーはゾウンを見捨てた。それがゾウンの人々にとっては許せなかった。
 地下都市ゾウンの人々はそれで度々“力”でピートルヴァーの人々に異議申し立てをするようになり、ピートルヴァーもやむなく“力”で押さえつけようとする。そういう“こじれた”関係に陥っていた。

 それが冒頭数分のシーン。怒りを爆発させたゾウンの人々が、橋を舞台に戦争を仕掛けた。
 しかし、結局なにも変わらなかった。なにも変わらなかった上に、ただただ人が死んだ。何人もの仲間を死なせてしまった……。
 ゾウンのボス的存在であるヴァンダーは、その時のことを激しく後悔し、以降はゾウンの鬱憤を抑え込む調停者の立場になっていく。
 一方の執行官側も、ヴァンダーを頼りにしていた。地下都市の人々の鬱憤が爆発してまた戦争が起きたら、執行官側も多くの犠牲者を出す。お互い犠牲者を出さないように持ちもたれつ……の関係になっていた。

 だがヴァイたちが窃盗に入った時、そこにあった実験物を爆発させてしまったことで、どうにもならない事態に陥ってしまった。爆発は凄まじく、アカデミーの屋敷を一部完全に崩壊させてしまった。執行官側も見過ごすわけにはいかない。ピートルヴァー世論も怒り狂っていて、地下都市の誰かを“生け贄”として差し出さないと抑えられない状況になってしまった。ゾウン側の鬱憤が爆発する前に、ピートルヴァー側世論が爆発して「戦争だ!」という状況に陥るかもしれない……。
 ゾウンのボス的存在であるヴァンダーはどうにかゾウンとピートルヴァーを押さえるために立ち回ろうとする。しかしヴァイも「奴らに敬意を払わせたい!」と押さえようのない怒りを抱えていて……。

執行官たちは地下都市に入っていく時、マスクを着用する(ピートルヴァーではマスクをしない)。ということは、地下都市の空気は相当に淀んでいるのだろう。もしかしたら地下から噴き出している排ガスもあるのかもしれない。地下都市の住人は、生まれながらこの環境という人々も多いから、淀んだ空気に順応している。しかしピートルヴァーから来た人々には地下の空気はキツいようだ。


 一方、ピートルヴァー側も「尊厳」を奪われた人がいた。ヴァイたちに窃盗に入られ、挙げ句研究室を木っ端微塵に吹っ飛ばされた研究者ジェイス・タリスである。研究所が吹っ飛ばされたことによって、いったい何を研究していたんだ、と調査が入ったのだ。そこで違法な器具がいくつも発見されて(ジェイスはたびたびゾウンを訪れ、そこでジャンク品を買い集めていた)、さらに危険な爆発物を制作し「アカデミーを危険にさらした」として収監されてしまった。
 ジェイス・タリスは評議会の人々の前で弁明するが誰も耳を貸してくれない。これはすごい研究なんだ! 魔法……つまり“アーケイン”を魔力のない者でも利用できるかも知れないんだ! と訴えるが、誰も聞いてくれなかった。

ピートルヴァーの住人であれば誰でも豊かな生活が送れるか……というとそうでもない。ピートルヴァーの中でも「下層市民」という階級がいる。どこまでいっても「階級」はつきまとってくる。

 ジェイスの母親の涙の弁明のおかげで、自宅謹慎で許されたジェイスだったが、今後の研究の機会はすべて奪い取られてしまった。
 ジェイスの家庭は元はハンマー工房職人だったが、それはピートルヴァーの中でも下層のほう。ジェイスは懸命に勉強し、成功の機会を掴んでいたのだが、それが足元から崩されてしまった。
 ジェイスもジェイスなりに、「下層民」という立場から抜け出して、「尊厳」を得たいとあがいていた。……しかしあの窃盗事件でチャンスを失う。

 だが、ジェイスのもとに思わぬ理解者が現れる。学長の助手であるビクターだ。ビクターは「世界を変えるつもりなら、誰の許可を乞うな」と協力を申し出た。ビクターはまさにゾウン出身者で、尊厳を得たいと願っていた1人だった。
 しかしジェイスは研究室も研究機材も取り上げられてしまっていた。そこでジェイスとビクターは共謀し、押収された機材のある保管庫へ忍び込み、そこで研究を完成させようとする。
 ジェイスとビクターにとって、研究者としての「尊厳」を掛けた物語が、ここに展開していた……。

 さて、1月はじめ頃の話だが、Twitterであるお話が話題になっていた。お話をまとめると、「作者の作為が感じられる作品はダメ」という話だ。「良い物語とは、キャラクターが自律的に物語を紡いでいるように感じさせなければならない。そこに作者の作為が込められているような気がすると、途端に物語は嘘くさく感じられるようになる」……とここまでは言ってなかったが、要約するとこういうことになる。
 私からはそこに異議はないが、しかし一つ付け足したい。物語をより素晴らしくするために、「事故」を起こしたほうがよい。それを「運命」とか「奇跡」という言い方をしても構わない。物語は「事故」が起きると、途端に輝き出す。
 だがこれが非常に難しい。不用意に描くと、それこそ作者の作為が感じられてしまう。作者の作為を感じさせず、キャラクター達が自律的に物語を紡いでいるように見せて、なおかつ「事故」を起こす。難しいが、これがうまくできれば、物語は途端に良くなる。
 なぜ事故を起こすと良くなるかというと、単純にキャラクターだけで物語を紡いでいくと、予定調和にしかならないからだ。事故が起きれば、その流れをすべて変えられる。そこを起点に、物語は一気にドラマチックに展開していく。どこか作者の意図を越えた意外性が生まれれば「事故」がうまく描けているという時だ。
 例えば『魔法少女まどか☆マギカ』での巴マミ死亡の事故。あの事故があったから、『魔法少女まどか☆マギカ』はこれまでの魔法少女アニメとは違う次元へ一気に色彩が変わっていった。事故は観客にショックを与えると同時に、物語そのものにもショックを与えられる。

 『アーケイン』の場合、第3話のクライマックスでとある「事故」が起きる。引き起こすのはパウダーだが、意図していない……というかパウダーが意図していたものはもっと別の、想像を越えた事故が起きてしまい、ここで物語が一気に転換する。この事故シーンが物語のターニングポイントになる。
 実は第3話以降は、ずっと第3話の延長でしかない。第3話でパウダーが重大な事故を起こしてしまい、友人を2人殺してしまい、信頼していたヴァイから見放される。この事件を切っ掛けに、パウダーは完全に“狂って”しまう。
 この狂気の表現だが、非常にいい。パウダーこと“ジンクス”が登場するシーンはフィルムが抜けているように画面がちらつき始める。パウダーが物事を連続的に捉えることができなくなった……という表現だ。
 パウダーはあの時のトラウマからずっと逃れられず、何度もフラッシュバックするが、そのイメージを避けよう避けようとして、実際に現実をフィルムがパッパッと抜けているように現実を感じている。さらにあの時殺してしまったマイロとクラガーの幻影がずっとチラチラと頭の片隅に現れる。そのノイズのような幻影から逃れようと、叫んだり暴れたりし始める。
 パウダーはあの事故のトラウマをずっと乗り越えられない少女……として描かれる。罪悪感を抱えているから自傷的に体を壊してしまうし、逆に「私のせいじゃない」と暴れ回っている。かつて見捨てられたトラウマもあるから、自分に対する嘘や不誠実が絶対に許せない。
 だんだん「女ジョーカー」みたいな振る舞い方をし始めるのだが、それがあの時の事故がすべての切っ掛け……として納得できるものとして描かれている。
 前半第3話まではヴァイとパウダーは結束し合っている関係性として描かれているが、「事故」を切っ掛けに、その関係性が逆流して、以降は対立し続ける関係になっていく。

 実はヴァイとパウダーのような関係性は、作中にもうひと組描かれていた。貧民区ゾウンのボス的存在になっているヴァンダーと、そのゾウンの中でももっとも凶悪な犯罪者を束ねるシルコだ。
 ヴァンダーとシルコの関係は最後まで深く掘り下げられないが、ヴァイとパウダーの関係性をなぞっているので、そこでなんとなくわかるように作られている。ヴァンダーとシルコの対関係によって、ヴァイとパウダーの対関係が補強されている……という構造だ。
 シルコはかつてヴァンダーと深く結束していたから、自分を捨てたことが許せない。シルコがパウダーに深く同情し、まるで父と娘のような関係性を築き始めるのも、パウダーの中に自分自身を見出していたからだった。
 シルコはパウダーの能力が高かったから大切にしていたわけではない。自分自身を見ているようだったからこそ、大切にしていたのだった。それは同時に、シルコはまだどこかでヴァンダーに期待していた……ということの現れだった。シルコによるパウダーこと“ジンクス”への想いが、犯罪者をまとめ上げるボスにまで成り上がってしまったシルコに残った唯一の“人情”の部分だった(唯一の人間性であるとシルコ自身自覚していたから、ジンクスを手放したくなかった)。

 研究者ジェイスとビクターの関係性は、やがてビクターが病気で衰弱していくようになっていく過程で変わっていく。ジェイスはどうしてもここまで手助けしてくれたビクターを救い出したい。しかし現代の医療ではビクターは救い出せない。もはや魔法“アーケイン”の力に頼るしかない……。
(ビクターの衰弱は、もしかするとゾウン出身者だから……というのも関係しているのだろうか。幼少期、少年期とゾウンの汚染された空気を吸っていたことが影響しているのかもしれない)
 しかしかつてアーケインによって混沌が巻き起こされた過去を見ているハイマーディンガー教授は、ジェイスの研究を許可することができない。
 アーケインの研究を今すぐにでも推し進めたいジェイスとハイマーディンガー教授との間に軋轢が生まれてくる。ハイマーディンガー教授は自分を庇護してくれた人だけど、ビクターとの友情のためには敵対関係になるしかない。
 ここでジェイスに重い選択肢が突きつけられている。恩師ハイマーディンガー教授か、ビクターとの友情か……。
 キャラクターの行動や言動に、作者の作為を感じさせてはならない。しかしドラマを推進させていくために何かしらアクションを起こさねばならない。私はこれまで「キャラクターが○○したい物語」は弱いと書いてきた。それは単にキャラクター達の自由意志であって、ドラマを推進するための根拠になり得ない。「キャラクターが○○しなければならない物語」にしたほうが、キャラクター達を追い詰め、そこからドラマが生まれてくる。ただし、そこに一定の合理性がなければ納得感も生まれない。
 本作の場合、「友人の病気」という課題が与えられ、苦悩するジェイスが描かれている。この葛藤がドラマの中心になっている。

日本の完全敗北 アーケインを越えるアニメは日本にない!

 ちょっとした余談だが、本作『アーケイン』は『リーグ・オブ・レジェンド』の「前日譚」として描かれている。それでゲーム版でのヴァイだが、ビジュアルを見ると凶悪なパワーグローブを身につけている。『アーケイン』の物語後半で、ヴァイがこのパワーグローブを発見し、身につける場面が描かれる。
 要するにココは、ゲーム版との設定的な整合性を整えた場面だ。ここが上手いと思えるところで、「ゲーム中のアイテムを登場させました、ファンなら喜ぶでしょ」……という雰囲気がない。展開として不自然さがなく、ごく自然な成り行きでパワーグローブを身につける。
 ゲームのアニメ化、映画化でしばしば起こりうることに、ゲーム中のキャラクターやアイテムを無理矢理に登場させること。原作ファンを喜ばせるため……というやつだけど、原作ファンからするとそれは余計。むしろ物語として不自然さが出るから、やめてくれ……というやつ(これがあるからゲームの映画化はなかなか上手くいかない)。「作者の作為」が感じられる場面だ。
 でも『アーケイン』はゲーム中の設定に合わせるよう物語が展開していっても、作者の作為を感じさせない。ずっとキャラクター自身が物語を紡いでいるように感じさせる。アニメを見ていて不自然さがまったく感じなかったし、あとでゲーム設定でヴァイがあのパワーグローブを身につけている姿が元設定だと気付いた。それくらいに脚本の巧さがあった。

 話を戻そう。
 ジンクスを正気に戻したいヴァイと、研究者ジェイスとビクターの友情物語、もう一つ、ピートルヴァーとゾウンの関係性も緊張していき、やがて戦争へと突入しようという事態に入っていく。複数の物語が入り乱れて、緊張感高いドラマが築き上げられていく。
 この重厚な物語の上に、どのシーンを見ても高品質なイラストレーションのような絵が展開していく。映像を見てもゾクゾクするし、物語を追っていってもゾクゾクする。
 この両方が最近見たどんなアニメよりも1歩も2歩も……いや10歩くらい前へ出ている。「アニメの未来」を感じさせる作品だ。10年語りうるシリーズアニメの傑作にして新しい名作。今までは世界が日本の背中を追って走っていた。これからは、フランスアニメの背中をみんなが目標にするだろう。未だに「日本のアニメが世界一」と言っている人は、まずこの作品を見るべきだ。日本は負けたのだ……と気付くべきだろう。


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